百三十五話
朝、クレメンテは謎の状態で目が覚める。
まず、近すぎる位置に人の気配があった。
否、気配なんてものではない。
柔らかい何かが、腕にしっかりと密着していたのだ。
加えて、なんだか甘くていい香りもする。
――まさか!?
そのまさかだった。
クレメンテは寝台に寝転がり、その隣にリンゼイが眠っていた。
しかも、腕を抱き枕にするように、ぴったりと寄り添って眠っているのである。
夢だと思った。
きっと、これは、夢。
クレメンテは至福の瞬間を味わう。
世界一、幸せだと思った。
「……ん」
「……」
突然、リンゼイが身じろぐ。
ぐっと、柔らかな何かが押し付けられた。
最近の夢は凄いな、と思う。
香りや触感があり、声も聞こえるなんて、と。
だんだんと、熱くなってくる。
額にも汗を掻いていた。
これはやばいと、危機感が出てくる。
密着するリンゼイは、そっと寄り添っているだけだった。がっちりと拘束されている訳ではない。離れようと思えば、いつでも離れられる。
なのに、離れられない。
この時には、もう夢ではないと気付いていた。
早く起きないと、色んな意味でもれなく変態扱いをされてしまう。
天国と地獄の狭間とは、こういうものなのかとクレメンテは思った。
一体、どうしてこんなことにと、昨晩の記憶を振り返る。
確か、リンゼイに寝台を譲り、自分は長椅子で眠ろうとした先から記憶が無くなっていた。
不思議なこともあるのだと、首を僅かに捻る。
最後に、記念としてリンゼイの寝顔を見ることにした。
「……かわいい」
思わず呟いてしまう。
目を閉じている顔は初めて見たと、感動してしまった。
二度と見ることが出来ないだろうと思って、じっくりと眺める。
そんな折に、不幸は起きた。
ガチャリと、部屋の扉が開いたのだ。
慌てて起き上るクレメンテ。
入って来たのは、見知らぬ中年男性であった。
隣で眠るリンゼイは目覚めない。
よく見たら、リリットもリンゼイの二の腕を枕にして眠っていた。
視線を、中年男性へと移す。
相手は、ワナワナと震えていた。
リンゼイと同じような魔術師の外套を纏い、長く黒い杖を持っている。金の髪は後ろに撫でつけていて、髭を生やした品のある男性。年頃は五十代後半くらいに見えた。
外套の下は、白いシャツにネクタイを締め、皺の無いズボンを纏っている紳士であった。
クレメンテは気付く。
その男性が、誰かに似ていると。
「あ、あの――」
「どういうことですか、リンゼイ!!」
丁寧な言葉遣いで怒鳴り散らす中年男性。だが、リンゼイは起きない。
クレメンテはオロオロとするばかりだ。
リンゼイが全く起きようとしないので、さらに苛立った表情となる。
「アレの言っていたことは、真実だったか……」
独り言を呟きながら、世界の悪を見るような視線をクレメンテに向ける。
絶対に許さないという旨を、本人の前で宣告していた。
杖で指されたクレメンテは、びくりと肩を震わせる。
目の前の中年男性は、先日会ったリンゼイの二番目の兄、トランに似ていた。
つまり、リンゼイの父親ということになる。
ダン! と杖の底を地面に打ち付けた。
睨み付ける視線は変わらない。目が合えば、つかつかと近づいて来る。
寝台の上で呆然とするクレメンテを上から見下ろし、突然、手にしていた杖を振り上げ、勢いよく振り下ろす。
寸前で避けてたので、当たらなかった。
それから二人は、無言で追い駆けっこを始める。
ぶんぶんと杖を振り回すが、クレメンテは器用に避けてしまうので、リンゼイの父が一方的に疲れるだけである。
ついに、体力切れを起こして、膝に手をついて息を整える中年紳士。
その隙にクレメンテは、リンゼイを起こそうと体を揺さぶった。
「リンゼイさん、起きて下さい!! あの、お義父様が、いらしています!!」
遠くから、「お前にお父さんと言われる筋合いはありません!」と言うお約束過ぎる突っ込みが聞こえた。
無視してリンゼイを揺さぶり続ける。
「リンゼイさん、起きて下さい」
「ふふ、やだ、くすぐったい」
「……」
こんな時に限って、なんて可愛い反応をするのだと戦慄してしまった。
彼女の寝姿をいつまでも眺めていたいと思う。
だが、そんなことが許される状況下になかった。
息を整えた中年が、再びクレメンテに迫る。
ついにはクレメンテに、ここで死ねと叫びながら猛追していた。
その叫び声を聞いて、やっとリンゼイは目を覚ました。
「うるさいっ!!」
起き上がって一喝したが、目の前のありえない状況にポカンとする。
杖を振り上げる父と、襲われるクレメンテ。
「は?」
