49.【最終話】もう、戻れない
王が、「近う」と呼ばわると、翠はしずしずと目の前にやってきた。普段より、何やら神妙な面持ちだ。
いつものように寝台の隣をすすめると、少し距離を置いて、彼女は座った。
「今日は驚いたぞ。まさか女官に化けるとは」
「ご無事なお姿を見たくて、雪蘭妃さまにお願いしました」
「俺も、お前のことが気になっていたから、会えてよかった。――傷はどうだ」
「私のほうはすっかり。もう鍛錬も始めました」
翠らしい。王はくすりと笑った。
「主上のお怪我のほうがひどかったかと思います。あのとき、お守りいただいて、申し訳なかったです」
「とっさだったからな。何も考えずに突き飛ばしてしまった。傷も、ほら」
王は頓着なく、衣の前をはだけた。傷痕は赤く盛り上がり、はっきりと残ってしまった。しかしもうすっかり癒え、触れても違和感はない。
「この通り、完全に治った」
翠の顔がさっと赤らんだ。目をそらされる。
(……体を見せたのはまずかったか)
王はいそいそと服を直した。
(なんだか、調子が狂うな)
やはり、様子がいつもと違う。妙におとなしい。自分としては、会えなかった時間を埋めて、また以前のように軽口をたたく関係に戻りたいのに。
(俺のそばにいたせいで、大きな怪我をさせてしまった)
その負い目もあり、うまく会話が継げない。
そのまま、気詰まりな沈黙が訪れた。話したいことはたくさんあったはずなのに、もう何を話したらいいのか分からない。
すると、翠が立ち上がった。
「主上。今日は、いつもと違うのがおわかりになりますか?」
そう言われて改めて見れば、いつもよりましな――宮妃としてはごく普通の格好をしている。訝しんでいると、翠が続けた。
「主上がお好きな香油を塗ってもらいました。他の人たちと釣り合うように、紅も白粉も」
――また、変な本でも読んだのか?
「なんだ、抱かれたいのか?」
こう言えば、この娘はきっとこう返す。ご冗談を、と。
しかし、翠から出た言葉は、予想を大きく裏切るものだった。
「はい。そのつもりで」
「おい……!」
寝台からずり落ちそうになる。
(こいつは、俺のことを男だなんて思っていない)
だからもう、そういうことは一切考えないようにしているのに。
(まただ)
(こうやってこいつは、俺の心をかき乱してくる)
鈍感も、積み重ねれば暴力だ。
(もう、やめてくれ)
「……すまん、冗談だ」
「やはり。いつもそう言って、何もしない」
「え……?」
(こいつは、何を言い出すんだ)
なんとなく、まずい気がする。いつもと何かが違う。決定的な何かが、変わる予感がする。翠の出方を、慎重に見守る。
「結局主上は、私には触れもしない。――今日限りで、お暇をいただこうかと思っています。お許しを」
「――急だな」
何があったのだろう。どう考えても様子がおかしい。
(そういえば、あの襲撃があった日も、散歩から戻ると急に態度が変わった)
(大きな怪我もさせてしまった)
(もう後宮にいたくないのなら――)
いつまでも、ここに縛り付けておくのは酷だ。そばに置きたい気持ちは、自分のわがままなのだから、彼女が下がりたいなら下がらせるべきだろう。
「差し支えなければ、事情を話してみよ」
「……先日の襲撃のとき――あなたを、絶対に傷つけさせたくないと思いました。死なせたくない、失いたくない、と。そして今日、久々にお顔を拝して――それで、理解しました」
緑がかった瞳が、じっとこちらを見てくる。
「主上、あなたが好きです。この世の誰よりも、大切です。そして強欲にも、あなたにも同じように思っていてもらいたいと、思ってしまいました」
「……っ!」
思わず息をのむ。
衝撃は、あまりに大きかった。
「でも、それは無理なこと。自分の立場もあなたの立場も理解しています。なので、なので……っ」
声が震えている。
