第10話 ― オムライス
日曜日の朝
フォレストは、いつもとは違って静かだった。
今日はフォレストの定休日だった。
仁はいつもより少し遅く目を覚ました。
ベッドから体を起こした仁は、しばらく何も言わず天井を見つめていた。
普段なら、今頃は準備をして一階へ降りていた時間だった。
しかし、今日は出勤する必要がなかった。
「……今日は休みの日か」
独り言を呟いた仁は、再びベッドに体を横たえた。
しかし、ほどなくして再び体を起こした。
眠れなかった。
結局、仁は顔を洗い、着替えてから一階へ降りた。
リビングではモチがソファの上に座っていた。
仁を見つけたモチがゆっくりと顔を上げた。
「起きたか」
仁が近づくと、モチはソファから降りて仁の足に体を擦りつけた。
仁は自然にモチの頭を撫でた。
「今日は出勤しなくてもいい」
「……」
モチは答える代わりに尻尾を振った。
仁はしばらくモチを見つめてからソファに座った。
テレビをつけたが、特に見たい番組があるわけではなかった。
ただ画面を眺めながら時間を過ごした。
しばらくすると、階段から足音が聞こえてきた。
「え? 仁さん?」
花子だった。
いつもとは違い、エプロンをつけていないラフな格好だった。
仁は花子を見つめた。
「おはようございます、花子さん」
「おはようございます」
花子はあくびをしながらソファに座った。
そして、しばらくリビングを見回した。
「今日は仁さんもゆっくり休む日ですね」
「はい」
「それなのに、仁さんはどうしてこんなに早く起きたんですか?」
「普段の習慣のせいだと思います」
花子が小さく笑った。
しばらくして、花子が尋ねた。
「今日は何かしたいこととかないんですか?」
仁は少し考えた。
「特にありません」
「私もです」
二人の間に、少しの静寂が流れた。
普段なら客が来て、犬がやってきて、トリミングで忙しくしている時間だった。
しかし、今日は何もなかった。
ただ静かな休日だった。
仁はソファに座ってテレビを見ていて、モチはいつの間にか仁の隣に体を寄せて横になっていた。
花子はそんな二人を見つめながら、くすっと笑った。
「二人とも完全に家族みたいですね」
仁はモチを見下ろした。
「そうかもしれません」
モチは仁の隣で気持ちよさそうに目を閉じていた。
その姿が、どこか自然だった。
午後
昼食は仁がコンビニで買ってきた弁当で簡単に済ませた
花子はリビングで本を読み、仁はスマートフォンを眺めていた。
時々、二人が短い会話を交わす以外は、静かな時間が続いていた。
仁は窓の外を眺めた。
暖かな日差しが街を照らしていた。
こうして何もせず一日を過ごすのは久しぶりだった。
昔は休みの日だとしても、心から休める日ではなかった。
行く場所がなければ街を歩き回り、一人で食事をして、一人で時間を過ごした。
しかし、今は違った。
自分が過ごす部屋があり
一階には花子がいて
隣にはモチがいる。
そして明日になれば、またフォレストで働けばいい。
昔とは違い、帰る場所ができて
穏やかな時間を過ごす余裕もできた。
仁はそのことを考えながら、小さく呟いた。
「……悪くないな」
「何がですか?」
花子が本から顔を上げて尋ねた。
「いえ」
「何か独り言を言ってたみたいですけど?」
「少し思い出したことがありまして」
花子は少し気になるような表情を浮かべたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、再び本へ視線を戻した。
モチが仁の隣へ近づいてきた。
仁は自然にモチの頭を撫でた。
平凡な午後だった。
しかし、仁はその平凡さが嫌いではなかった。
時間が流れ、夕方になった。
「仁さん」
キッチンから花子が呼んだ。
「はい」
「今日の夕飯は私が作りますから、休んでいてください」
仁は立ち上がり、キッチンへ向かった。
「私も手伝います」
「大丈夫ですよ」
花子が手を振った。
「今日は私が作るので、仁さんはゆっくり休んでいてください」
「ですが、普段も花子さんが全部やっているじゃないですか」
「大丈夫ですって」
花子が笑った。
「今日は特別に、私が作ってあげたいものがあるんです」
「……特別なものですか?」
「秘密ですから、私が『いいよ』って言うまで立ち入り禁止ですからね」
花子はそう言って、再びキッチンへ戻っていった。
仁はしばらくキッチンを眺めてから、再びリビングへ戻った。
モチが仁を見つめた。
「花子さんが特別なものを作ってくれるらしい」
「……」
「何の料理なのかは教えてくれなかった」
モチは尻尾を小さく振った。
「お前も楽しみなのか?」
仁はモチを見つめてから、ソファに座った。
キッチンからは包丁で食材を切る音と、フライパンが熱せられる音が聞こえてきた。
しばらくすると、香ばしい匂いがリビングまで漂ってきた。
