2章 第3話
湿った土の匂いと、青臭い草の香りが鼻孔を満たす。
僕は泥だらけの膝を地面につき、指先で慎重に根元の土を掘り返していた。
狙いは『月光草』の根だ。葉を傷つければ薬効が落ち、根を切れば売り物にならない。
慎重に、かつ手早く。
指先の感覚だけに集中し、土の湿り気から根の張り具合を読む。
「……よし、抜けた」
土を払い、麻袋へと放り込む。
これで今日二十本目。規定数はクリアした。
ふと空を見上げると、木々の隙間から見える空は既に茜色に染まりかけていた。
森の気温が下がり始めている。夜行性の肉食獣が目を覚ます時間だ。
長居は無用だ。僕は急いで荷物をまとめ、来た道を戻り始めた。
テットの町に戻り、ギルドのカウンターに麻袋を置く。
係の女性が慣れた手つきで本数を確認し、状態をチェックする。
「はい、今日も丁寧な仕事ね。状態もいいわ」
ジャラ、と。
トレイの上に置かれたのは、銅貨が数枚と、さらに小さな小銭が数枚。
それが、僕の労働の対価だった。
宿に戻り、粗末な木製ベッドの上で、今日の稼ぎを革袋から取り出す。
手のひらに広げた硬貨を見つめながら、僕は小さく溜息をついた。
「……増えないな」
冒険者として登録し、この町で活動を始めてから二ヶ月が過ぎた。
毎日欠かさず依頼をこなし、休むことなく働いている。
それでも、手元に残る金は微々たるものだ。
一番安い宿の宿泊費、朝と夜の簡素な食事代、消耗品である水の補給や、もしもの時のための薬代。
それらを差し引くと、残るのは銅貨が一枚か二枚。下手をすれば手元に何も残らない日さえある。
ジリ貧だ。
家を出る時に持ってきた蓄えがあるからまだ余裕はあるが、それが尽きれば、僕はその日暮らしの労働者と変わらなくなる。
なにより、装備が整えられない。
今の僕は、ガルドさんから買った中古の短剣一本と、旅装束だけだ。
革鎧の一つも買いたいが、この稼ぎでは何ヶ月かかるか分からない。
(リスクを取らなきゃ、何も変わらない)
Fランクの依頼は、街中の雑用や、森の浅い場所での採取が主だ。
誰でもできる仕事には、それ相応の報酬しか支払われない。
今の生活を続ける限り、僕は一生このままだ。
ここから抜け出すには、ランクを上げるしかない。
翌朝。
僕は普段よりも早く宿を出て、まだ人の少ないギルドへと向かった。
早朝のギルドは、夜の喧騒が嘘のように静まり返っている。
カウンターで眠そうに書類整理をしていた受付嬢に、僕は声をかけた。
「すみません。昇格試験の申請をお願いします」
僕の言葉に、彼女の手が止まる。
顔を上げ、眠い目をこすりながら僕を見た。
「……ウィル君? まだ登録して二ヶ月でしょ? 昇格規定の依頼回数は……ああ、昨日で終わってるのか」
数枚の書類をめくり、彼女は少し驚いたような顔をした。
毎日限度枠いっぱいに依頼を受けていたから、規定回数は最短でクリアしている。
「でもねぇ、回数だけこなせばいいってもんじゃないのよ。Eランクからは、基本的に『魔物討伐』がメインになるわ。Fランクとは危険度が段違いなの」
「分かっています」
「まだ若いし、もう少し安全な依頼で経験を積んでからでも……」
「お願いします」
僕の迷いのない視線に、彼女は少しの間ため息をつき、それから諦めたように肩をすくめた。
「……分かったわ。ただし、試験は厳しいわよ。ウチの支部長代理は、実力不足の若者を戦場に送るような人じゃないから」
実技試験は、ギルドの裏手にある訓練場で行われることになった。
土を踏み固めただけの簡素なスペースだ。
そこに立っていたのは、左頬に大きな古傷を持つ、熊のような大男だった。
現役時代はCランクまで上り詰めたという手練れだ。
丸太のように太い腕で木剣を持ち、値踏みするように僕を見下ろしている。
「……随分と小さな志願者だな」
男は低く唸るような声で言った。威圧的だが、暴言ではない。事実を述べているだけだ。
