37.今晩、いつもの場所に来られるべし
「雪蘭妃さま。また本を借りに来ちゃいました。あと、おいしい茶葉もいただいたので、持ってきました」
「おお、翠か」
雪蘭妃が出迎えに来る。
「雪蘭妃さま、一緒にこのお茶を飲みましょう」
そう言って翠はお茶を淹れた。
「今回の、この西方の騎士が出てくる物語、とてもよかったです。あのすけこましの王子より、私はこちらのほうが好きかもしれません。何より、武芸に秀でているのが」
「そうか……」
雪蘭妃は、あまり本の内容を気にしていないようだった。
「翠。本を楽しみにしてくれるお前には悪いのじゃが、我はここを離れることになるかもしれん」
「それは――」
「我は、明鈴妃の小屋を燃やしたことになっておるんじゃろ?」
「ただの噂です」
「うむ。しかし、皆がそう思っておる。屋敷の者も、みな逃げた。主上も――」
「主上は」
そうは思っていないはずだ。
しかし雪蘭妃は寂しそうに微笑んだ。
「あれは、我に気を遣いすぎておる。その主上が、ここを離れるほうが良いと言った。心のどこかで疑ごうておるのかもしれぬし、そうではないのかもしれぬ。ともあれ、困り果ててのことじゃ」
「それは――そうかもしれませんね」
情けないくらいしょげている背中を思い出す。
「我は、宮を移しても構わぬと言った。あれは、どこかホッとした顔をした」
「そうですか……」
その顔は、何となく想像できる。
「主上は、我のことをかわいそうな子供だと思っておるのだ。我は、そうではないのに。どうせどこかに嫁したのじゃ。それが主上で良かったと思っておる。それが、あやつには分からぬらしい」
「そのことを主上には……」
「あれは我の言うことに耳を貸さん。自分が正しいと思うておるのじゃ。馬鹿のくせに」
「それは……ちょっと言いすぎです」
翠は軽く笑い、空になった雪蘭妃の湯飲みにお茶を足す。
「そうか?ずっと思うておった。あいつは、王だなんだと祭り上げられておるが、実際のところは、臆病なくせに正義感丸出しの少年じゃ。もういい大人なのに、まだ少年をやっておる。つまりは馬鹿じゃ」
少し愛おしそうに眼を細め、雪蘭妃はお茶を飲んだ。
ふと、夜市のときの王を思い出す。いたずらっぽい笑顔、「景ちゃん」と呼ばれ気さくに相手をする態度、金飛糖を噛む口元。
(少年。たしかに――)
自分の分のお茶を淹れ、しばらく香りを楽しんだ。
そういえば、と思い、翠は口を開く。
「雪蘭妃さま。今日はネーネー、来ていないんですね」
「まんじゅうの皮がないからな。最近はとんと来ぬ。せっかく炊事場の普請を依頼したところじゃったのに」
「炊事場の――普請を……?」
「そうじゃ。ネーネーのまんじゅうを蒸すためにな。しかし、下女がいないのでは、蒸しようもない。じゃから普請は、あきらめてしもうた」
「その普請、いつ頃ご依頼を?」
「火事の少し前かの。お前らが、ネーネーの好物を教えてくれてからじゃ」
「もうお支払いまで?」
「いいや。まだじゃ。少し待ってもらっておる」
――炊事場の件、支払いは後ほど。支払いの場所は、追って知らせます。
(あの書簡……このことか?)
