有田の憂鬱
山科が帰った後に有田が立ち上がって確認すると、山科が見て反応していたのは一枚の写真だった。それは品川埠頭でホームズが撮影していた雑草の写真で、有田には何の変哲もない『ただのクサ』にしか見えない。
「この写真の何が引っかかったんだろう……」
「その写真がどうかしたの?」
「さっき、山科さんがこの写真を見て目を輝かせていたんだ」
「ふーん、やっぱりね」
さも『タニラーなら当然ね』と言いたそうに頷いた。
「さっき、私と山科さんが多肉植物の話で盛り上がっているときに、未明君は手帳を開いて何か書いていたでしょ?」
「うん。御厨麻紀さんのことを忘れないうちに書いておこうとしたけど、それが何か?」
「そのときに、山科さんがテーブルの上にあるペン立てから赤いサインペンを一本だけそっと胸ポケットに入れたのよ。別に私が後ろを向いていたわけじゃなくて、窓辺の多肉をふたりで見ながら話していたのよね……。別にサインペンくらい無くなっても困らないからいいんだけど……」
ホームズは首をすくめて、それらをパソコンに入力していたが、有田は別の可能性を考えていた。
超奥手の有田にも同じような経験があった。「好きな娘の持ち物を共有したい」と、中学生の頃、密かに憧れていた同じクラスの女子が捨てた『ちびた鉛筆』を持ち帰ったことがある。「よくわからないけど、あれと同じかな?」と思い、パソコン入力しているホームズの横顔を見ていた。
翌日、有田がホームズの事務所に着いたのは夕方六時過ぎだった。
前日にも増して、テーブルの上の資料はうず高く積まれ、壁の写真やメモ書きも増えていた。ホームズ本人ですら何を調べているのかわからなくなるのではと心配になる。それでもテーブルの一角にコーヒーカップとサンドイッチの皿を置けるスペースが確保されているのは、コーヒーを運んできた際に、美里がかいがいしく片づけているのだろうと想像できた。
「ホルモン焼き『チエちゃん』をやっていた大将の証言が取れたんだけどな……」
相変わらずパソコンに向かっているホームズに話しかけた。
「静岡の古谷さんが話してた、鳥やすの所にあった以前のお店ね」
ホームズはパソコンに向かったまま答える。
「烏丸幸次さんもチエちゃんの常連だったようで、烏丸さんが亡くなった日のことはよく覚えていたんだ。あの日の夜七時頃、チエちゃんの前まで男が車でやって来て、かなり慌てた様子で路地の奥へ走って行ったらしい」
「さなえの方にってことね」
「そうなんだ。置きっ放しにするのか気になっていたら車はスグに発進したんで、誰かが送って来たんだなと、そのときは気にも止めなかったらしい」
「運転していた人の顔は見てないの?」
「ああ、どっちの顔も見えなかったけど、両方とも男だったのは間違いないそうだ」
「よく二十年も前のことを覚えてたわね」
「翌日に他の常連から烏丸さんが事故で亡くなった話を聞いて、前夜の車は烏丸さんだったんじゃないかとずっと思っていたらしい」
「当時の警察には話したのかしら」
ホームズがパソコンの手を止めて有田を見た。
「いや……当時の警察はあの辺りまで聞き込みには行ってないそうで……大将もわざわざ警察に行くほどのものでもないと思ったらしい……」
有田の奥歯に物が挟まったような言い方に、ホームズが核心を突いてぼそりと呟く。
「その大将も警察が嫌いなんでしょ?」
「ああ、聞かれもしないのにわざわざ警察に協力する気はさらさらないそうだ」
有田は大袈裟に肩をすくめた。
「ホームズの方は何か新しい発見があったのかい?」
「そうね、その烏丸さんだけど、単なる事故死なのか疑わしい点が出てきたわね」
「どんな点が疑わしいんだい?」
「まず、事故現場なんだけど、北アルプスの中腹を走る林道を夜間に運転していて、谷に転落したみたい。大きくは載ってないけど、長野県の地方新聞に小さく載っているわ」
「夜間の慣れない山道でハンドル操作を誤ったんだろ?」
「ところが同じ頃の倉見代議士は汚職疑惑の渦中にいたという記録がたくさん残っているのよね。そんな大変な時期に私設秘書が奥さんと、こんな山奥に行くと思う?」
「それは少し不自然だな……」
「もっと詳しく調べてみたら、事故現場の先には烏丸香織さんの育った実家があるってわかったわ」
ホームズがさっきからパソコンと向き合っているのは、まさにこのことを調べている最中だったようだ。
「でも、今回の事件と関係あるのかな」
「今はまだわからないけど、『二十年前』っていうキーワードが気になるのよ」
「確かに二十年ってのは、真鍋がさなえに通っていたのや、キノコスープがメニューから消えた時期と同じだけど、今回の事件と関係しているのか、さっぱりわからないよ」
「関係ないかもしれないけど、一旦気にかかりだしたらどうにも止まらなくなってしまったの……」
「ずっとパソコンばかり見ていたら疲れるだろう。たまには出歩かないか? 一緒にベイカー街で夕食でも食べようよ」
「そうね。もう四日も部屋から出てないし、外の世界を味わってみようかしら」
引きこもり中のホームズにしては珍しく出かけるようだ。出かけるといっても二階から一階に下りるだけだが、これまでにない行動パターンに有田は少し驚いた。
ベイカー街のドアを開けると、
「あっ、ホームズさん。もう引きこもりは終わりですか」
美里が目を輝かせて、とびきりの笑顔で出迎えた。
「まだ終わってないけど、たまにはお店で食べようかなと思ってね」
ホームズは、いつものカウンター席に腰を下ろしてたまごサンドを注文した。
有田はベイカー街名物のドライカレーを注文した。
「山科さんとは、お会いになりましたか」
マスターがおしぼりとスプーンをカウンターに置きながら話しかけてきた。
「いえ、今日は会っていませんよ」
ホームズが怪訝そうに首を傾げた。
「そうですか……さっきまで奥のテーブル席に座ってコーヒーを飲んでいたから、てっきり有田さんかホームズさんを待っているのかと思っていました」
「そうそう、ホームズさんがいつも座る席にひとりで座って、手帳に何かを書き込んでいました。二十分くらい居たんですよ」
美里も付け加えた。
「そうなの……」
せっかくのたまごサンドを味わっているようでもなく、ホームズはそう呟いて何かを考えていた。
ホームズが、山科に会えなかったのを残念に思っているのではないかと想像し、心の乱れを読み取られないよう黙り込む有田だった。




