百五十五話
リンゼイの身支度はエリージュがしてくれた。
髪を結ぶ手の力が、いつもより強いのは気のせいだろうかと、戦々恐々とする。
「……約束」
「!」
「覚えているかしら?」
突然エリザベスモードになったので、ビクリと肩を震わせた。
迷いない手つきで髪飾りを挿してくれる。
シャランと、銀の飾りが重なり合う音が鳴った。
このまま背後から仕留められるのではと、そんな迫力があった。
ドクドクと、心臓が嫌な感じに高鳴る。
恐る恐る振り返れば、頭を垂れる姿があった。
「――行ってらっしゃいませ、奥様」
「え、ええ」
「旦那様のこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「う、うん……」
凄まじい圧力を感じる見送りであった。
向かう先は画廊なので、大人しい色合いのドレスを纏い、化粧も薄く施す。
髪型だけはきっちり三つ編みにして、後頭部に巻きつけ、綺麗に留めていた。
部屋で待っていれば、扉が叩かれる。
同じく準備が出来たクレメンテと一緒に画廊に向かった。
「意外と出歩いている人は少ないんですね」
廊下をすれ違う者達はほとんどいなかった。
どちらかと言えば、船の乗務員の方が多い。
「貴族達は皆夜行性だって、エリージュが言っていたわ」
夜会に賭博、酒場など、貴族の楽しみは、夜に行われるものばかりだ。
昨晩、『メディチナ』に客が殺到したわけだと、クレメンテは言う。
「なんだか安心しました」
「何の安心?」
話をしている最中、ある物がリンゼイの視界に飛び込んでくる。
「――は?」
それは、等身大のリンゼイ看板であった。
しかも、何故か前に女性の乗務員が居る。
「これ、店の前に一枚あるだけじゃないの!?」
「……は、はい」
「もしかして、他にもあるとか!?」
「……えっ、ええ、まあ」
クレメンテは正直に数を告白した。すると、白目を剥くリンゼイ。
乗務員が居る理由は、看板を見た人からの問い合わせが多いからだった。ふらふらと近づくリンゼイに気付いた乗務員が話しかけてくる。
「もう、皆さま、お美しいと驚かれていて」
「はい、それは、もう」
笑顔で頷くクレメンテ。リンゼイは羞恥でガタガタと肩を震えていた。
「でも、実物の方がもっとお綺麗ですね」
「ありがとうございます」
リンゼイが褒められて嬉しいのは、同性だからだ。
これが異性からの言葉だったら、凄まじい殺気を放っていた。
係の女性に頼みますとお願いして、その場を去ることにする。
「とんでもない事態になっていたのね」
「その……リンゼイさん、申し訳ありません」
「いいの。宣伝のために、耐えるって決めたから」
昨晩、リンゼイを見るためにやって来た客が多かったわけだと、納得することになった。
しばらく歩けば、画廊に到着する。
出入り口には、画家の名前が書かれた看板が置かれていた。
「あ、イルも参加しているのですね」
「本当ね」
それ以外は、異国の画家のようで、知らない名前ばかりであった。
「入りましょうか」
「そうね」
他に客は居ないようだった。
受付で署名をしたのちに、静かな画廊の中を二人並んで入って行く。
異国の美しい風景を描いたものや、人物画、抽象画、植物画に動物画、歴史画に戦争画など、様々な種類の絵が展示されていた。
芸術関係に疎い夫婦は、絵の前で遠い目をしながら進んで行った。
展示の先の方から人の声が聞こえてきた。
揉めているような声で、クレメンテとリンゼイは引き返したくなる。
「リンゼイさん、どうしますか?」
「行きたくないけど、入り口に戻るわけにもいかないでしょ?」
「ですよね……」
嫌な予感しかしなかったので、リンゼイはクレメンテの腕を掴み、盾にするように歩く。
だんだんと近づくたびに、不安が募った。
「だから、金はいくらでも用意すると言っているだろう!?」
「ですが、なんども言っている通り、こちらの先生の作品は全て非売品なんです!」
「だったら、交渉をしてくれ!」