雪蘭妃が書いた手紙が、盗まれ利用された――。
「雪蘭妃さま。普請、すぐにでも始めましょう。早いほうがよい。そうですね、明日です。私の近侍を行かせます。依頼先の工場をお教えください」
「ど、どういうことじゃ?作らせても、下女はおらぬし、我は宮を――」
「そんなのは、あとでどうとでも。とりあえず、普請を始めることが大切です。あとお手紙を一通お願いしたいです」
◆
「杏、頼みたいことがある」
雪蘭妃の屋敷から息を切らせて帰ってきた主人は、勢い込んで言った。
「何ですか?」
と、杏は応えるが、さすがに昨夜は疲れたから気が進まない。
「雪蘭妃さまから、手紙を預かった。これを工場に持っていってほしい」
「は、はい」
――炊事場の件、窯は二つ、新品の鍋もお願いします。明日より着工を。
「これは……」
「雪蘭妃さまは、実際に炊事場の普請を頼んでいたんだ。すぐ工事を始めさせる」
「まだ、状況が飲み込めないんですが」
「えーっと、えーっと、どこから話せばいいんだ?雪蘭妃さまは、実際に炊事場の普請を頼んでいた。その依頼書が、今回の偽書の下地になったんだと思う。噂の元になった書簡は、火事だの、火をつけるだのは全く書いていない」
翠の言うとおりだ。火事の噂が先行していたから、「炊事場の件」というだけで、火事と結びつけてしまった。
「だから、実際に工事を始める。この手紙を書き損じたものも、雪蘭妃さまに書いてもらった。それを誰かに拾わせる。そうすれば、噂をひっくり返せるかもしれない」
「――なるほど」
噂には噂で返す。真実を声高に叫ぶより、そのほうが良いかもしれない。
「噂は発端が必要だ。それは、紅さんに頼もうと思う。杏はとりあえず、工場への依頼。あと――」
「あと?」
「主上を呼び出したいんだけど、どんな書き出しがいいと思う?」
「へ?」
翠は卓の前にどっかりと座り、何やら書き始める。
「しゅ、主上を呼び出す手紙……?」
そんな恐れ多い手紙の例文なんて、どこにもあるはずがない。何も言えずに立ち尽くしている杏をよそに、主人は手紙をしたためる。
「あんまり手紙は得意じゃないんだよなあ……。これだと、果たし状みたいかな」
「なんて書いたんですか?」
「今晩、いつもの場所に来られるべし」
「完全に果たし状です。怖すぎます」
「でもまあ、用件が伝わればいいか。これで出しておいて。私は紅さんのところへ行ってくる」
と、主人はひどすぎる手紙を押し付け、紅のところへ行ってしまった。
◆
ひどすぎる手紙を読んだ王が待ち合わせ場所に着くと、すでに翠が来ていた。
「こちら、お返しします。ありがとうございました」
と、翠は書簡を返してきた。
「何か分かったか」
「私の近侍――元隠密なんですが、彼女に鑑定させたところ、この書簡は雪蘭妃さまが書いたものではない、と」
「そうか――違うのか」
ふうっと息を吐く。
一目見て、雪蘭の手だと思った。しかし、雪蘭が依頼するはずもない、とも思った。
(でもひと時でも、雪蘭を疑ってしまった……)
「雪蘭妃さまに聞いたところ、実際に炊事場の普請を依頼していたそうです。その書簡が、今回の偽書の元になったと思われます」
「なるほど」
「で、明日より実際に着工させます。そして、着工の依頼の書簡を拾わせ、火事の噂の原因になってしまった書簡は、ただの工事の依頼だったと噂を流します。うまくいくかは分かりませんが――」
「そうか」
(たった一日で、ここまで)
目の奥が少し熱い。ぎゅっと眉間に力を入れた。
(手を尽くしたのだろう)
「ありがとう。十分だ」
小さな隠密の肩に、手を乗せる。
――宮を移すというのは、どうだ?そのほうが、案外静かで良いかもしれん。不便はさせぬ。
そう言ったら雪蘭は寂しそうに笑った。
――我は構いませぬ。
雪蘭は王が何かを言うと、たいていあの寂しい笑顔を浮かべる。その真意はまだわからないままだ。
「主上にお伝えしたかったことは、以上です。長居は無用かと思いますので、私はこれで」
「ちょっと待て。お前なあ、次からもう少し色気のある手紙を書いてくれ。字面が怖すぎる」
「でも、用件は伝わりました。こうして、会えています」
「そりゃ、そうだが」
「失礼いたします」
と、隠密は闇に紛れていった。
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