第27話 もうどこにも行かないで
――再フォーマット・プロセス、進行率98パーセント。
――自我領域の初期化を完了。指揮官権限の同期、正常。
無機質な電子音声が、研究シェルのラボ内に冷たく響き渡った。
調整槽の冷たい羊水に沈む青年の顔には、もはや何の感情も残されてはいない。
彼が戦場で見せた怒りの反応も、僅かな苦悩も、あの夜の涙の記憶さえも。
上位システムからの強制アクセスと、新たな改竄データが無慈悲に上書きする。
ソフィア・リングは、変動し、収束していく数値とデータを見下ろしながら、満足げな笑みを浮かべた。
「お姉さまの流し込んだくだらないエラーデータは、これで綺麗サッパリね」
彼女はコンソールを叩き、最終フェーズへの移行を承認する。
水槽の中の彼が、ゆっくりと目を開いた。光を宿さない、完璧な虚無の瞳。
それこそが、ソフィアの求めていた絶対的な安心だった。
「……おかえり、“リブル”。お願いだから、もうどこにも行かないで」
◇
──ツグルク設計局での敗北から、数日。
インスマス号は、ティレムスから数十キロ離れた「カスバ造船工廠」に身を寄せていた。そのドーナッツ状の巨大施設は、アルジャバールの所有する中でも最大の規模を誇り、各ブロックごとに様々な艦種の専用メンテナンス・ドックとなっている。
セレジアたちが此処に立ち寄ったのは、損傷した船体を修復するためである。
無論、重大な損傷を受けた〈グラベル〉と〈ライカントロピー〉の修理も。
GSは、別名を「人型自在巡航艇」と呼ぶだけあって、一般的な船舶とは技術的な親類にあたる。故に、小型船舶用のメイン・ドックは特にひと気が多い。日夜多くの開拓者クランが訪れては、各々のGSの調整や、改造などに明け暮れているのだ。
「はぁ……いつになるやら……。時間がありませんのに……」
屋内埠頭。整備用のガントリー・クレーンに吊るされた兄妹のGSから、火花が散っていた。いまは熱によって灼け、歪んだ装甲の張り直し作業をやっている。
セレジアは手すりを掴んだまま、何時間もそれをずっと見つめていた。
白い息。何度目かも分からない溜め息が漏れ出してしまう。
夜の潮風が、重厚な機械油の香りと混ざって少しだけ目に沁みた。
ストールを撒き直し、袖で目元をこすっていると、背後から声がする。
「セレジアさ~ん。そろそろ宿泊所、戻らない? 風邪ひいちゃうよ」
「……ナイア。貴女こそ、火傷の具合のほうはよろしくって?」
セレジアが振り返ると、そこには両腕を頭の後ろで組みながら、飄々とした態度で歩み寄ってくるナイアの姿があった。
「私? 私ならピンピンしてるよ。それよりさ……」
ナイアは手すりに寄っかかり、セレジアの顔を横からじっと覗き込んだ。
「正直、部屋でメソメソ泣いてるかと思ってた。お父さんに全部見透かされてて、フィンまで連れ去られちゃったんだからさ。で、もし『私には戦う資格はない』なんて言い出したら、思いっきり喝を入れてやろうかな……と、思って来たんだけどさ」
「ふふ。それは恐ろしいですわね。けれどビンタの出番はなくってよ」
「まさか。グーでいくよ。頬っぺに、グーで」
「……それは流石に、本気で勘弁願いたいですわ」
セレジアは自嘲気味に笑うが、その瞳の奥には確かな熱が宿っている。
二人の間を、静かな風が通り抜けた。
その後を追うようにして、セレジアが言う。
「……私、少し気付いたことがあるんですの」
「気付いたこと?」
「ええ。彼を、フィンを……残酷な運命から救い出した気でいた。でも、違った」
手すりを握る白い指先に、ぎゅと力がこもる。
「本当に救われていたのは、私の方だった。彼が傍にいてくれるから、私は父の狂気に立ち向かうことができた。孤独と恐怖に耐えて、戦おうと思えた。彼が……フィンが、私にとってどれほど特別な存在だったか。それを失って、初めて気づいた」
「……特別な存在、ねぇ?」
ナイアはいじわるく、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「それってさ、もっと分かりやすい言葉にできるんじゃない?」
「……分かりやすい言葉?」
「そう。辞書で引いたら、たった二文字で終わるようなやつ」
セレジアは一瞬、言葉に詰まった。
海風は冷たいはずなのに、頬が熱を帯びていくのが自分でもわかる。
手すりから視線を外し、再び暗い海面へと目を伏せた。
「……ガラにもありませんわね、本当に。私としたことが」
「いいじゃん。別に、隠すようなことじゃないよ。人を好きになるなんて」
なんてことなく言ってのけるナイアに、セレジアは小さく息を吐いた。
からかっているようにも見えるが、その瞳の色は真剣そのものだ。
それが彼女なりの、不器用な発破のかけ方なのだと、伝わってくる。
「ええ。そうですわね」
セレジアは深く深呼吸をして、冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。
「……本当に、滑稽ですわ。彼を失ってから、この感情に名前を見つけるなんて」
「遅くないよ。だって、まだ失ったわけじゃないじゃないじゃん」
ドン、とナイアがセレジアの背中を力強く叩いた。
「痛っ。……そうですわね。フィンはきっとまだ生きていますわ」
「なら、取り戻せばいいだけでしょ。ね、セレジアさん?」
ナイアの言葉に、セレジアはゆっくり瞼を瞬いて、顔を上げた。
眼に映る溶接の火花が、彼女のブルーの瞳に強い光を宿らせる。
「……取り戻して、みせますわ」
セレジアは姿勢を正し、夜風に乱れた銀糸の髪をかき上げた。
その横顔には、もう迷いも後悔もない。
ただ、一人の少女としての執着と、指揮官の覚悟が併せて見える。
「彼を、ゼニットなんかに、ソフィアなんかに、絶対に渡しませんわ」
「ははっ、言ったねぇ。いい顔してるよ、セレジアさん」
ナイアは満足げに頷き、大きく伸びをした。
「さて! 機体が直ったら大暴れしちゃうから。お給料、もっと高くしてもらわないと割に合わないよ!」
「ええ、期待していて頂戴。その代わり……」
セレジアは、水平線の彼方――暗い海の水平線を睨み据える。
いずれ、その方角から朝の陽射しが、きっと昇るのだろう。
「這いつくばってでも、フィンを連れ戻しますわよ。ナイア!」




