第32話 俺の手とは違う
「気絶したまま帰ってくるなんて。……おかえりなさい、フィン」
セレジアは、清潔な枕に沈んだ彼の頭を撫でた。
インスマス号の医務室に鳴り響いているのは、断続的な電子音だった。
人の鼓動の間隔で鳴り続ける音律。ゆったりとした心拍のリズム。
彼の帰巣本能か、インプラントの機能なのかは分からない。
だが、フィンは機体にカティアのユニットを抱えて帰ってきた。
コクピットを開けてみれば、彼はシートからずり落ちて――。
そのまま担架で医務室へ運び、船医が処置を終えたところだった。
次第に、無機質な電子音の響きが大きくなっていく。
心電図モニターに目を向ければ、鼓動が大きくなっている。
弱々しかったそれに、はっきりとした抑揚が生まれつつあった。
「セレ……ジア……か……?」
「フィン!」
「ここは……インスマスか……? カティアは……」
上体を起こそうとする彼を、セレジアは優しく抑えた。
「ちゃんと持ち帰っていたわ。いまマハルが診ていましてよ」
「そうか……それなら良い……ぐっ……」
フィンは脇腹を抑えて歯噛みし、ベッドの上でうずくまる。
船医の診察によれば、ショック死してもおかしくない重傷だった。
局所の装甲の陥没と衝撃による、多発的な肋骨骨折。
コンソールに打ち付けたことによる胸骨のヒビ。
シートベルトが極限まで食い込んだことによる、内臓破裂。
だが、いまセレジアの目の前にある身体は、生理医学を逸脱していた。
「……動かないで。まだ骨が完全に繋がりきっていませんわ」
高熱を起こした身体を抑えながら、もう一度ベッドに寝かせる。
激しい治癒プロセスの代償だ。その体温は異常なまでに跳ね上がっている。
遺伝子調整を受けた強化兵士に備わった、爆発的な自己修復。いま、フィンの肉体は細胞分裂と骨の癒合、これを数時間のうちに強引に終わらせようとしていた。
額には絶えず脂汗が浮かび、粗い呼気にはボイラーの蒸気のような熱がある。
「あの中でミゼッタと……戦ったんですのよね?」
セレジアは上目遣いに、様子を見るようにして訊ねた。
「ああ。俺との決闘を目的に、施設で待ち伏せていた」
「……シュルプリーズと彼女は、繋がっていたということね」
「それだけじゃない」
フィンはそう言い、痛みを噛み殺しながら上半身を起こした。
咄嗟に抑えようとするセレジアの手を払って、視線を合わせる。
「ゼニットとSAVIOが、五大企業の均衡を崩そうとしている」
「戦争……を?」
「最後の経済戦争にして、最初の闘争が始まると……ミゼッタは言っていた」
闘争。その言葉に、セレジアの脳裏にカシウスの気配が過った。
その想像を否定するかのようにして、フィンが言葉を付け加える。
「まさか父が……」
「いや、シュルプリーズだ。ヤツが、本物の混沌を望んでいる」
「本物の混沌? どういうこと……?」
「……俺たち強化兵士は、計画の通り生まれた存在だ。そうして生まれた以上は、俺たちにはある種の宿命が存在している。その宿命の破壊こそが、ヤツの狙いなんだ」
包帯を巻かれた手のひらを握りしめて、彼は続ける。
「生まれと終わりを予め定められたからこそ、ヤツは絶望を感じている。ヤツ自身がどれだけの力を振るおうと、それは性能の証明で、機能で、技術的なプロモーションでしかないと――ヤツはそう感じている。アイツの心は、ひどく不自由なんだ」
「その自由のために、誰にも予想できない不安定な世界を欲していると?」
「誰の思い通りにもならなくなれば、支配から逃れられるとヤツは信じている」
その言葉をきっかけに、医務室にわずかな沈黙が降りた。
継続された電子音だけリズムを刻み、ふたりの鼓膜を刺激する。
セレジアは彼の拳を手のひらで包み込んで、そっと訊ねた。
「貴方は……フィンは、どう思っているんですの?」
「俺が? どういうことだ」
「貴方の心は、不自由ではないの? ――私は、貴方を……」
握られていた拳が、優しく開いて、手と手が繋ぎ直される。
「温かくて、柔らかい手だ。俺の手とは違う」
「――……フィ、フィン……?」
たじろぐセレジアを捕まえるように、彼は手を離さなかった。
「この感触を得られるのは、いまの俺だけだ、セレジア。確かに、俺たちには選択の自由なんてないのかもしれない。文脈、規範、運命……どんな言葉で表してもいいが、人は誰もが皆、大きな流れの中に従って生きている。その流れが人の意志を形作って、個人の意思決定を操作することさえある。だが、俺たちは感じているはずだ」
「……何を?」
「痛みと温もりと、冷たさと柔らかさ。この質感を味わう自由が、俺にはある」
傷だらけの、包帯に巻かれた腕がセレジアの肩にまわった。
彼の固い身体が密着して、その燃えるような体温を伝える。
「セレジア。俺はお前と共に居て、一度も不自由を感じたことはない」
「――フィン……ありがとう……」
ふたりはそのまま、しばらく何も言わずに、静かに互いを抱きしめ合った。
フィンの規則正しく、とても力強い鼓動がセレジアの耳元で響いている。
それは異常な熱を帯びていたが、いま彼女は、確かな安らぎ感じている。
連日の疲労と、張り詰めていた緊張の糸が解けてしまった。セレジアの意識は、その温もりの中に溶けるようにして、深い、深い微睡みの中へと沈んでいった。




