47.顔を伏せる女官
翠は久々に、雪蘭妃の屋敷に訪れた。
門には女官がおり、出迎えてくれる。もう一人の女官が、主のいる間へと案内してくれた。
(もとに戻ってる……)
女官も下女も去り、雪蘭妃一人だった屋敷に、また血が通い始めている。
「翠、久々じゃな」
雪蘭妃はネーネーを抱いていた。
「はい。ご無沙汰しています」
「まあ、座れ」
女官が、お茶を持ってくる。
「ネーネーも、来るようになったんですね」
「そうじゃ。最近急に、よく来るようになって、ほとんどここに住み着いておる。なんの気変わりじゃろうか」
「雪蘭妃さまのおまんじゅうが、気に入ったんじゃないですか?」
「お前のおかげじゃ。炊事場の普請を諦めなくて良かった」
明鈴妃は失脚し、実家へ戻されたときいた。行き場のなくなったデブ猫は、ここに入り浸ることにしたのだろう。
「怪我はどうじゃ」
「もうすっかり良くなりました。それより、主上が心配で。私より、お怪我がひどかったので」
「そうか。そりゃ、気がかりじゃの。では翠、我と主上の見舞いにいくか?」
突然の提案に、思わず息をのむ。
「え!いけるんですか?」
「我はこう見えて、第二夫人じゃ。見舞える」
それは願ってもいないことだった。
「お付きの女官ということで連れて行くから、話をすることは叶わぬが、それでも構わぬか?」
「ありがとうございます。十分です。お供させていただきます」
「ではさっそく、先触れを出しておこう」
そう言って雪蘭妃は近侍を呼び、なにやら言いつける。
(主上に……会える!)
あの襲撃があってから、二十日ほど経っていた。
◆
「雪蘭でございます」
「入れ」
王の声だ。聞き覚えのある、張りのある声。何日ぶりに聞くだろう。
扉が開けられる。雪蘭妃に続き、女官の服を借りた翠も、入室する。
慣例に従い、拱手したまま顔を伏せる。声がかかるまで、顔を上げることは許されない。
「主上、お元気そうでなによりです」
「わざわざの見舞い、感謝する」
「政務には、いつお戻りになるのじゃ?」
「明日だ」
「それは祝着」
(思ったより、お元気そうだ)
声には生気が乗っている。
(――顔が、見たい)
ほんの少しだけ、目線を上げる。
姿が見えた。
寝台に座っている。午後の日差しを受けるその顔は、血色が良い。目に力が宿っている。
そこに、確かに、存在している。
手紙のやりとりとは違う、圧倒的な存在感。
(いつもの主上だ)
あの日から思い出す王の顔は、色を失い固く目をつぶり、恐ろしい予感を想像させるあの顔だった。
(良かった。ご無事で)
安心のあまり、膝から崩れ落ちそうだ。
なぜだか出そうになる涙を、口にぎゅっと力を加えてこらえる。
王が、ふとこちらを見た。
(まずい)
女官が王を盗み見てはならない。
一瞬だけ合ったように思った目線は、すぐに外された。
王は、何事もなかったかのように、雪蘭妃と話している。
(気づかれたわけではなかったか)
王が、話しながら耳を触った。そうして、あらぬ方向をちらりと見る。
――視線を感じたときの符牒――。
(ははっ……)
なんだ。
ちゃんと、気づいてるじゃないか。
ぽたりと床に染みが広がった。こらえきれずに落ちた涙だった。
◆
「入れ」
と王が言うと、雪蘭が入室し、続いてお付きの女官も入ってきた。
(あれは)
なんとなく女官が気になったのは、背格好が、今一番無事を確かめたい娘に似ていたからだ。その女官は拱手した腕に顔をうずめているから、顔まではうかがい知れない。
(俺はどうしたんだ)
女官にまでその幻影を求めるとは。
(さすがに、どうかしている)
雪蘭と会話をしながら、もう一度ちらりと女官を見てみる。
彼女もこちらを見ていた。
その目。
――翠。
(やはりお前か)
思わず笑みがこぼれそうになるのをこらえ、平静を保つ。
(気づいたぞ)
視線を感じた時の符牒――耳に触れ、そっぽを向く。それをあの娘が見ていたかは分からないが、どちらでもいい。
手紙で、様子は知っていた。しかし、実際にそこに存在している彼女を見ると、安心感がどっと押し寄せる。
(言いたいことが山ほどある)
元気だろうか。傷は痛まないだろうか。あのそっけない手紙はなんだ。巻き込んですまなかった。あんなに傷つくまで戦ってくれて恩に着る。
雪蘭が退室したあと、侍従を呼ぶ。
自分が今から言うことは、侍従を困惑させるだろう。渋い顔をして反対するかもしれない。
(でも、押し通させてもらおう)
◆
主人は、ずいぶん長い間、雪蘭妃の屋敷から帰ってこなかった。
帰ってきた翠は、借りた本を抱えていたが、どこかぼんやりしていた。
(どうしたんだろう)
と、杏は首を傾げた。いつもなら、にたにたしながら本を開くところだ。
戸がたたかれ、王のお召しがあることを聞き、杏は内心驚いた。
(まだ、政務に戻ったというのは聞かない)
(なのに――)
いや、自分は王の私生活を、とやかく考えていい立場ではない。
(翠さまは)
どう思うだろう。
手紙のやり取りをしている中で、やはり王の体調を気遣っているようだった。会えるとなったら喜ぶかもしれない。
(でも、本)
本を借りた後は、たいてい王の呼び出しを嫌がる。
「翠さま、本日主上がお呼びのようです」
「うん、分かった」
翠の反応は、杏が想像したどちらでもなかった。半ばうつろな表情で了承しただけだった。
(どうしたんだろう)
借りた本を開きもせず、卓に置いたままぼーっとしている主人を見やる。
(雪蘭妃さまのお屋敷で、何かあったんだろうか)
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