第23話 言いふらしたりはせんが
真っ白い部屋。その中程に、フィンは無意味に立ち尽くしている。
家具もなければ、壁紙もない。ひどく無機質で、無意味な空間。
まるで、壁と天井と床は「白色」という物質で作られたみたいだ。
ぐるりと部屋の内側を見回してみれば、背中の壁の一枚が鏡になっていた。
彼自身の姿が、その大きな鏡には映し出されて、微笑みを浮かべている。
造り物のような表情。筋肉、骨格、毛穴に至るまで均整に揃った醜物。
そうか、俺はこんな顔で笑うことができるのか。
否。見知った己はずの裸体の、その首元からは――認識票が外されている。
だが、咄嗟に首を折ってみれば、己の胸元には確かにそれは在った。
たった一枚、たった三文字だけの存在証明。それを外すことだけはない。
つまり、目の前のものは鏡でもなければ、この男も自分ではなかった。
「これでようやく、ゆっくりと話せるな――アーキタイプ」
自分と同じ貌の男が嗤った。自分と同じ声で、ひどく虚ろな笑みで。
「シュルプリーズ? なぜだ。お前は営巣で……いや、ここは……」
「ここがどこであるのか。そんなことはどうでもいい。お前が私のもとへ訪れたか、あるいは逆が起こりえたか。肝要なのは、ここに二人が揃ったという事実だけだ」
要領を得ない、その謎かけのような言葉は答えを為していなかった。
いや、むしろシュルプリーズの言葉は、フィンに問いを投げかけている。
「……お前は、笑わないらしいじゃないか。アーキタイプ」
「それがどうした。お前と交わす言葉などない。消えろ」
「もしかしてセレジア・リングは、お前に笑い方を教えなかったのか?」
フィンは一歩、彼のほうへと歩み寄ってから、強く拳を突き立てた。
だが、その拳は自分と同じ顔の男には、決して届くことはない。
鏡の中の自分を殴ったとて、鏡面にヒビが入り、拳が痛むのと同じように。
ヒビ割れた、二人の間を隔てる何かを、フィンは鏡とは思わなかった。
「アーキタイプ。私が、お前に笑い方を教えてやろう。泣き方を教えてやろう」
「必要ない。お前への怒りだけは知っている。……俺をアーキタイプと呼ぶなッ!」
そう言い放つと、シュルプリーズは肩を震わせて、くつくつと笑った。
「“怒り”? それは闘争本能だ。リングの流刑児に“怒り”とラベルされただけのな」
「違う……これは怒りだ、俺が俺の意志で抱いた、お前に対する、俺個人の憎しみだ」
「“意志”だと? ふふふふっ、それこそ無い話だ。我々、強化兵士は意思決定を去勢されている。私たちの頭の中に埋め込まれた、忌まわしい『天使の輪』によってね……」
「ならば……それならば、お前はなぜ笑っている、シュルプリーズ」
もう一度、彼の己と同じデザインの顔面を、固い拳で打つ。
やはりそれは届かずに、二人を隔てるもののヒビが拡がった。
「そうあるべきだからだ」
「……なに?」
フィンには、その答えの意を汲み取ることができなかった。
彼はいつも通り、なんてことはない、というふうに笑う。
「あの流刑児がお前を憐れむように、我々の身に起きたことを、人の世では“悲劇”というらしい。不浄のルーツ、戦うためだけに生まれ、戦って死んでいく命。私もお前も、そんな悲劇という筋書きのショーの主人公として、役を演じているにすぎない」
ヤツは、いつの間にかその手に仮面を持っていた。
フィンと同じ顔を包み隠すための、無表情のマスク。
「お前は希望という劇を、私は絶望という劇を。お前は悲劇の主人公を、再生する男を演じ切らねばならない。だから課せられた役割と性能を、個人の怒りと履き違えもする。そうして感情を取り戻した、という結論へと……向かわねばならないから」
「――違う……俺は……ッ」
