2章 第2話
ビゼントを出てから、さらに三日が過ぎた。
乗り継いだ乗合馬車は、西へ向かうごとにみすぼらしくなり、舗装されていた街道はいつの間にか土と砂利の凸凹道に変わっていた。
ガタガタと激しく揺れる荷台の隅で、僕はフードを目深に被り直し、膝を抱える。
砂埃の舞う窓の外には、見渡す限りの荒野と、まばらな林が広がっているだけだ。
僕の正体に気づく者どころか、行商人の姿さえ稀だ。
ここは、領の最果て。
地図の端に辛うじて載っている辺境の地だ。
日が傾きかけた頃、馬車はようやく速度を落とした。
「着いたぞ。終点のテットだ」
御者の嗄れた声に、僕は顔を上げた。
目の前には、石と木材を継ぎ接ぎしたような粗末な城壁と、その向こうに広がる小さな町並みがあった。
華やかさなど欠片もない。建物はどれも低く、壁は風雨に晒されて煤けている。
だが、僕にとってはそれが好都合だった。
こんな寂れた田舎町に、侯爵家の威光など届くはずもない。
誰も僕の顔を知らないし、興味もないだろう。
馬車を降り、僕はまず宿を探した。
選択肢は多くない。目に入った『黒猫亭』という看板を掲げた宿に入り、銀貨一枚を払って部屋を取った。
部屋は狭く、ベッドと小さな机があるだけだ。壁も薄いが、鍵だけはしっかりとかかる。
荷物を置き、ベッドに腰を下ろす。
懐から革袋を取り出し、中を改めた。
金貨の枚数は変わっていない。まだ当分は食うに困らない額だ。
だが、安堵はなかった。
「……移動ばかりしていても、な」
用心のため、なるべく遠くに移動はしているが、どこまで移動すればいいか、なんて基準はない。
それに移動を重ねるたび、路銀は確実に減っていく。
今は良くても、いずれ底をつく。どこかで覚悟は決めなくては。
そして何より、この世界で生きていくための「身分」が必要だ。
今の僕は、どこの誰でもない不審な子供でしかない。
僕は革袋を懐に仕舞い込み、再び深くフードを被った。
行くべき場所は決まっている。
◇
冒険者ギルド『テット支部』。
町の中心から少し外れた場所にあるその建物は、周囲の民家より一回り大きく、頑丈そうな石造りだった。
冒険者ギルドとは、魔物という人類共通の脅威に対抗するため、国境を越えて組織された巨大な互助組合だ。
その歴史は数百年前に遡る。かつて世界中を襲った魔物の大氾濫――『大災厄』の折、各国が抱えていた傭兵やあぶれ者を統率し、効率的に魔物へ対抗するために設立されたのが始まりだと本で読んだことがある。
それから数百年。現在では、その活動範囲は大きく広がっている。
魔物討伐や素材採取といった危険な任務だけでなく、街道の護衛、町中の清掃、力仕事、果ては迷子のペット探しまで。
今やギルドは、対魔物組織であると同時に、人々の生活を支える『万能の便利屋』としての側面も併せ持っている。
その仕組みは実に合理的だ。
ギルドは国から独立した組織として認められ、代わりに国内の魔物退治や治安維持の一翼を担う。国としては、維持費のかかる正規軍を動かさずに魔物被害を抑えられ、また腕に覚えのある厄介な荒くれ者たちをギルドが管理してくれるため、都合が良い。
その持ちつ持たれつの強力な結びつきゆえに、ギルドが発行する身分証は各国で公的な証明書として通用するのだ。
運営資金は、依頼の仲介手数料と、魔物から得られる素材の独占的な卸売による利益で賄われている。
だが、単なる斡旋所ではない。ギルドには独自の『法』があり、所属する冒険者に対して強力な強制力を持っている。もし冒険者が重大な規約違反や犯罪を犯せば、ギルド専属の監査部門――通称『処刑人』が動く。全土のギルドに手配が回り、大陸中どこにも逃げ場所はなくなるという徹底ぶりだ。
徹底した管理と、国との強い信頼関係。
だからこそ、その身分証には絶大な信用がある。
扉を開けると、中は思いのほか静かだった。
漂っているのは、乾いた空気と古びた紙の匂いだ。
室内は飾り気がなく、長机とベンチが並べられているだけの簡素な作りだ。
中にいるのは数人だけ。掲示板を見ている農夫のような恰好の男と、ベンチで装備の手入れをしている若者くらいだ。
彼らは僕が入ってきても、ちらりと視線を向けただけで、すぐに興味を失ったように元に戻った。
この辺境の田舎町では、子供が小遣い稼ぎや家計の足しにギルドを利用することは珍しくないのだろう。
ただの事務的な空間がそこにあった。
僕はそのままカウンターへ向かった。
受付には、気だるげに書類を整理している若い女性がいた。
「登録をお願いします」
声をかけると、彼女は顔を上げ、僕を上から下まで一瞥した。
「……新規? 十歳くらい?」
「はい」
「名前は?」
一瞬、逡巡する。本名を名乗れば、いずれ足がつくかもしれない。
