第37話 ――助けて、お姉ちゃん
都市の中枢にそびえ立つ支配の象徴、リング・タワーの最上階。
広大な海を見下ろす執務室で、カシウス・リングは樫机に身を沈め、手元のタブレット端末へ冷徹な視線を落としていた。
画面に映し出されているのは、ナサニエル大鉱脈における激戦のリアルタイムデータだ。無数の光点が点滅し、そして次々と消灯していく。
戦場における命の散華が、ここでは単なる情報としてだけ処理されていた。
「……ふん。旧型とはいえ、肉壁としての役目は十分に果たしているか」
消滅していく光点の多くは、ゼニット軍が前線に投入した旧ロットの強化兵士たちの生体反応だ。
シュルプリーズたちが収集したデータから、既に次世代モデルの生産工場は、このヘシオドスに拵えてある。セレジアが破壊した、あの工場の出荷分の在庫処理だ。
非道な采配を彼が見ろしていれば、役員用エレベーターの扉が開いた。
現れたのは、ソフィアだった。その顔は蒼白に染まり、大きく見開かれた瞳には血走った絶望が宿っている。
彼女の右手には、かつてセレジアへと向けられた黄金のリボルバー銃が握られていた。震える手で銃口を持ち上げ、樫机の向こうに座る父へと狙いを定める。
「……やめて」
それは絞り出すような、ひび割れた声だった。
「もうやめて、お父様……! これ以上、前線に彼らを送らないで……!」
タブレットの中で消えていく光点は、ただの数字ではない。彼女がその手で造り出した、失われた弟――リブルの細胞を持つ者たちなのだ。
無造作に消費されていく命の残滓に、ソフィアの精神はとうとう限界を迎えた。
「どうして……どうしてなの! こんな話じゃなかったはずだわ!」
悲痛な叫びが広い執務室に響き渡るが、カシウスは微動だにしなかった。
彼は手元のモニターから一切視線を外すことなく、ひどくつまらないモノを扱うように鼻で笑った。
「下らんな」
ただ一言、断つように吐き捨てる。
「造り出した道具に執着するとは。人を完成させるための計画が聞いて呆れる」
「お父様ッ!」
「撃つ度胸もないだろう。……姉と同じだ」
カシウスは娘の銃口を一瞥すらすることなく、すぐに興味を失った。無言の圧力――それを前にして、ソフィアの目からボロボロと涙がこぼれ落ち、銃口が震える。
そのときだった。男がエレベーターから降りてきた。
「――同感ですね。実に脆く、不完全で、醜い」
深紅の軍服と、素顔を隠す仮面。
カシウスの指先が、タブレットの上でぴたりと止まる。いかなる事態にも揺らがなかった絶対者の顔に、初めて明確な驚愕が走った。
彼はゆっくりと顔を上げ、影から歩み出てきたその男を凝視する。
「シュルプリーズ……貴様、なぜここにいる?」
カシウスの声に、隠しきれない動揺が混じる。
「貴様は今、ナサニエルの前線で指揮を執っているはずだろう!」
仮面の奥で、強化兵士は、歪んだ三日月のような笑みを浮かべていた。
「前線、ですか。ええ、彼らは実によくやっていますよ」
シュルプリーズは軽やかな足取りで、最高権力者の執務机へと近づいていく。
その振る舞いには、かつての忠誠心などは微塵も感じられなかった。
「あの海域はすでに、旧き王たるあなたの盤面から外れました。私はただ、舞台の袖からこの演目の幕引きの終幕を見届けるために戻ってきたのですとも……」
「……狂ったか、出来損ないが。警備兵!」
カシウスが声を荒らげるが、応答はない。
通信コンソールは、ただ沈黙を保ったままだ。
シュルプリーズは肩をすくめた。
「無駄ですよ。このタワーの全システムは、すでに私が掌握しました。あなたはもう、誰にも命令を下せない」
張り詰めた空気の中、シュルプリーズはカシウスから視線を外し、凍りついているソフィアへと顔を向けた。
仮面越しであっても、その視線がねっとりと彼女に絡みつくのがわかる。
「哀れですね、総帥。あなたは感情というノイズを極度に嫌悪し、我々のような『完全なる兵器』を求めた。だが、その根底にあったのは、誰よりも醜く肥大化した『支配欲』という原始的な感情に他ならない」
「貴様……!」
「自らの欺瞞にすら気づけない愚か者が、新世界の玉座に座り続けることなどできないのですよ」
シュルプリーズは滑るような足取りでソフィアの背後に回り込んだ。
彼女は恐怖に身を竦ませたが、逃げることもできなかった。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、ただ震える手で黄金のリボルバーを構え続けている。
「ソ、ソフィア……そいつを撃て……!」
カシウスが忌々しげに娘へと命令を下す。
だが、ソフィアの指は引き金に掛かったまま動かない。
シュルプリーズは、黒いグローブに包まれた両手をゆっくりと伸ばした。
そして、銃のグリップを握りしめるソフィアの小さな両手を、ふんわりと、だが決して逃げられないほどの力で包み込む。
「ひっ……」
ソフィアの喉から、小さな悲鳴が漏れた。
シュルプリーズは背後から彼女に寄り添い、その耳元へと顔を寄せる。冷たい仮面の感触がソフィアの頬を掠め、甘く、酷薄な声音が鼓膜を直接震わせた。
「――助けて、お姉ちゃん」
ビクリと、ソフィアの肩が大きく跳ねた。
失われた弟、リブル。何百、何千という犠牲を重ねても取り戻したかった、掛け替えのない血縁。その無垢な縋り声の幻聴が、ソフィアの理性を完全に焼き切った。
シュルプリーズの黒い手が、ソフィアの指をそっと握り込む。
――銃声。
狭い執務室の中で、耳を聾するような凄まじい銃声が轟いた。
黄金の銃口から噴き出した火薬の煙が、ふわりと宙を舞う。放たれた大口径の弾丸は、過たずカシウス・リングの胸の中央を深々と撃ち抜いていた。
「あ……、が……」
絶対的な支配者であった男の顔が、信じられないものを見るように歪む。喉の奥からゴボリと血の泡を吐き出し、カシウスはその巨体を椅子ごと背後へと傾けた。
重々しい音を立てて樫机の向こう側へと崩れ落ち、そして二度と動かなくなる。
ゼニット・コンツェルン総帥、カシウス・リングの死。
星の運命を弄んできた「旧き王」の、呆気なく、惨めな最期であった。
「……ぇ……?」
手からリボルバーを取り落とし、ソフィアはその場にへたり込んだ。
自分が何をやったのか、誰を殺したのか。パニックに陥り、頭を抱えて震える彼女を、シュルプリーズは冷たい眼差しを向けた。
「……これが全てだ。文脈さえ整えれば、実の親ですら人は撃ててしまう」
彼はソフィアから視線を外すと、ゆっくりとカシウスの死骸へと近づき、その豪奢なスーツの胸ぐらを無造作に掴み上げた。
そして、玉座のごとき革張りの椅子から、ゴミでも放り捨てるように、乱暴に床へと転がした。
「やはり、お前たちに自由意志なんてものはない」
ドサリと重い肉の塊が転がる音を背に、シュルプリーズは主のいなくなった玉座に、どかっと深く腰を下ろす。その様子を目にしたソフィアは、腰を抜かした。
「な、なにをしているの……」
シュルプリーズは彼女を見ることもなく、穏やかに応えた。
「……お気になさらず。我々は、我々の自由を取り戻すだけですよ、“姉上”」




