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2章 第4話


翌日。

僕は真新しいEランクのプレートを懐に、ギルドの掲示板の前に立っていた。

狙いは決まっている。


『ホーンラビットの討伐』。

報酬は銀貨一枚。薬草採取の十倍の稼ぎだ。

Eランクになった僕が受けられる、最も基本的な討伐依頼。


依頼書を剥ぎ取り、カウンターへ持っていく。


町を出て、いつもの森へ向かう。

ただし今回は、浅い場所では立ち止まらない。

獣道を抜け、光の届きにくい、薄暗い森の奥へと進んでいく。


空気が変わった。

まとわりつくような湿気と、濃密な緑の匂い。

鳥の声が消え、代わりにガサリ、ガサリという正体不明の音が遠くから聞こえてくる。

ここは、人の領域ではない。魔物たちのテリトリーだ。


一人だ。

本来なら、初心者はパーティを組むべきなのかもしれない。だが、誰にも声をかけなかった。

本音を言えば誰かに頼りたいが、まだその勇気が出なかった。

誰かと深く関われば、僕が『魔力ゼロ』であることに気付かれてしまうかもしれない。そこから、追放された元侯爵家の息子という正体に結びついてしまう気がして、どうしても躊躇してしまう。

それに何より、これから自分自身で、自力で解決していかなくてはならないことを考えると、ここは一人の力で乗り越えるべき気がした。


集中する。

足音を殺し、気配を消す。

バッツさんに教わった歩法を意識しながら、周囲の気配を探る。


……いた。


十メートル先の藪の中。

茶色い影が動いた。

ホーンラビット。

名前こそウサギだが、その姿は愛玩動物とは程遠い。

大型犬ほどのサイズがあり、発達した太ももの筋肉が不気味に盛り上がっている。

そして額からは、三十センチほどの鋭利な角が突き出していた。

あれに突かれれば、革鎧など容易に貫通し、内臓を食い破られるだろう。


心臓が早鐘を打つ。

訓練ではない。殺さなければ、殺される。

唾を飲み込み、腰の短剣に手をかける。


パキッ。


しまった。枯れ枝を踏んでしまった。

その微かな音に、ホーンラビットが弾かれたようにこちらを向く。

赤い狂気的な瞳と視線が交差した。


「キシャァッ!」


奇声と共に、地面が爆ぜた。

速い。

瞬きする間に距離が詰まる。

鋭い角が、僕の鳩尾を狙って一直線に迫ってくる。


(死ぬ——!)


本能的な恐怖が脳を支配しかけ——次の瞬間、冷水を浴びせられたように思考がクリアになった。

時間が引き伸ばされる。

迫り来る角の先端。地面を蹴る後ろ足の筋肉の収縮。

大丈夫だ。見える。

信じろ。

十年かけて積み上げてきた、自分の身体を。


僕は半歩踏み込み、身体を捻った。

脇の下スレスレを、死の凶器が通過していく。風圧が肌を焼く。

すれ違いざま、僕は逆手に持った短剣を、無防備な獣の首筋へと叩きつけた。


ズプッ。


嫌な感触。

硬い筋肉を刃が断ち切り、骨に当たる振動が腕に伝わる。


「——ッ!」


僕はそのままの勢いで地面を転がり、距離を取って構え直した。


ホーンラビットは数メートル先で着地し、こちらに向き直ろうとして——崩れ落ちた。

首から鮮血が噴き出し、地面を赤く染めていく。

手足を痙攣させ、空を掻くように数度動く。


「……死ね、死ねッ!」


僕は弾かれたように駆け寄り、動かなくなった獣の体に跨ると、何度も短剣を振り下ろした。

まだ動くかもしれない。

まだ息があるかもしれない。

恐怖が理性を塗りつぶし、ただひたすらに腕を振るった。

肉を断つ感触。骨が砕ける音。生温かい血飛沫が頬にかかる。


「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」


どれくらいそうしていただろうか。

下の物体が完全に肉塊と化し、ピクリとも動かなくなってようやく、僕の手は止まった。


静寂が戻ってくる。

蟲の声だけが、何事もなかったように響いている。


僕は血塗れの短剣を握りしめたまま、荒い息を吐き続けた。

殺した。

生き物を。命を。

強烈な吐き気が込み上げてくる。

胃の中身を戻しそうになり、口元を押さえる。


だが、その不快感と同時に、奇妙な感覚が襲ってきた。


ドクン、と。

心臓が大きく跳ねた。

身体の奥底で、何かが『カチリ』と噛み合う音がしたような気がした。


劇的な変化ではない。

背中から翼が生えたわけでも、急に筋肉が膨れ上がったわけでもない。

けれど、確実に何かが『積み上がった』という感触があった。


疲労と恐怖で震えていた手足に、芯の通った力が宿る。

昨日よりも、一分前よりも、確実に今の自分の方が強い。

そんな、数値的な確信。

命を奪うという行為が、僕という器をほんの少しだけ拡張したような、そんな気がした。


「……まさか、な」


ただの気のせいかもしれない。

極限状態が生み出した、脳の錯覚かもしれない。

けれど、もし。

もしこの感覚が本物だとしたら。


「……帰ろう」


僕はふらつく足で立ち上がった。

これ以上、狩りを続ける精神的な余裕はない。

けれど、胸の奥には恐怖とは別の、静かな火が灯っていた。


         ◇


ギルドの扉を開けると、喧騒が一瞬だけ静まり返った。

全身返り血で真っ赤に染まった子供が入ってきたのだ。無理もない。

カウンターの受付嬢が、僕の姿を見るなり顔色を変えた。

「ウィル君!? ひどい怪我……っ!」

息を呑む音が聞こえた。痛々しいものを見るような視線。

失敗したんだ、取り返しのつかないことになったんだと、誰もがそう思っただろう。


「あ……いえ、大丈夫です」

僕は自分の体を見下ろし、慌てて首を振った。

「これ、僕の血じゃありませんから」

「え……?」

「それより、これなんですけど」

僕は背負っていた麻袋をカウンターに置き、中身を広げた。

ドサリ、と出てきたのは、原型を留めないほど切り刻まれた肉塊だった。

「……は?」

受付嬢がポカンと口を開けた。


彼女はまじまじと赤黒い肉塊を見つめ、それから信じられないものを見る目で僕を見た。

「うそ……これ、ホーンラビット?」

「はい」


彼女は絶句していた。

まじまじと僕と獲物を見比べ、信じられないものを見る目で呟いた。

「え、本当に倒したの……?」

「……討伐証明部位の角は無事です。ただ、素材としては……その」

僕はバツが悪そうに頬をかいた。

彼女はもう一度肉塊を見つめ、それから僕の無傷の体を確認し――最後に、深々とため息をついた。


「……まあ、いいわ」

彼女は複雑そうに眉を寄せたが、すぐにプロの顔に戻って査定を進めた。

「討伐確認は完了。依頼達成で銀貨一枚ね。……ただ、これじゃ素材の買取はできないわ。毛皮も肉も売り物にならないもの」

「すみません」

「謝ることじゃないわ。依頼は『討伐』なんだから、それを達成して、生きて帰ってきただけで十分よ。……でも、次はもう少し綺麗に倒すことを意識してみて。状態が良ければ素材として買い取れるから、追加報酬が出るの。時には報酬額が倍になることもあるから」


銀貨を一枚受け取り、僕はギルドを後にした。

手の中の銀貨はひどく軽かった。


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