39.雨が上がったから、気晴らしに散歩しましょう
「お呼びいただき、ありがとうございます」
そう言って、翠は王の寝所へ入った。
(本当に助かった)
雨は昼よりもひどく、ざーざーと大きな音を立てている。
「うむ。近う」
翠が寝台のそばへ行くと、王は心底あきれた顔をした。
「あの物騒な手紙はなんだ!」
「前回より、良くなったかと思うのですが」
「……悪化している。一日中、上が気になってしょうがなかったぞ」
「それは――申し訳ありませんでした」
「それで、何用だ」
「はい」
翠は、明鈴妃の近侍についてを話した。男を連れて小屋から出てきたこと、偽書の作成者かもしれない疑い、決められた見回りルートと時間、地下道に落ちていた青い玉――。
「そうか――」
王は瞑目し、深々と息を吐いた。
「明鈴の近侍か……」
翠が思っていたよりずっと、王は衝撃を受けたようだった。しばらく、難しい表情で虚空を見つめる。
「どうされましたか?」
「明鈴の近侍は――あいつの妹だ」
「そうなのですか」
「となると――明鈴も関係している可能性が出てくる」
「……なるほど」
王は忙しく思考をしているようだ。翠はそれを見守った。
(そういえば)
明鈴妃は、失火が原因とされていた時から、放火されたかのように怖がっていた。確かに、無関係とは言い切れないのかもしれない。
「明鈴に――いや、それは性急すぎる。もし、外戚がからんでいるとしたら……くそ、北方は調整が難しい」
王が背中を丸め、ぶつぶつ言っている。
(またしょげてる……気の毒に)
「主上、お隣に座っても?」
「構わぬ」
隣に座り、眉間にしわを寄せる王の表情を見守る。明鈴妃は第三夫人だ。それなりの信頼があって、その立場に置いたのであろう。
(そりゃ、しょげるよな……)
背中をぽんぽんとすると、こちらを向いた。なんとも情けない顔をしている。
どんな声をかけたらいいのか分からなかったから、翠はそのまま背中をさすった。
しばらくそうしていたら、王が口を開いた。
「お前、今日もここで寝ていくか?」
「ありがとうございます。私からも、主上にお願いしようと思っていました。今夜はこちらで過ごさせていただきたいと」
「……っ!?どっ……どういう意味だ」
「どうもこうも。そのままの意味です」
妙に動揺する王を翠は訝しみ、一つの結論に達した。
「あ、エッチな意味ではないです」
「お前なあ……そういうことは、秘めておくもんだ」
さっきより落ち込んでいるように見える。
「そうなんですか?」
「だいたいお前、エッチエッチと言うが、本当のところは興味津々だろ」
「そりゃあ、人並みに興味はあります。が、お相手は吟味したいかと」
「俺では不足ということか」
「主上のことは好きです。いろいろ良くしてくださっていて、感謝しています。ここに置いてもらって、毎日おいしいご飯を食べられて。――ですので、兄のような、弟のような感じでして……」
「兄か弟」
王は乾いた笑いを浮かべ、今日見た中で最大級の背中の丸みを見せた。
「あ、弟というのは失礼でしたね。訂正します」
年上の男性をつかまえて、弟というのは言い過ぎた。
(意外と子供っぽいところもあるから、つい――)
最初は、こんな感じではなかったなと翠は振り返る。
(そうだ。最初はこの人の横に座るだけで緊張した)
何を考えているのかわからず、真意が読みづらい人だと思い、少し怖かった。
一夜の相手になるのだと盛大に勘違いをして、固まってしまったこともある。
(でも最近は――)
緊張することが少なくなった。きっかけは、夜市かもしれない。今まで知らなかった王の側面を見て、兄がいたらこんな感じだろうか、と思った。
隠密として頼られるのも悪くない。
「主上、雨が上がったみたいですよ。気晴らしに、少し外を歩きますか?」
きっと疲れているのだろう。警護を増やされたところに、さらに明鈴妃の件。
「そうだな」
王は立ち上がった。その腕を、翠はつかむ。
「行きましょう」
◆
腕を組みながら寝所を出ると、すぐに警護が駆けつけてきた。
「雨あがりの庭を散策したいと妃が言うので、すこし歩く」
「お供いたします」
王はそれには返事をせずに歩き出す。
「もう、撒こうとはしないんですね」
あのいたずらっ子のような王が、ずいぶんと大人になったようだ。
「無駄だ。いろいろ試したが、もう騙されてはくれぬ。侍従殿の教育の賜物だ」
「そうですか……」
翠の頭に、一つひらめいたことがあった。
「私がやってみましょうか?あの護衛たちの目線を外すの」
「ほう」
「ちょっと失礼しますね」
翠は王にがっしりと抱きついた。
「……おい!」
「ほら。さすがにみんな、目をそらしました」
護衛たちは何とはなしに遠ざかり、全員あらぬ方を見始めた。
「お前なあ……」
王は何か言いたそうにしたが、言葉がまとまらなかったらしい。そのままため息をついて、まあいいか、と言った。
「主上。このままお話、いいですか?」
「なんだ」
「主上は――この辺りに地下通路への入り口があるのをご存じですか?」
「なんだと」
「明鈴妃さまのお屋敷で、地下通路への入り口を見つけました。おそらくそれが、こちらの方向に続いているようだったので」
「なるほど――」
王は少し考えているようだった。
護衛たちはそっぽを向き、もはや生ける彫像と化している。
(温かいな)
聞こえるのは、たまに落ちる雨だれの音。どこかで蛙が鳴いている。そして、抱きついた男の心臓の鼓動。
「いわゆる、隠し通路だな。そういうのは、最大の機密事項だから、王から王へ、直接受け継がれる。しかし……」
王の腕が、背中に回される。それで少し密着度が上がった。
「俺が東宮になってから、わずか三か月で先王は急病で身罷った。だから、俺が先王から引き継いだ知識というのは、ほとんどない。そういうことだから、隠し通路については、俺は知らないんだ」
「そうでしたか――」
背中にあった王の手が、髪をなでる。何事かと、翠は王を見上げた。こちらを見ている彼と、目が合う。
月のない、藍色の空。雲の切れ間から、星々がのぞく。松明の明かり。そばにいる彼だけが、この世に存在しているようだ。
「そのかんざし、着けてくれているんだな」
と、王は髪を指で梳く。
「はい。立派なものを、ありがとうございました」
「似合っている」
極上の笑顔は、松明の明かりを受けて、オレンジ色に輝く。
ぞわっと、何かが背筋を駆け上る。
(なんだ?)
なぜだか、王の顔を見ていられない。
サッと目をそらし、うつむく。
顔が熱い。
鼓動が早くなる。
(まずい)
急にいたたまれなくなって、翠は体を離した。
「主上、そろそろ戻りましょう」
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