「最後に主上に触れていただこうと、そう思い……、ここへ来ました。しかしやはり……あなたは私に――ふっ、触れようともしない……」
ぽたりと涙が落ちた。
「こんな強欲な気持ちを抱えたまま、ここにいるのは辛いです。だからもう……お、お暇を、いただこう、かと……」
翠の覚悟が伝わってくる。
(なんてことだ)
ある意味、一番恐れていたことだ。今、手を出したら溺れてしまいそうだ。だから今まで、決定的なところまで踏み込まずにいた。
こんなにも誰かを求め、心を揺さぶられることなど、今までなかった。
(一歩を踏み出すのが怖い)
怖いから、いつも軽い冗談でごまかしていた。
自分には立場があるから、たった一人に振り回されてはいけない。
(ああ……でも)
(でも、自分の本心は)
(――もう、ごまかしきれない)
翠の覚悟を見た。それを、真正面から受け止めたい。受け止めるべきだ。
目の奥がじんわりと熱くなる。手がかすかに震える。声を出したいのに、その先が恐ろしくて、喉がつっかえる。
(こんな勇気を、お前は……!)
翠の真心に、真摯に答えるべきだ。
「……俺もとっくに、そう思っている」
絞り出した声は、情けなくかすれていた。
「えっ……?」
「……だいたいなあ、お前が鈍いんだよ」
堰をきったら止まらなかった。
「普通に分かるくらいには態度に出してたよ。さすがに察しろ!何でもないやつに、私費で買ったかんざしなんか贈るか!それを、あろうことか武器にしやがって」
言いたいことは、山ほどある。
「でも、お前が何も態度に出さないから、お前にはそういう気がないのだと。ないなら――」
王は言葉を切る。一方的に求めたくなかった。圧倒的に立場が上の自分と、拒めない宮妃。そんな関係にはなりたくなかった。
「ないなら、触れるべきではない、と」
「そ、そんなの」
翠があわあわしながら反論する。
「察しろったって、分かるわけないじゃないですかっ!こういうの、は、初めてだし」
「俺だって初めてだよ」
「じゃあ、わ、私のこと――」
見上げてくる目を見つめ返す。一呼吸置き、自分が本当に伝えたい言葉を探す。
「ああ、好きだ。この世の誰よりも、大切だ」
翠の瞳は見開かれたまま。じわりと涙があふれ、それが水滴となって頬を伝っていく。
「嬉しいです」
「俺もだ」
抱きしめる、折れそうに細い体。緑がかった瞳は、涙に濡れている。
「私に、触れてください」
「本当に、いいのか?もう、冗談ではすまされんぞ」
翠に言っているのか自分に言っているのか。
祈るような気持ちで返事を待つ。是か非か、どちらの返事が欲しいのか、自分でもわからない。
「はい」
「もう、後戻りはできんぞ。というかもう――できそうにない、が」
「大丈夫です」
「ずっと、何度も…お前を抱きたいと思っていた。そのたびに――壊してしまいそうで、怖かったんだ。こんなに細くて小さくて」
抱きしめた背中は、すぐに骨に当たる。身長は、自分の胸ほど。あまりに華奢な体。
「鍛えていますから、ご安心を」
「……ふっ、頼もしい」
寝台に、小さな体を押し倒す。涙をぬぐってやり、もう一度抱きしめる。
(もう、戻れない)
自分も強欲だ。心も体も過去も未来も全部、欲しくて欲しくてたまらない。そしてこの娘にも、同じように思ってほしい。
少し身を起こし、顔を近づける。唇が触れる。
「主上……」
「珀瑛だ」
翠が少し首をかしげる。
「俺の名前。今度から、そう呼べ」
「珀瑛、さま…」
両の手のひらで頬を包み、もう一度唇を重ねた。細い腕が、首に回される。
――もう、戻れない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。次回、エピローグ掲載予定です。
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