「ここは遊び場じゃねえ。ガキが命を賭けるにしては、稼ぎが見合わねえぞ」
「分かっていします」
僕は自分の木剣を構え、静かに彼を見据えた。
男の目が、すっと細くなる。
「……ほう。迷いはなしか」
彼は木剣を正眼に構えた。
「いいだろう。ルールは簡単だ。俺に一撃でも入れるか、あるいは五分間持ちこたえれば合格。逆に俺が『死ぬ』と判断したらそこで終了だ」
殺気が膨れ上がる。
空気が重くなる。肌がピリピリと痛むほどの威圧感。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
ライオネルとの毎日の稽古で、骨身に染みるほどの圧力を浴び続けてきたおかげだろう。身体が竦むことはなかった。
男が踏み込んだ。
速い。巨体からは想像もできない速度だ。
木剣が風を切る音と共に、頭上から振り下ろされる。
まともに受ければ骨が砕ける一撃。
——見える。
筋肉の動き。重心の移動。踏み込んだ足の位置。
侯爵家の稽古場で、ライオネルに徹底的に叩き込まれた基礎。
脳が瞬時に軌道を予測し、身体が反射的に動く。
半歩、左へ。
轟音と共に、僕の真横を木剣が通り過ぎる。
衝撃波で肌が粟立つ。
その隙だらけの脇腹へ、僕は迷わず踏み込んだ。
だが、
ギンッ!
僕の木剣は、男が咄嗟に戻した腕甲に弾かれた。
硬い感触が手に残る。
「……チッ」
追撃はない。
男がバックステップで距離を取り、油断なく構え直したからだ。
そこからは防戦一方だった。
重い一撃を紙一重でかわし、あるいは受け流すだけで精一杯。
反撃の隙など皆無に等しい。
だが、僕は必死に食らいついた。
泥にまみれ、息が上がり、視界が霞んでも、足だけは止めなかった。
「……そこまで」
不意に、男がバックステップで距離を取り、剣を下ろした。
威圧感が霧散する。
「……はぁ、はぁ……」
僕は膝に手を突き、肩で息をした。
全身が鉛のように重い。
男が深い息を吐き出し、乱れた髪をかき上げた。
「……悪くない、どころじゃねぇな」
男は顎をしゃくると、汗を拭いながら独りごちた。
「……やけに綺麗な剣筋だったな。我流じゃねえ。もしかしてお前……」
男の視線が、僕の顔と剣を往復する。
何かを言いかけ、そして止めた。
武人特有の勘が、僕の背景にある事情――あるいは語りたくない過去を察したのかもしれない。
「……なんでもねぇ。詮索は野暮だな」
男はぶっきらぼうに吐き捨てると、背を向けた。
「合格だ。文句ねえ」
僕は何も言わず、深く頭を下げた。
彼が何を言いかけたのか、僕にも分かっていた。
けれど、言葉にする必要はなかった。
ただ、剣を通じた会話だけで十分だった。
男は顎をしゃくると、それ以上何も言わずにギルドの方へと戻っていった。
数分後。
僕の手には、鈍く銅色に輝く『Eランク』のギルドカードが握られていた。
重い。
たかだか金属の板一枚だが、これは命を賭ける資格を得た証明だ。
僕は受付嬢に小さく頭を下げ、重い足取りでギルドを後にした。
全身が痛む。
教官の攻撃を防いだ腕は痺れ、足は棒のようだ。
『黒猫亭』の狭い部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
手のひらに残る、金属の冷たい感触。
それを高々と掲げ、天井の染みを見つめた。
『ランク:E』
手に入れたのは、魔物と正式に殺し合うための資格。
これで明日から、魔物討伐の依頼が受けられる。
稼ぎは間違いなく増える。だがそれは、命の奪い合いを日常にすることを意味する。
「……ここからが、本当の戦いだ」
恐怖とも興奮ともつかない、重い感情が胸を塞ぐ。
安堵と共に、強烈な睡魔が襲ってくる。
今日はもう限界だ。
泥だらけの服を着替える気力すら残っていなかった。
僕は瞼を閉じ、深く、重い眠りへと落ちていった。




