44.主上は?
翠が目を覚ましたとき、視界は真っ白だった。
(これは――自分の部屋?どうして私、うつ伏せで)
「翠さま……!」
杏の声だ。
起き上がろうとするが、どこにも力が入らない。
「翠さま、どうかそのままで」
だんだん意識がはっきりしてくる。
――主上は!?
声を出したつもりだったが、息が喉をこすっただけだった。
「主上はご無事です。今は、ご静養されています」
杏には、翠が言いたいことが分かったらしい。
(ありがとう。そうか――良かった)
もう一度、翠は眠りについた。
◆
一瞬目を覚ました主人は、すぐにまた眠ってしまった。
「良かった……」
と杏は独り言ちる。もう一度眠る翠は、ずいぶんと安らかな表情をしている。
肩甲骨あたりの傷がひどく膿んで熱が下がらず、もう三日だ。左腕の傷からは毒が入ったらしく、傷より下は赤黒く変色している。
(翠さま……)
何があったのか、詳しくは分からない。
――今日は主上の部屋で寝ようかなあ。じゃあ、行ってくるよ。
翡翠のかんざしを刺して、呑気に出て行った主人が、こんな風になって帰ってくるとは思わなかった。
そして翌日――。翠が目を覚ました。
「翠さま……!」
またしても動こうとする翠を、制止する。
「背中に傷があります。このままうつ伏した状態で」
翠が何かを言おうとしている。が、萎えた喉では何も言えないようだ。
「白湯を持ってきますから、お待ちください。あと、お医者様も呼んできますね」
◆
医者は、ひとまず危険な状態は脱したと告げ、帰っていった。
「杏、心配かけちゃったみたいで、ごめん」
「いえ、そんな」
「主上は――どうなっているか知ってる?」
それには杏は、首を横に振った。
「ご無事で、静養中としか。あとは根も葉もない噂が立っていますが、どれも信ぴょう性に欠けるもので。ここまではちゃんとした情報が下りてこない状態です」
「なるほど……。あの賊はどうなったんだろう」
「捕らえられ、詮議を受けていると聞いています」
「そっか。なんか、お腹空いたなあ……」
それが翠らしくて、笑ってしまう。
「重湯をもらってきますね。お待ちください」
「えー、あれ、水っぽくて好きじゃないんだよ……普通の粥がいいなあ」
「最初は重湯からです。お持ちしますね」
翠はぶつぶつと文句を言いながら重湯を食べ終わると、口を開いた。声は弱弱しいものの、話し方はいつもの翠そのものだ。
「今回の事件のこと、どんな感じになってる?」
「『主上が二人の賊に襲われたが、御自ら返り討ちにした。そのときたまたま同衾していた宮妃が巻き込まれ、怪我をした』と聞いています」
「ええー?その同衾していた宮妃ってのが、私?」
「そういうことです」
「同衾って……そんな古めかしい言葉で言われると、なんかいやらしさがあるなあ」
「私もそう思いました」
なんとなく翠と王の関係と、同衾という言葉が合わなくて、おかしく感じたものだ。
「そんな感じじゃないんだけどな。主上は椅子で寝ようとしてたし」
「椅子で」
杏は思わず、パシッと口元を手でふさいだ。
(なんていじらしい!!)
(純愛継続ー!!)
「それにしても、主上が一人で賊を返り討ちにしたみたいになってるのは、ちょっとなあ。私も結構頑張ったのに」
「戦える宮妃っていう存在がもう、おかしすぎるんですよ」
「そっか。まあ、手柄はあいつにやるか、しょうがない」
そう言って翠は目を閉じた。眠いから寝るね、と言い終わると同時に、また眠りについた。
◆
次の日の朝、杏が翠の部屋を訪ねると、寝たきりのはずの主人が寝台に座っていたから仰天した。
「翠さま!まだそのような……!」
「ずっとうつ伏せで寝ているのも、ちょっと飽きたし。何とか起き上がれたから、起き上がってみたよ。手紙を、書きたいんだ」
「ちょっと待って!お医者さまを呼んできますから!寝ていてください!」
「えー」
医者に診せたら、「本人が起きたいのなら起きて動いてもよい。傷は触ってはいけない」と言ったので、起き上がりたがる翠を、杏は助け起こした。
「手紙を書きたい。杏、筆と紙を取ってくれる?」
「かしこまりました」
そうして主人は、寝台に座ったまま、さらっと手紙を書いた。
「もしかして――主上にですか?」
「うん。様子が気になるからさ。直接聞いてみようと思って」
「ちなみにどんな怪文書を――」
また、果たし状でも書いたのか。
「ご無事か?」
「それだけ!?いやいや、文字数!!」
「これでいいよ。出しちゃって」
「かしこまりました。やはり――主上が心配ですか?」
「そりゃあね。この、毒が入っていたという傷」
そう言って、翠は左腕の傷を示した。すこしずつ毒が抜けているのか、腕の色はずいぶんと戻ってきた。
「同じ刃で、主上はここからズバッと切られた」
翠は肩から腹を、刃に見立てた手で切る。
「それは――」
危のうございますね、という言葉は何とか飲み込んだ。翠に聞かせていい言葉ではないだろう。
「優秀なご典医が診ているから大丈夫なんだろうけど、やっぱ気になるな」
「そうですね……」
「もし返事が来たら、起こしてくれる?ちょっと眠くなってきた」
そう言って翠はうつ伏した。少ししたら、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
その日から主人は、手紙の返事を待ち続けていた。杏を見るたびに、「返事は来ていない?」と聞く。そのたびに杏は首を横に振った。
翠の回復力は、医者も驚くほどだった。
寝台に座って杏を仰天させた二日後には、歩くようになった。背中の傷はまだ膿み、微熱も続いていたが、本人はあまり気にした様子もなく、本を読んだりしている。
(主上からの返事は……まだ来ない)
やはり噂通り、かなり重症なのだろうか。杏たちには、真実を知る権利がないから、こうして想像するしかできない。
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