43.足元からせりあがる恐怖
「兄さま!よくも、主上を!」
翠は、男へと突進した。
呼吸が早くなる、目が吊り上がる。頭に充満した怒りが爆発する。
(絶対に、許さない)
危険を一切顧みず、一気に間合いを詰める。ダメージを負っている兄弟子は、ほとんど無防備だ。その胴を蹴り飛ばす。
完全に転がった男を踏みつける。かんざしを手のひらに思いきり突き刺し、床へ縫い留める。
頭の中が沸騰しそうだ。荒い呼吸が、自分のものとは思えない。
「よくも、主上を……!」
近くに落ちていた剣を拾い、腰を踏みつけ、胸をめがけて斬りかかる。
「許さない……!」
「翠!そこまでだ!」
王の緊迫した制止が、鋭く響く。それで我に返った。
ギリっと奥歯をかみしめる。
「命拾いしたな」
剣の柄を、思い切りみぞおちに打ち込む。それで男は動かなくなった。
「主上!!」
翠は王のもとへと駆け付けた。
膝を折っていた王が、ゆっくりと倒れる。
「主上……!」
それを慌てて抱きとめる。
王は固く目をつぶり、昏倒している。
(嘘だろ……?)
(だって、さっきはあんなに大声を)
肩口から腹まで走る傷は痛々しいが、思ったより浅い。気を失うほどではない。
――顔色が白い。
(――毒、か?)
(どうすれば)
扉は開かない。
(このままでは)
(もし毒だったら)
(それは、どのくらいの)
(隠し通路)
(いや、危ない)
(ましてや、主上を置いては)
(なんの毒だ)
(どのくらい待てば助けが)
(警護の交代時間はいつだ)
(朝になれば?)
(間に合わない)
一気に考えが加速する。
(早くしないと)
(命が)
(……え?)
(この人は――死ぬのか……?)
(それだけはだめだ、絶対に)
初めて感じる、恐怖。それが足元から静かにせり上がってくる。
(いやだ)
(失いたくない)
(この人を、失いたくない)
その時、外から声がした。
◆
侍従は足早に歩きながら考えをまとめていた。
東宮の部屋で、ボヤ騒ぎ。幸いすぐに火は消し止められたものの、現場は混乱に満ちていて、まだ全貌は見えない。ともあれ、一大事だ。
(主上に報告しないと)
今日は誰かを寝所に呼んでいたか、と考える。
(確か――翠さま)
最近のお気に入りだ。寵愛に偏りがあるのはよくないが、少しだけ目をつぶっている。
最近の主人はずいぶんと窮屈そうだ。王宮を抜け出したとき、こってり絞ったうえに、警護まで増やしたせいだ。
(少し、やりすぎた。――だから、お気に入りの女性と会うくらいなら、まあ)
寝所が近づく。
(何かがおかしい)
護衛が――。
(護衛がいない?)
どういうことだ?
嫌な予感がし、歩みを早める。
さらに近づくと、護衛が倒れているのが見えた。
(死んでいるのか?)
「おい、何があった!」
と揺するが応答はない。
――寝かされている。
(まずい)
血の気が引く。
寝所の扉まで着くと、取っ手のところに、閂のように棒が差し込まれている。
(中から開かないように――)
恐ろしい予感がする。
「主上!!」
棒を引き抜き、扉を開ける。すぐに鼻につく血の匂い。
(これは――)
最悪の事態だ
「主上!」
大声で呼ばわる。
「ここです!」
女の声。翠さまか。
「主上を、お助けください!」
悲痛な声のする方に駆け寄ると、横たわった王を、少女が抱いている。
「息はあります。早く」
よく見れば、彼女も傷だらけだ。
「主上!なにが――」
「賊に切られ、意識がありません。おそらくは毒。私ではどうにもならない。早く医者を」
彼女は泣いていた。それでもまっすぐに自分を見据え、現状を手短に伝えてくる。
「承知しました。賊は――」
「すでに無力化しました。あなたは、早く医者を」
「かしこまりました」
侍従はすぐに踵を返した。
少女も傷だらけだったが、まったく自分の身を顧みてはいなかった。涙を流しながらも取り乱すことなく、的確に状況を伝えてきた。
(あの娘が主上のお気に入りというのも、わかる気がする)
ふと、余計な考えが頭をよぎる。
再び侍従が寝所に戻った時、少女は王に覆いかぶさるようにして、気を失っていた。
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