「私は対の筋書きに従って、悲劇の中でただ狂う。狂った者というのは、笑わねば、いや、嗤わねばならない。自分を産んだ世界を、自分という存在そのものを、な」
シュルプリーズはそこで、ようやく仮面を顔に被った。
首から垂れた認識票と、無表情に嗤っている仮面。
対になった裸体の男の差異は、ただそれだけのことでしかない。
それを彼は、シュルプリーズは見せつけたかったのだ。
彼が名前と呼ぶものも、ただの装飾にすぎないのだ、と。
「これが全てだ、アーキタイプ。我々は何も選び取ってなどはいない。そしてそれは、私たち強化兵士に限ったことですらない。お前の仕えるリングの流刑児も、私を造ったソフィアも、あのカシウスでさえも、筋書きのままに動き、死んでいく」
「――それの何が悪い」
「定められた始まりと終わり。その従順な奴隷に、意志などあるのか?」
いまの問いが最後だとばかりに、シュルプリーズは踵を返した。
白い背中が見える。もう一度、フィンは精一杯の力で拳をぶつけた。
瞬間。鏡が砕けて、隔てられた空間の向こう側へとよろめく。
彼は見渡した。部屋の反対側に、ヤツの姿は影も形も見えない。
――ふと耳元で自分の声がした。
「俺たちは結局、シナリオの上を行く限り“自由”など得られないんだよ」
◇
フィンが目を覚ますと、そこはいつものコクピットだった。
誰にも侵されない、たったひとつの神聖で、静寂である場所。
彼は――好き、とか、嫌い、という感覚的な実感を説明できない。
あるとすれば環境の喧静に基づく、効率への影響判断だけだ。
だが、そのコクピットに、最近は妙な“同居人”が積まれていた。
カティア――。そう名乗るAIは、ときどき、ひどく騒々しい。
時代錯誤の言葉で喋り、好き勝手に声のボリュームを変える。
それでも彼は、此処で眠っていた。着座したまま眠る習慣をやめない。
四六時中、話しかけられもする。だが、既に身体が覚えた、作業と休息をシームレスに結ぶ生活習慣を変調してまで、新たな寝床を探すことも非合理だったからだ。
ゆえに――この晩も、フィンはコクピットで眠っていた。
『……泣いておるのか、主殿』
だから、最初に彼の“涙”を視たのは、AIであるカティアだった。
「どういう意味だ、カティア」
フィンは水分を失くし、枯れた声で訊ねた。
『モニターの反射でも見るんじゃな。……悪夢でもみたか?』
言われて目元に触れてみると、熱い水のしずくが指先に触れた。
血や、汗とも異なる感触。それらとは、明らかに粘度が違う何か。
カティアはこれを“泣いている”と評した――なら、これは涙だ。
『なんじゃ、その顔は。――涙など、初めて見るものでもあるまい』
「いや。俺が、俺の分泌した涙を見たことは――こんなことは始めてだ」
『――ふぅむ……? それはまた……奇怪な話じゃな……』
流血に対処するように、目元の涙袋を塞ぎながら、フィンは言った。
「このことは秘匿しておけ。明日の作戦指揮に、影響する可能性がある」
『――んぅ~、気分わるいのう。別に言いふらしたりはせんが……』
彼の命じつける声色は、いつなく震えて不正確な響きを持っていた。
◇
インスマス号の営倉は、アビサル・クォーツの製錬室と隣接する。
というより機材の積載後、余った空間にそれをあてがったという形だ。
当然のこと、製錬装置が稼働している最中の騒音が壁伝いに響く。
室内にはベッドとなるベンチがひとつ、小窓つきの扉ひとつ。
扉は、内側に鍵どころか、ドアノブすらもついてはいなかった。
人を閉じ込めておく、という都合によって生まれた殺風景な部屋。
それは、シュルプリーズが夢に見た、あの場所にも似ている。
彼は仮面裏に、いつもの微笑みを浮かべながら、低い声で呟いた。
「並列化と同期には、問題はなし……か。――んふふ……」
狂気を演じる笑い声は、扉の外へ漏れぬように押し殺されている。




