45.手紙
(だいぶ、回復したな)
翠は伸びをした。
まだ背中は痛むし、微熱は続いている。それでも歩けるようになると、ずいぶんと気が晴れた。鍛錬はさすがに無理だが、庭を散歩したり、本を読んだりはできる。
「翠さん、様子はどう?」
と、紅が訪ねてきた。
「うん。もう結構大丈夫だよ」
翠は読んでいた本を閉じ、紅を迎える。
「大変だったわね。賊に襲われるなんて」
「うん。大変だった」
「ねえ、明鈴妃さまの近侍の件、聞いた?」
「いや……」
「東宮さまのお部屋の火事、その近侍がやったそうよ」
「東宮さまの、火事?」
――何のことだ?
「そういえば、そのことはお耳に入れていませんでしたね」
杏が慌てたように説明する。
「翠さまと主上が賊に襲われた日、ちょうど東宮さまのお部屋で火事があったのです」
「そうだったんだ。知らなかった。それを――近侍が?」
「噂よ、あくまで。でも、明鈴妃さまの炊事場の火事も、菫が見たって言ってたじゃない、近侍が男とコソコソしているところ」
「うん」
「火付けが大好きな、かなりヤバいやつかもね、あの近侍」
「そう……かもね」
王が悩ましそうに頭を抱えていたのを思い出す。
――明鈴の近侍は……あいつの妹だ
「翠さん、あなたのことも、噂になってるわよ」
「え、どんな?」
「身を挺して主上をお守りした、素晴らしい宮妃だって。なんだか涙が出そうな美しいストーリーが出来上がっていたわ」
「ははっ……なんだそれ……」
翠は軽く笑った。
(逆だ)
――私が、守られた。
あの、毒の短剣。
(主上が私を突き飛ばしたから)
自分は軽傷ですんだ。そして、体勢を崩した王へ、その凶刃が襲い掛かった。
その瞬間を思い出すだけで、足元から震えが上ってくる。
ゆっくりと倒れる王。
固く閉じられた瞼。
肩口から走る、一条の赤い傷。
あの時の恐怖は忘れられない。
何度も何度も夢に出てきた。
「噂ってのは、当てにならないな」
「本当に、そうね」
そのとき、戸口で対応していた杏が、翠を呼んだ。
「翠さま、お手紙です」
少し思いつめたようなその表情で、誰からの手紙か分かった。
「杏、ありがとう。その手紙、一人で読みたいな。紅さん、今日は来てくれてありがとう」
「分かったわ。また来るわね」
そう言って、紅は自室へと戻っていった。杏も洗濯物を持って、部屋を出ていく。
卓に向かい、一呼吸入れる。
翠は手紙を開いた。
◆
手紙の書き出しは、自分の無事を知らせる内容だった。それを見ただけで、全身から力が抜けた。
(良かった……)
少し字に震えがあるものの、これだけの分量が書けるのなら、かなり回復しているのだろう。
無事の知らせのあとには、療養が退屈だという泣き言。
(それは……そうだろうな)
王の、しょんぼりした背中を思い浮かべ、翠はくすりと笑った。
最後に――とはいえ、紙面のほとんどを使って、翠への質問と小言が詰め込まれていた。
傷の治りはどうだ、食事はとれているか、よく眠れているか、医者の言うことは聞け、無理をするな――。そして、巻き込んでしまったことへの謝罪。
(長いな)
おせっかいな兄がいたら、こんな感じだろうか。
すぐに返事を書こうと筆を執った。しかし――。
(待てよ。こんな長い手紙に、返事を書くのか……?)
それは、手紙が苦手な翠にとって、途方もないことのように思えた。
◆
(筆不精だった翠さまが、変わられた!)
杏は心の中で感嘆した。
王からの手紙を受け取ってからというもの、主人はせっせと手紙を書いている。もう何往復しているだろうか。
(今まで翠さまは、最大二行しか書いたことがなかったのに)
ちらっと見えた書き途中の手紙は、十行ほどもある。
(翠さまの成長が嬉しい……!)
まるで、親のような感覚だ。
(とはいえ、主上からはその十倍の分量が来るけれど)
あの襲撃から十五日ほど経ったが、王が政務に戻ったという話は聞かない。おそらく、まだ療養中なのだろう。
翠はというと、背中の傷も癒え、すっかり元気になっている。数日前から、鍛錬も再開した。
(本当は、お見舞いに行きたいだろうに)
下妃の身分では、王を見舞うことは叶わない。
「できた!これでいいかな」
差し支えない範囲で内容を聞けば、相変わらず季節の挨拶もない、さっぱりした文面だ。およそ、目上の人間――この国の統治者だ――に出す手紙とは思えない。
(それが翠さまらしい)
「はい。では出しておきますね」
そう言って、杏は手紙を受け取った。
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