第33話 おしごとの話をしているだけだから
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ゼニット・コンツェルンが実質的に支配する浮揚都市ヘシオドス。
それを見下ろすリング・タワーの頂上付近には、かつて楽園があった。
ガラス張りのドームに覆われたプライベートな空中庭園。徹底した温度管理のもとで、そこに一年中鮮やかな緑と花々が咲き誇っていた。どれもこれも、地球の花だ。
眼下には煌びやかな都市と、青い海原が広がっている。
「おねえさま! はやくはやくっ!」
「こら、ソフィア。走ると危ないですわよ。リブルも、足元をみてね」
芝生の上を無邪気に駆けていく妹のソフィア。そして、彼女の少し後ろを、短い足で一生懸命に追いかけてくる幼い弟――リブル。
ふかふかとした草花の絨毯の上で、三人の笑い声が重なり合っていた。陽光を弾くスプリンクラーの水に虹がかかり、リブルがそれを小さな手で掴もうとしていた。
長女のセレジアだけは少し大人ぶって、微笑みながら二人の後を追う。
この庭園は、姉、妹、そして弟の三人にとっての世界のすべてだ。
何者にも脅かされることのない絶対の安全圏として、隔絶されている。
――だが、その穏やかな気配は、廊下の向こうから漏れ聞こえてくる『声』によって、いとも容易く切り裂かれた。
「……貴方は自分の子供を! 何だと思っているのですかっ!」
「いまさら何を、あれの因子こそが最適解だと、貴様も認めただろうに!」
庭園に隣接する廊下。そのさらに奥にある父・カシウスの執務室から響いてくる、両親の言い争う声だった。
母の悲痛で金切り声に近い叫び。
父の鉛のように重くで、有無を言わせぬ威圧的な怒声。
その声が聞こえた途端、ソフィアの足がピタリと止まり、怯えたようにセレジアのドレスの裾をぎゅっと強く握りしめた。リブルもまた、何が起きているのか分からないなりに穏やかでない空気を察し、泣き出しそうな顔で姉たちの背中に隠れる。
「……大丈夫。お父さまとお母さまは、おしごとの話をしているだけだから」
セレジアは震えるソフィアの肩を抱き寄せ、リブルの小さな頭を撫でたながら、結局は自分自身に、そう言い聞かせていた。
最近、こういうことが多すぎる。
以前はもっと優しかったはずの父の眼差しが、いつからか何かを見定めるかのようなそれへと変わり、母は何かに追われているように神経をすり減らしていた。
幼いセレジアには、両親が何を争っているのかを知る由もない。ただ母が、弟のリブルを、父の視線から隠そうとしていることだけは、子供心にも感じ取っていた。
大丈夫。こんなことは、きっといまだけだ。
いつかまた、昔のようにみんなで笑い合える日が来るはずだ。
そう信じて、耳を塞ぐようにしてやり過ごすしかなかった。
――けれど、その『いつか』は、永遠に訪れることはなかった。
「マリアァッ! マリアッ!」
ある朝のことだ、父が母の名を呼ぶ怒号で目を覚ました。
いつもなら静けさに満ちているはずの邸内が、騒然としていた。使用人たちが慌ただしく廊下を駆け回り、カシウスの固いローファーが苛立たしげに床を叩く。
「……おねえさま、どうしたの?」
寝巻き姿のまま目をこすりながら、ソフィアがセレジアの部屋に入ってきた。
その小さな手は不確かに震えながら、姉のネグリジェの袖を掴む。
「わからないわ。でも、お父さまがとてもお怒りみたい……」
セレジアはソフィアを庇うようにして廊下へ出た。そこで彼女たちが目にしたのは、半狂乱になったカシウスが、母・マリアの私室の扉を蹴り開ける姿だった。
「……逃げたか。あの女めェ! ――これだから女は……感情で動くッ!」
吐き捨てるような言葉は、もはや威厳ある父のそれではない。
「おねえさま、リブルがどこにも居ないの。おかあさまも」
ソフィアの不安げな声に、セレジアの胸がきゅっと締まった。
――母が、弟を連れていなくなった。
カシウスの怒声が遠ざかり、邸内に重苦しい静寂が戻った後。
セレジアは泣きじゃくるソフィアの手を引き、母の私室へ。
綺麗に片付けられた化粧台。主の温もりを失ったその部屋の真ん中。
サイドテーブルの上に、ぽつんと置かれているものがあった。
美しい装飾が施された、アンティークのオルゴール箱。
母が、その母の、そのまた母の形見として受け継いだものだ。
セレジアが蓋を開いてみると、オルゴールは優しく、澄んだ音色を奏で始める。
それは、母がよく寝る前に歌ってくれた子守歌のメロディだった。
箱の中には、小さな手紙が一枚はさまっていた。
“愛する娘たちへ”
ただその一言だけ。謝罪の言葉も、別れの挨拶もない。
姉妹ふたりぽっちの母の部屋に、オルゴールの旋律が響く。
「――お母さま…………」
なぜこんな大切なことを、いままで忘れていたのだろう。
なぜこんな大切なことを、いまになって思い出したのだろう。
古ぼけた夢のきおくが終わる。
あのオルゴールは――どこに行ってしまったのだろうか。




