2章 第1話
レーベンシュタイン領の朝は早い。
霧が白く立ち込める石畳の道には、既にパン屋の薪を焚く匂いが漂っている。
レーベンシュタイン領の民は働き者だ。誰もが今日の生計を立てるために忙しく手を動かしている。
そんな日常の風景の中、僕は一人、屋敷の裏手から街へと足を踏み出していた。
着ているのは、使用人に変装するまでもなく、訓練で着古した灰色のチュニックとズボン。上から少し大きめのアースカラーのマントを羽織っている。
腰には、父上が最後にくれた革袋。中にはずっしりと重い金貨が詰まっている。
これが僕の全財産であり、命綱だ。
まだ廃嫡の告知は回っていない。
父上には「早期の廃嫡」を申し出たが、侯爵家の権威に関わる発表だ、早朝からお触れを出すようなことはしないだろう。おそらく昼頃には掲示板に張り出されるはずだ。
それまでに、この街を出たほうがいいだろう。
廃嫡された元貴族の子供など、悪意ある連中からすれば格好の獲物だ。
ニュースが広まり、妙な輩に目をつけられる前に、姿を消すのが得策だ。
僕はフードを目深に被り、人目を避けるように路地裏を抜けた。
向かった先は、大通りから少し外れた場所にある古びた武器屋。『古竜の顎』亭だ。
看板は風雨に晒されて文字が半分消えかかっているが、この店には確かな品質の品が揃っている。
何より、店主のガルドは口が堅い。侯爵家の武器のメンテナンスを請け負う彼は、僕が幼い頃から木剣を選びに来ていたことを知っている数少ない人物だ。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。
薄暗い店内には、鉄と革、そしてオイルの独特な匂いが充満していた。
カウンターの向こうで、巨漢の男が黙々と剣の手入れをしている。
ガルドだ。
彼は顔を上げることなく、低い声で言った。
「……いらっしゃいませ。今日はどのようなご用向きで」
僕はフードを少しだけ上げ、顔を見せた。
ガルドの手が止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、僕を凝視した。その瞳に驚きの色はなかった。
「……ウィル様」
「久しぶりだね、ガルド」
僕は努めて自然な声を出そうとしたが、少し震えてしまったかもしれない。
ガルドは僕の背後――供の者がいないこと、そして僕の旅装を見て、静かに目を細めた。
「……お一人、ですか」
彼は短く問い、それ以上は何も聞かず、視線を剣に戻した。
「察してくれて助かるよ。なら話は早いね」
僕は革袋をカウンターの上に置いた。ゴトリ、と重い音が響く。
「僕はまだ終わりたくない。生き延びるために必要なものを、見繕ってくれないか」
ガルドの手が再び止まった。
彼は数秒の沈黙の後、布を置き、こちらを真っ直ぐに見据えた。
「分かりました。……ウィル様の旅立ちに相応しいものを、私が責任を持って選びましょう」
ガルドの動きは迅速だった。
店の奥から次々と品物を取り出してくる。
「まずは鎧です。金属製は重く、目立ちます。今の体力と旅路を考えれば、こちらの硬化革の胸当て(ブレストプレート)が最適でしょう」
「武器はこちらを。装飾のない実用本位の短剣。予備を含めて二本。それと、投擲用のナイフを数本ご用意しました」
「マントはこちらの灰色が良いでしょう。森でも街でも背景に溶け込みます」
その他にも、水袋、干し肉、火打ち石、野営用の簡易毛布など、サバイバルに必要な物品が次々とカウンターに積み上げられていく。
そして最後に、彼が出したのは小瓶に入った赤い液体だった。
「回復薬です。下級のものですが、傷の治癒を早めます」
僕は頷き、全ての品を確認する。問題なさそうだ。
「ありがとう。幾らになる?」
僕は革袋から金貨を取り出そうとした。
すると、ガルドがそれを手で制した。
「お代は結構です」
「……は?」
僕は彼を見返した。
「そういうわけにはいかない。僕はもう侯爵家の人間じゃない。施しを受けるつもりはないよ」
「施しではありません。餞別です」
ガルドは頑として首を縦に振らなかった。
「ウィル様。失礼ながら、今の貴方様には、一銭たりとも無駄にできる余裕はないはずです。ここは私の顔を立ててください」
その言葉には、反論を許さない力強さがあった。
「……ごめん。ありがとう」
「構いません。ウィル様には、長年ご贔屓にして頂きましたから」
「それと……老婆心ながら申し上げます」
ガルドは声を潜めた。
「当面の路銀として、金貨一枚だけ銀貨と銅貨に崩しておきましょう。子供が金貨など出せば、あらぬ疑いをかけられ、悪い連中に目をつけられるだけですから」
僕はハッとした。
確かにそうだ。平民が一目見るだけ珍しい金貨を、10歳の子供が持っている。それだけで「盗んできた」か「訳ありの家出人」だと宣伝しているようなものだ。
「……確かにそうだね。助かるよ、頼む」
ガルドは頷き、金貨一枚を受け取ると、代わりに銀貨と銅貨をじゃらじゃらと小袋に入れて渡してくれた。
残りの金貨が入った革袋は、懐の奥深くに仕舞い込む。
ずしりとした重み。
これが、僕の命の重さだ。
装備を整え、マントを羽織る。
鏡に映った姿は、どこにでもいる駆け出しの冒険者見習いのように見えた。
「……行くよ」
店を出ようと背を向けた時、ガルドの声が掛かった。
「……ウィル様」
振り返る。
ガルドはカウンターの向こうで、深く頭を下げていた。
「ご武運を」
その言葉には、商人としての立場を超えた、一人の人間としての温かい祈りが込められていた。
僕は目頭が少し熱くなるのを感じながら、短く答えた。
「ありがとう」
店を出ると、朝日は完全に昇っていた。
僕は足早に城門へと向かった。
まだ検問は緩い。顔なじみの衛兵には軽く会釈をして通り過ぎる。
そして、領西部の商業都市「ビゼント」へ向かう乗合馬車に乗り込んだ。
馬車はゴトゴトと音を立てて動き出した。
同乗者は五人。初老の行商人、野菜を運ぶ農夫、そして目つきの鋭い男が二人。
彼らは一瞥こそくれたが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
だが、僕の心臓は早鐘を打っていた。
(見られたか? あの男、僕のマントの下の剣を見ていたんじゃないか?)