「……ウィル」
ウィルフレッドから最初の数文字を取っただけの安直な偽名だが、今の僕にはこれくらいが丁度いい。
「ウィルね。代筆は必要? 文字は書ける?」
「書けます」
差し出された用紙に、名前と年齢だけを記入する。
彼女はそれを受け取ると、引き出しから薄汚れた鈍色の金属プレートを取り出した。
「よし、次は生体登録。指を出して」
彼女はこれまた粗末な針を取り出すと、事務的に僕の指先を突いた。チクリとした痛みと共に、血が滲む。
彼女は僕の指を掴み、その血を強引にプレートの表面に擦り付けた。
すると、鈍色だった金属が、血を吸ったスポンジのように一瞬で赤黒く変色した。
「はい、離して」
言われて指を離すと、プレートはまた元の鈍色に戻る。
「もう一回触って」
僕が恐る恐る指先で触れると、触れた箇所からじんわりと赤色が広がり、プレート全体が再び赤黒く染まった。
「よし、定着したわね。これが『感応鉄』よ。吸わせた血の持ち主が触れている時だけ変色する。他人が盗んで持ってきても、色が戻ってればただの鉄屑ってわけ」
「……魔道具ですか?」
「は? そんな高級品、一般ギルドに配備されるわけないでしょ」
彼女は鼻で笑うと、プレートに刻印を打ち込み始めた。
「これで他人に依頼の成果を横取りされる心配もない。はい、手数料銀貨二枚」
夢のない現実的な説明と共に、完成したプレートが放り投げられた。
僕は慌ててそれを受け取る。手の中で、プレートは確かに赤く変色している。
『ランク:F 氏名:ウィル』
「依頼はそこの掲示板。Fランクは薬草採取やドブさらいがメインよ。成功したらここに持ってきて。失敗したら違約金が発生することもあるから確認してね」
説明はそれだけだった。
彼女はすぐに手元の書類に視線を戻した。
「あの」
僕はさらに声をかけた。
「初心者用の講習やサポート制度のようなものはありますか?」
受付嬢の手が止まった。
彼女は再び顔を上げ、今度は少しだけ感心したような目で僕を見た。
「……珍しいわね。いきなり森に走って怪我して帰ってくる子が多いのに」
彼女は顎で部屋の隅をしゃくった。
「『新人教練』があるわ。引退したベテランが、冒険者のイロハを叩き込んでくれる。報酬は依頼料から引かれるけど、安全は買える」
「それをお願いします」
「了解。……バッツさん! お客さんよ!」
受付嬢の声に、部屋の隅で欠伸を噛み殺していた男がゆっくりと立ち上がった。
白髪交じりの短髪に、深い皺の刻まれた顔。左足を引きずっているが、その体躯は分厚く、使い込まれた革鎧が体に馴染んでいる。
彼、バッツは面倒臭そうに頭を掻きながら、僕の前に立った。
「……チッ、こりゃまた随分と小さな新入りだな」
濁った声だった。
僕をじろりと睨みつける視線には、明らかな値踏みの色がある。
「ガキ。森は遊び場じゃねえぞ。泣こうが喚こうが、俺は助けねえ。ついて来れるか?」
「勿論です」
僕が即答すると、彼は鼻を鳴らした。
「……いいだろう、ついて来な。『授業料』分くらいは仕込んでやる」
◇
町の北側に広がる森は、昼間でも鬱蒼として薄暗かった。
バッツは引きずっているはずの左足を全く感じさせない速度で、音もなく草木の間を進んでいく。
僕は何とか遅れないよう、必死に背中を追った。
「足音を立てるな。枝を踏むな。自分の居場所を魔物に教えてどうする」
「この草は『キキョウ草』だ。根っこは解毒に効くが、似たような葉っぱのこれは『シビレ草』だ。間違えて煎じたら三日は動けなくなるぞ」
「木の上を見ろ。樹皮が剥がれてるだろう。熊もどき(ベアウルフ)の縄張りの印だ。こういう場所には近づくな」
バッツの指導は実践的で、容赦がなかった。
教科書で読んだ知識とは違う。匂い、手触り、風の音。
生きるために必要な情報が、次々と叩き込まれてくる。
僕は必死にメモを取り、あるいはその場で草を噛んで味を覚え、彼の言葉を一言も漏らさぬよう食らいついた。
数時間後。
指定されたカゴ一杯の薬草を集め終えた頃には、僕は泥だらけになっていた。
息は上がり、手足には無数の擦り傷ができている。
だが、バッツは僕のカゴの中身を見て、微かに口角を上げた。
「……フン。ま、売り物にはなるな」
「慎重にやりました」
「慎重さは武器だ。臆病なくらいで丁度いい。……ま、初日にしては悪くねえな」
彼はポンと無造作に僕の頭に手を置いた。
武骨で分厚い掌だった。
「焦るなよ、ガキ。地道にやってりゃ、そのうちもっと稼げるようになる」
ギルドに戻り、カウンターで薬草を査定してもらう。
教練料などの経費を引かれ、手元に残ったのは、わずか銅貨が三枚だけだった。
これが、今日の労働の対価だ。
僕は汚れた銅貨を懐に仕舞い、黙ってギルドを後にした。




