38.今日は主上の部屋で寝ようかなあ
翠が庭で午前の日課の鍛錬をしていたら、杏が声をかけてきた。
「翠さま、お客人です」
「私に?」
自分を訪ねてくるものなど、ほとんどいない。不思議に思って部屋に戻ると、一人の女官がいた。翠はその顔に見覚えがあった。
「あなたは――池に手紙を出していた」
「はい。覚えていてくださってありがとうございます。その節はお世話になりました。菫と申します」
明鈴妃の屋敷の女官だ。死に別れた恋人を想って、毎夜池に恋文を流していた。
「どうしたの?」
菫は明らかに怯えている。
「突然、申し訳ありません。自分の中だけでは秘めておけず。かと言って、どなたに話したらいいかわからず。その時、以前私のことをお助けくださった翠さまと紅さまのことを思い出したのです」
「そっか。ありがとう。とりあえず、座ろうか」
菫を促すと、恐る恐るといった感じで彼女は座った。まだ何かに怯えている様子は変わらない。
「わ、わ、私、見てしまったんです。お、恐ろしくて、今まで誰にも言えずに……」
「うん」
女官はよほど追い詰められているのだろう。話の端がつかめない。
「紅さんも呼んでこようか?」
「――はい、お願いします」
紅の部屋へ杏を行かせている間に、翠は女官の背中をさすって、落ち着かせてやる。
「おはよう。どうしたの?」
と紅が現れた。
「ちょっと、一緒に話を聞いてくれるか?」
「分かったわ」
と紅は座った。
「もう話せそう?」
菫は、こっくりとうなずいた。
「あの夜――。あの、火事があった夜でございます」
「火事の」
明鈴妃の炊事小屋が焼けた、あの事件だ。
「私は、夜の見回り番のお役目ですが、あの日は非番でした。でも、いつもの通り手紙を書き、池の月を眺めていました」
昼過ぎに起きだして、手紙を書く。月が出るころ、白い布を腰につけるだけの略式喪服で、池へ向かう。
「物音がしたので、顔を上げると、夜回りの女官が通ったところでした。同僚である彼女は私のことを知っているので、見逃してくれています。その日も――ちょっと手を挙げて挨拶をして、また池を見つめていました」
すると、もう一度物音がした。
「一瞬だけ、同僚が戻ってきたのかと。でも――」
最近は、見回りの時間や、巡回ルートがしっかりと決められている。それを逸脱するとは考えづらい。
「なので、気になって目を凝らしました」
物音は、庭の北の物置小屋からだった。壊れた甕などが置いてあるだけの、ほとんど使っていない小屋だ。
そこから、明かりをもった女性が現れた。
「明鈴妃さまの近侍でした。あの小屋に何の用事があったんだろうと、不思議に思いました。近侍は、後ろにいる人物に、話しかけているようでした」
近侍が小屋から完全に出てくる。
少し周りを気にしている。そうして、後ろにいる連れに声をかける。
連れの姿があらわになった。
「男、だったんです」
悲鳴が喉を上ってくる。
本能が警鐘を鳴らす。
――今叫んだら、殺される。
それで何とか悲鳴を飲み込んだが、震えは止まらなかった。
「――男」
翠たちは息をのみ、目を合わせた。それは、後宮にいるはずがないものだ。
「近侍と男は、そのままどこかへ歩いていきました。そして――」
火事。
大騒ぎになり、皆が起こされた。菫はどさくさに紛れて自室へ行き、そのまま布団を被った。今見た恐ろしいものが消え去るように。
「次の日、全員が聞き取りされました。何か怪しいことはなかったか、と。わ、私、言えなくて――言ったら絶対殺される。そう思いました」
「うん……。それは怖かったね」
瘧のように震えている手に、そっと手を添える。外では雨が降り出したらしい。ぽたぽたと雨だれの音が聞こえる。
(明鈴妃さまの近侍と、男――)
それが、火事の日に人目を忍んで現れる。
(火事と無関係とは思えないな……)
「教えてくれてありがとう。怖い思いをしたな」
「あのっ、翠さま……」
「ん?」
「それが、昨夜もまた、見てしまったんです」
「何を?」
「近侍と、男を……」
また菫は震えだした。
「昨夜、池で手紙を出していたら、また小屋から現れたんです。近侍と――今度は男二人が」
「昨夜も」
「わ、私、殺されるんでしょうか。見てしまったことが、バレているのかもしれません」
――もし本当にその気なら、もっと早くに始末されている。
(でも――)
「不安なら、今日はずっとここにいたらいい。ね、紅さん」
「ええ。そのほうが良いわね」
「あ、ありがとうございます……!」
「ひとつ――気になったんですけど」
杏の言葉に、菫が顔を上げる。
「見張りのルートや時間が決まっているって言っていましたよね」