フードの下で、嫌な汗が背中を伝う。
(もし、父上が廃嫡の発表を既に出していたら?)
(もし、こいつらが『元・侯爵令息』を狙う人攫いだったら?)
頭では分かっている。
情報がこんなに早く回るはずがない。
理屈では「安全」だ。
だが、湧き上がる不安を抑え込むことができない。
「もし、正体が露見していたら」という最悪の想像が、意志とは無関係に脳裏をよぎり続ける。
隣の男が懐に手を入れただけで、体がビクリと強張り、短剣の柄を握る。
御者が振り返っただけで、喉がひきつる。
窓の外の景色が変わるたび、どこかに待ち伏せがいるのではないかと目を凝らす。
(落ち着け……落ち着け……)
何度も自分に言い聞かせる。
だが、初めて「守られる者」から「誰にも守られない」立場になった恐怖は、想像を絶するものだった。
ただ座っているだけなのに、僕の神経はヤスリで削られるように摩耗し続けていた。
永遠にも思える数時間が過ぎた。
日が傾きかけた頃、遠くに城壁が見えてきた。
領内でも有数の商業都市、「ビゼント」だ。
馬車が城門をくぐり、賑やかな雑踏の中に停まると、僕は転がり落ちるように馬車を降りた。
「……着いた」
地面を踏みしめ、初めて息を吐き出す。
生きた心地がしなかった。
だが、まだ終わっていない。
日が暮れる前に、安全な寝床を確保しなければならない。
僕は雑踏に紛れながら、慎重に宿を探し始めた。
安い宿は論外だ。相部屋や鍵のない部屋では、金貨を守りきれない。寝ている間に身ぐるみ剥がされるのがオチだ。
かといって、高級宿も無理だ。
この身なりで入れば怪しまれるし、何より「身分証」や「保護者」の確認を求められる。
そんなものはない。
僕は目を皿のようにして街を観察した。
狙いは『中堅の商人が利用する宿』だ。
商人は多額の商品や現金を運ぶため、セキュリティには最もうるさい人種だ。彼らが利用する宿なら、金さえ払えば安全が買えるはずだ。
しばらく歩き回り、一軒の宿に目星をつけた。
『銀の麦亭』。
石造りの堅牢な建物で、裏庭には身なりのしっかりした商隊の馬車が何台も停まっている。
入り口には武骨だが強そうな用心棒が立っている。
ここだ。
僕は意を決して扉を開けた。
カウンターには恰幅の良い女将が座っていた。
僕を見るなり、彼女は眉をひそめた。
「おや、迷子かい? ここ安い店じゃないよ」
「宿泊をお願いします。一人です」
僕は低い声で言いながら、カウンターに銀貨を三枚置いた。
先払いだ。
「……ふーん」
女将の目が鋭く光る。銀貨を確認し、僕の装備を一瞥する。
「金があるなら客だね。ただ、騒いだら叩き出すからね」
「分かっています。できるだけ端の、静かな部屋を」
「二階の角部屋が空いてるよ。朝食はどうするんだい?」
「いりません」
鍵を受け取り、階段を上がる。
部屋に入ると、すぐに鍵を掛けた。
だが、それだけでは足りない。
僕は部屋にある木の椅子を引きずり、ドアノブの下に噛ませて、外から絶対に開かないようにした。
窓の桟には小石を並べる。もし誰かが窓を開ければ、石が落ちて音が鳴る仕組みだ。
ベッドの下、クローゼットの中。誰も潜んでいないことを確認する。
「……よし」
全ての安全確認を終えて、ようやく僕はベッドに腰を下ろした。
ふう、と深く長い息を吐く。
途端に、全身から力が抜けた。
泥のような疲労感と共に、強烈な実感が押し寄せてくる。
「……ここからだ。そうだろうウィルフレッド」
家を追われ、家族と別れ、地位を失った。
この見知らぬ街の、見知らぬ部屋に、僕はたった一人でいる。
静寂が耳に痛い。
昨夜までは、ノエルが走り回る音が聞こえていた。エマが紅茶を淹れる音がした。
今は、何も聞こえない。
圧倒的な静けさと、寒気がするほどの孤独。
ここには僕を守る壁もなければ、名を呼んでくれる人もいない。
鞄から、干し肉を取り出した。
硬くて塩辛いそれを、水で流し込む。
味なんてしない。ただ、生きるために腹に入れる。
僕は短剣を抱きしめたまま、ベッドに横たわった。
孤独を噛みしめ、自由の重さに震えながら、僕は深い眠りへと落ちていった。