仁は何の料理なのか考えてみたが、分からなかった。
そして、ほどなくして花子が仁を呼んだ。
「仁さん、できましたよ」
仁は食卓へ向かった。
そして、皿を見た瞬間、足を止めた。
「……」
皿の上には、黄色い卵に包まれたオムライスが乗っていた。
仁はしばらく無言で見つめた。
「……オムライスですね」
花子が笑った。
「そうです」
「これを……」
仁が花子を見つめた。
花子は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「前に好きだって言ってたじゃないですか」
「……覚えていたんですか?」
「それくらい覚えてますよ」
花子は何でもないように答えたが
実は仁が歓迎会で何気なく言っていたことを、心の中に深く刻んでいた。
仁はオムライスを見つめた。
そして、再び花子を見つめた。
「ありがとうございます」
「大したことじゃないですよ」
「私にとっては、大したことです」
「そうなんですか?」
「はい」
仁はそう言って、椅子に座った。
花子の表情が緊張したように少し固まった。
「いただきます」
仁は大きく一口食べた。
そして、しばらく動きを止めた。
「……美味しいです」
花子の顔に笑顔が広がった。
「本当ですか?」
「はい」
仁はもう一口食べた。
今度は、少し大きく口を開けた。
花子はそんな仁を見つめているうちに、思わず笑い声を漏らした。
「仁さん」
「はい?」
「本当に美味しそうに食べますね」
「美味しいですから」
「そんなに美味しかったですか?」
「はい」
仁は少し考えてから付け加えた。
「今まで食べた中で、一番です」
花子はその言葉に、また笑った。
「じゃあ、今度も作ってあげますね」
仁は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい」
「……それなら、これからも楽しみにしています」
仁の口元に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。
花子はその姿を見つめながら、しばらく動きを止めた。
初めて会った時は、怖い人にしか見えなかった男だった。
しかし、今は違う。
犬を優しく撫で
美味しい料理を食べながら笑顔を見せ
平凡な一日を穏やかに過ごす人。
花子はそんな仁を見つめながら、小さく笑った。
「やっぱり仁さんって、面白い人ですね」
「そうですか?」
「はい」
仁は再びオムライスを食べ始めた。
食事を終えると
仁は席を立った。
「私が洗い物をします」
「私がやりますよ」
「花子さんは料理をしたんですから」
「せめて洗い物くらい、私にさせてください」
仁は皿を持ち上げた。
花子はしばらく仁を見つめてから笑った。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
仁はキッチンへ向かった。
花子はその姿を見つめた。
キッチンからは水の音が聞こえてきた。
モチは仁の後をついていったが、再びリビングへ戻ってきた。
そしてソファに上がり、体を丸めた。
花子はモチを撫でた。
「今日は本当に静かだね」
「……」
モチは目を閉じたまま、じっとしていた。
花子はそんなモチを見つめてから、キッチンへ視線を向けた。
そこには仁がいた。
そして、その姿が不思議なくらい自然に感じられた。
まるで最初からここにいた人のように。
そうして夜になり、眠る時間になった。
仁は自分の部屋へ戻った。
ベッドに座り、しばらく窓の外を眺めた。
今日一日を思い返した。
特別なことは何もなかった。
朝は遅く起きて
テレビを見て
モチと時間を過ごして
花子と夕食を食べた。
本当に平凡な一日だった。
しかし、不思議と気分がよかった。
仁はゆっくりとベッドに横になった。
そして目を閉じた。
初めてフォレストに来た時は、ここでこんなに長く過ごすことになるとは思っていなかった。
ただ仕事を探して
金を稼いで
生きていくために始めた仕事だった。
それなのに、いつの間にかフォレストで過ごす時間が当たり前になっていた。
自分の部屋も
フォレストも
花子も
モチも
いつの間にか、すべてが馴染んでいた。
仁はしばらく考えてから、目を閉じた。
「……悪くないな」
仁は穏やかな表情を浮かべたまま、ゆっくりと目を閉じた。
そしてその夜、久しぶりに何の心配もなく眠りについた。
仁の初めての日曜日は、そうして静かに過ぎていった。
特別な事件もなかった。
大きな出来事もなかった。
ただ一緒に食事をして
同じ空間で一日を過ごして
普通に笑った一日だった。
しかし、黒沢仁にとっては
どんな日よりも特別な一日だった。
幸せな人生というのは、もしかすると、こうした何気ない一日の中にこそあるのかもしれない。