混乱したリンゼイは傍で寝ていたリリットを起こし、荒ぶる中年男性を調べるように『鑑定』を頼む。
『え~、あのひと~? う~ん……』
――ウィルクス・アイスコレッタ。
間違いなく、リンゼイの父親であった。
寝ぼけ眼で見た中年男性の姿は、間違いなく見知った顔だったのだ。
「ち、父上、何、を?」
ようやく目覚めた娘を、リンゼイの父、ウィルクスはギロリと睨んだ。
「あなたは、なんてことをしてくれたのですか!?」
それから、クレメンテを指差しながら言う。
どこの馬の骨か分からない人間と結婚をして、と。
――結婚が、父親に、バレてしまった。
さすがのリンゼイも、顔色を悪くする。
父親は執拗にクレメンテを追い駆け、杖で叩こうと奮闘していた。
クレメンテに攻撃が当たることはないと思ったので、敢えて止めない。
呆然と、追う・追われる二人を眺めていた。
『あれだよね』
「?」
『見るからに、リンゼイのお父さんって感じ』
「どうして?」
魔術を使わずに、物理攻撃で制裁しようとする姿は、戦闘中のリンゼイと繋がるところがあった。リリットは『なんとなく』と言って言葉を濁す。
「はあ、はあ、このっ!」
「すみません!」
つい癖で避けてしまうのだと、クレメンテは謝る。
その下手に出るような態度にも、ウィルクスは苛ついていた。
「わ、分かりました。お気が済むまで、殴って下さい」
クレメンテはその場に蹲り、もう逃げないと誓った。
「あなたを死ぬほど殴ったからと言って、娘の純潔は帰ってきません!!」
「……」
「……」
その言葉に、微妙な顔つきとなるクレメンテとリンゼイ。リリットは噴き出しそうになった。
ウィルクスがそう思うのも無理はない。二人が勘違いさせるような状況下に居たからだ。
「父上、私の話は、トラン兄上から聞いたのですか?」
「ええ」
リンゼイは舌打ちをする。
やはり、あの軽薄兄は信用ならない。徹底的に無視をするべきだったのだと後悔していた。
「もしや、ウィオレケもあなたの所に!?」
「……ええ、まあ」
竜を得て戻って来ることはここで言うべきなのか迷ったが、結局何も言わなかった。
とりあえず、話が拗れそうになったら、ウィオレケはルカに預ければいいと考える。その間、ひたすら叱咤を受けていた。
父親に刃向えば、面倒なことになるので、口答えはしない。
アイスコレッタ兄妹の、父親と接する際の心得でもある。
「学費を返し終えたのなら、早く言えばいいものの」
リンゼイは父親の話を聞いているようで、全く聞いてなかった。
ここからの脱出方法を考えていたのだ。
魔術でのかく乱は相手に効かないだろうと想定する。
ウィルクスが纏う外套は、あらゆる魔術を無効化にするような呪文が刻まれているからだ。
残った手段は強行突破。
クレメンテとリンゼイが得意とするものである。
そんなことを考えていると、話はとんでもない方向に向かっていた。
ウィルクスはリンゼイを家に連れて帰ると、クレメンテに宣言していたのだ。
「傷物でも、アイスコレッタの女と縁を結びたいと思う奴は山ほど居ますので」
そんなことを言えば、クレメンテはウィルクスに縋りついた。
「あの、すみません、お願いします! どうか、お許しください!」
永遠とは言わない。もう少しだけ、一緒に居させてくださいと、クレメンテは必死になって願う。
「だったら、娘と引き換えに、腕の一本でも置いて行って頂きましょうか!?」
「はい、差し上げます!!」
「!?」
「……利き手は、ご勘弁頂きたいのですが」
「は?」
「リンゼイさんを、守れなくなりますので」
クレメンテの覚悟を前に、言葉を失うウィルクス。
諦めさせるように言った言葉だったが、全く効いていなかった。
だが、ここで引く訳にもいかない。
「わ、渡すのは、利き腕を!」
「あの、私の利き手は右なのですが、左手には、実は、ですね、りゅ――」
「駄目!!」
リンゼイは父親とクレメンテの間に割って入り、物騒な交渉事を止めるように言った。
「私は戻らないし、クレメンテの腕も渡さない!」
「あなたは、何を!?」
「家で待っている人が居るし、夢もあるから」
頭に血が昇ったウィルクスは、娘にも杖を振り上げる。
だが、リンゼイも負けていなかった。
机の上にあった燭台を掴み、父の杖を受け止める。
それから、二人は杖と燭台で激しい打ち合いをしていた。
クレメンテはポカンとしながら、その様子を眺めている。
その様子を見て、リリットが一言。
『なにこれ?』
脳筋親子の戦いは続く。
アイテム図鑑
ウィルクスの黒杖
ありとあらゆる闇の魔術を統べる杖。
れっきとした魔術用。
硬度は抜群で、ついつい物理攻撃に使ってしまう。