「ええ、最近決まったんです。そのほうが無理なく回れるから、と近侍のご指示で」
「近侍の」
翠は杏と目を合わせた。
見張りのルートや時間が決まっている。
(それさえ分かれば、見張りの目を避けることができる)
震える菫にお茶を飲ませ、布団をすすめたらそのまま寝てしまった。昨晩から寝ていなかったのであろう。
「杏、いいか?」
紅に菫を任せて、、翠は杏を縁側に誘った。もちろん、今の話を整理したかったからだ。雨の帳を眺めながら、翠は話しかける。
「どう思った?」
「明鈴妃さまの近侍と男は、あのデブ猫がいた地下道から来たのでしょうか」
「私もそう思う」
あの地下道は、明鈴妃の屋敷、雪蘭妃の屋敷、そして王の私的エリアに通じていた。もう一つ通路があったが、それがどこへ向かっているのまでは分からない。
(そういえば)
翠は、ニャンケイを追ったときに見つけた、小さな青い玉のことを思い出した。
(どこへやったかな)
「ちょっと探し物してくる」
翠は、小物入れを探し始めた。青い玉はすぐに見つかった。
「でも、これだけじゃなあ……」
「あら、それ」
紅が目ざとく見つける。そして、青い玉をじっと見つめた。
「どこかで見覚えが――」
「どこだ?」
「うーん……あ!明鈴妃さまの近侍!彼女の帯飾りに、そんな感じのが使われていたと思うわ」
「よく覚えているな」
「まあね。服や宝飾品は好きだから、つい見ちゃうのよね。でも明鈴妃さまの近侍って――さっきからそればかりね」
「ああ」
翠は縁側に戻り、杏の隣に座る。
「杏、あの雪蘭妃さまの偽書を作ったのも、明鈴妃さまの近侍という見立てだったよな」
「はい。あくまで――可能性の一つですが」
「火事にまつわる話を追っていくと、その近侍にぶつかる。すごく気になるな。見回りルートと時間を決めたのも、近侍だ」
「……侵入しやすいように」
「だろうな」
(そして――)
一緒にいたという男。
(火矢)
女の腕力では重くて難しい火矢も、男なら引ける。
(下女が夜に火の元を確認する時間は、決まっていた。それをもとに、見回りのルートと時間を合わせれば)
下女が立ち去った直後に、見回りの女官を通らせることもできる。
(強固な証人のできあがりだ)
――しかし……目的が見えてこない。
(いったん、主上にこの話をしてみるか……?)
しかし昨日、王の庭へ行ったばかりだ。しかも外は雨。
(結構大変なんだよなあ。警護がうようよいて)
でも――この明鈴妃の近侍の妙な合致は、報告したほうがいいだろう。
翠は筆を執り、手紙を書いた。そして、杏へと託す。
「また、果たし状ですか」
と、杏はあからさまにうんざりした顔をした。
「主上にも言われたから、ちゃんと季節の挨拶から入って、相手のことを気遣う、丁寧な手紙にしたよ」
「差し支えなければ、内容を伺ってよろしいでしょうか」
「外は雨。今晩、指定の場所へ来られるべし。頭上にはくれぐれも気を付けられよ」
「外は雨というのは、季節の挨拶ではないかと」
「そうなの?」
「しかも、頭上の下りが怖すぎます。暗殺予告じゃないですか」
「だって、雨は上からくるから、気を付けたほうがいいでしょ。……手紙は苦手なんだよ。とりあえず意図はわかるはずだから、これで出しちゃって」
◆
「翠さま、今晩、主上のお召しだそうです」
夕方、杏はそう主人に報告した。いつもなら、面倒そうにする翠だが、今日は違った。
「お。じゃあ、雨の中いかなくていいのか。そりゃ良かった」
おそらく、あの怪文書を受けてのお召しであろう。
「そうだ。菫を私の寝台に寝かしちゃったから、今日は主上の部屋で寝ようかなあ」
紅に見守られながら、菫はまだ眠っている。
主上の寝台で朝まで過ごすというのは、そんなお気楽なものなのだろうか。
「ちょっと翠さん。主上が朝まで宮妃を侍らせるって、なかなかあることじゃないのよ。そんな簡単に――」
と、紅が呆れかえったように言った。
(さすが、紅さまは常識人だ。すごく安心する……)
「そうなのか。でも寝台がないしなあ。とりあえず頼んでみるよ」
何も分かっていない人が一人、呑気なことを言っている。
「杏。今日は私のこと、待たなくていいから。紅さんは、菫を頼む。じゃあ私は行ってくるよ」
そう言って翠は、宝飾品を入れている箱から、翡翠のかんざしを取り出した。
(あのかんざし――)
主上から下賜されたものだ。それを律儀に着けていく。
(翠さまも、なんだかんだ言いながら、お分かりなのかもしれない)
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