「それも難しい話で、今回無理を言って展示をお頼みしたので……」
画廊のオーナーらしき男と、六十代から七十代程の老人が言い合いをしていた。
なんとか見つからないように、クレメンテとリンゼイは気配を殺し、足音をたてずに通過しようとした。だが――。
「ああっ、ちょうどいいところに!!」
「……」
「……」
老人は背を向けていたので、二人に全く気付いていなかったが、オーナーが視界の端に映った夫婦に気付いた。
そして、助けを求めるように、声を掛けてしまう。
「あ、あの、『メディチナ』のペギリスタイン代表ですよね!?」
「……はい、そうですが」
「ああ、よかった!!」
――こちらは全然良くない。
夫婦はそう思ったが、口から出る寸前で呑み込んだ。
オーナーに絡んでいた人物が振り返る。
白い髭を生やした老人であった。
「お前が、この絵の販売権を禁じていたのか!?」
「……え?」
今になって気付く。
周辺に飾ってあったのは、イルの絵だった。
そして、目の前にあったのはリンゼイの絵である。
「私はずっとこの絵を売ってくれと頼んでいたんだ!! 何故売ってくれない!?」
「え!? それは――」
ちなみに、クレメンテの背後に隠れるようにして歩いていたリンゼイは、まだ見つかっていない。
「どうしてって、あれは私の妻の絵ですので、売りたくありません」
「はあ!? あれは、私の妻をモデルにした絵だろう!?」
「いいえ、あの絵に描かれている女性は私の妻です!」
「違う、あれは私の妻に間違いない!!」
しばらく、不毛な言い合いが続いた。
「私がどんな苦労をして、リンゼイさんと結婚したか、あなたは知らないでしょう!? 簡単に手に入るものじゃないんです!! なので、絵も、誰かに譲ることは許しません!!」
「……は? リンゼイ?」
「はい。どれだけお金を積まれても、売ることは出来ませんから!」
「彼女は、本当の本当に存在する女性なのか?」
「はい」
リンゼイは空気を読み、老人の前に出てくる。
「――なっ!」
「ど、どうも、はじめまして」
驚いた顔をした老人は、少し話がしたいと言って頭を下げてきた。
◇◇◇
話を要約すれば、リンゼイは老人の亡くなった妻に瓜二つで、絵画が欲しいと望んでいた。
肖像画なども残っておらず、画廊の絵を見た瞬間に、自分の妻を描いたものだと勘違いしてしまったと話す。
「……すまなかった。あれは妻だと、信じてならなかった」
「いえ、私も、ついカッとなってしまい、申し訳なかったと」
「気持ちは分からなくもない。私も若い頃は誰かに盗られるのではないかと、気が気でなかった」
……なに、これ。
突然楽しそうに妻について語る二人を見て、リンゼイは思う。
二人で話し合った結果、絵は譲ることになった。
老人は涙を浮かべながら喜んでいた。
そのあと、昼食を食べて、部屋に帰る。
リンゼイはウィオレケの勉強を見ることにした。
「姉上」
「何?」
「どうしたら、画廊に行ったくらいでそんなに疲れるの?」
「いや、ちょっと揉めごとに巻き込まれて……」
「一体どうして、姉上と義兄上の行く先々は問題が起こるんだ」
「向こうから問題がやって来るのよ」
「いや、もうこうなったら、二人が問題の因果としか……」
「え?」
「なんでもない」
ウィオレケが問題を解いている間、リンゼイは物思いに耽る。
絵を売らないと主張していた時、どうしようもなく恥ずかしかった。
自分の絵だからという大きな理由もあったが、クレメンテの言い方が、何か大切なものを守るような感じだったので、嬉しいような、照れるようななんとも言えない気持ちになる。
そこでリンゼイは気付く。
あれ、クレメンテの欲しいものって――?
もしかして、リンゼイ自身なのかと考えたが、自意識過剰ではないかと首を横に振る。
問題を解いていたウィオレケは隣で百面相をしている姉を恐ろしく思った。
アイテム図鑑
リンゼイの絵画
非売品。
世界でただ一人、セレディンティア王国の大富豪が所持している。