36.夜が明けるまで筆跡鑑定
「杏。この書簡が、雪蘭妃さまのお手かどうか、見てみてほしい」
そう言って、翠は持ち帰った密書を、杏に見せてみた。
「これは……」
「ちょっと預かった。主上によると、雪蘭妃さまのお手らしい」
「すごく、噂になっています。火事を指示した密書が見つかったって。これなんですね」
「そうか、そんな噂に」
「はい。拝見してよろしいでしょうか」
「うん」
杏に密書を渡すと、彼女はそれを開き、卓の上に置いた。
「翠さま。以前、雪蘭妃さまからお手紙を頂戴していましたよね。それも拝見したいです」
「ちょっと探してみる」
そうして見つけた手紙を杏に渡す。
――あなたは、明鈴妃の猫を見つけたと聞き及びました。私も猫を探してほしいと思っています。
(初めて、雪蘭妃さまからもらった手紙だ)
なんとなく、昔のことのように思えてくる。ここから、本を借りたり、気さくに話をしたりする関係になるとは思ってもみなかった。
杏は、密書と手紙、両方を並べてじっと見ている。後ろから見ている翠には、確かに同じ筆跡に見える。
「これは――違うかもしれません」
「違うとは」
「こちらの、火事の指示書とされているもの、雪蘭妃さまのお手ではないのかもしれません」
「根拠は」
「雪蘭妃さまは――なんというか、字の安定感に欠ける方です。ほら、こちらのお手紙、猫という文字が二回書かれていますよね」
言われるがまま、その部分を見てみる。
「同じ字なのに、形が全然違いますよね」
「確かに」
「はらうべきところを止めてみたり、はねがしっかりしていたり、ぼんやりしていたり。雪蘭妃さまは、かなりご自由な字をお書きになる」
「それって――」
「ありていに言えば、へたくそです。しかし、この密書は――とても安定している。例えばこの、二回出てくる『支払い』の文字」
――炊事場の件、支払いは後ほど。支払いの場所は、追って知らせます。
杏が指さすまま、のぞき込む。まったく同じだ。
「ひとつひとつの文字の癖は雪蘭妃さまに似ていますが、全体で見ると、安定感があって上手すぎる」
「上手すぎる……」
「はい。雪蘭妃さまの字は、もっと不安定で自由です。これは――手本があって、その通りに写したような、そんな印象です」
「じゃあ、杏の見立てでは」
「偽物ですね」
「そうか……」
この書簡は、誰かが偽造した可能性が高い。
しかしだからと言って、雪蘭妃が火事の指示をしたという噂は消えない。
(どうしようか)
「杏。じゃあ、この書簡を書いた人物は分かるか?」
「疑わしい手紙と合わせてみれば、分かるかもしれませんが――」
「手紙なら、たぶんある。ちょっと紅さんの部屋へ行ってくる」
◆
紅の部屋へ行った主人は、どっさりと手紙を持ってきた。それだけではなく、紅自身も手紙を抱えている。
(え……こんなに?)
杏は一瞬、ポカンとした。
筆跡の鑑定は、かなり神経をつかう。しかも、この書簡を作ったものは、偽造がうまい。つまり、集中してじっくり観察しないとわからないのだ。
「ほんと、すんごい噂になってるわよ。雪蘭妃さま」
紅はそう言って、卓の上にどっさりと手紙を置いた。
「さすが紅さん。すごい量だな」
「私ほど顔が広いとね。宮妃だけじゃなくて、女官のもあるわよ」
「私たちは、手紙の仕分けをしよう。杏、鑑定をよろしく」
この主人はすごく簡単に言うが、本当に大変な作業なのだ。
「……はい」
大変な作業だが――頼られるのは嬉しくもある。
杏は気合を入れるために、少し左右に頭を振った。
一番最初に、紅が寝た。しばらくしてから、翠も床に突っ伏した。
(ふう……)
杏は眉間をもみほぐした。ずっと字を見ていると、目の奥がじんじんと痛くなる。
この偽造の人物は、止めが少し内側に入る癖がある。本当にわずかだ。それを見極められれば。
少しずつ、明るくなってきた。夜が明ける。
(まったく、人遣いの荒い)
すやすや寝ている翠を見ながら、杏は微笑み混じりのめ息をついた。
(もう少しだ)
残った数通を見終わったころ、翠が起き上がった。
「あ、ごめん。寝てた」
「おはようございます」
「紅さん、朝だよ」
と、隣で寝ている紅を起こし始めた。
「ん……もう……?」
紅がむにゃむにゃと起き上がる。
「ごめん、杏。ずっとやっていてくれたのか」
「はい」
「それで――何か分かったか?」
「一人だけ、少し怪しいな、というくらいのものが」
「どれ?」
「こちらです」
「柳……。女官か。知らないな」
と翠は首を振る。
「そうだ。疲れているところ悪いんだけど、もう一度、明鈴妃さまのお手紙を、確認してほしい」
「それは、なぜ」
ある程度の確信があるかのように、翠は言った。
「えっとさ……火事があった次の日に、明鈴妃さまのお屋敷にお見舞いに行ったんだよね。ねえ紅さん、覚えてる?」
話しかけられた紅は、眠そうに頭を振りながら答える。
「もちろん。明鈴妃さま、とても怖がっていたわ」
「そう、その怖がり。おかしいと思わなかったか?」
「思わないわ。だって、放火だったんでしょ。誰かが、悪意を持って火をつけたってことだもの。そりゃ怖いわよ」
翠は少し首を傾げた。
「でもさ。私たちがお見舞いに行ったときは、まだ失火という判断だった。誰も放火なんか疑っていなかった」
「確かに――」
「なのに、あんなに怯えて。すでに放火だって知っていたかのように」
紅は息をのむ。
「それってつまり……」
「そう。あの時点で放火だって知っているのは――火をつけた側の人間だけだ」
杏も、翠が言い出したことに驚いている。
「明鈴妃さまは、ご自分の炊事場を、ご自分で……?でもなぜ」
「いや、まだ決まったことじゃない。ただあの時、変だなと思っただけで。こんなの、ただの想像だ。暴論とも言えるくらいの」
「でも――気になるわね」
「そう。だから、明鈴妃さまの筆跡を、よく見てほしいんだ」
「わかりました」
杏はもう一度、明鈴妃の手紙を引っ張り出し、じっくりと見比べた。
「翠さま。改めて確認した上での、私の判断をお伝えしますね」
「うん」
「この密書は、明鈴妃さまが書いたものではありません」
「そうか……ありがとう。手間を取らせた。――さっき、怪しいって言っていた女官は?」
「これですね。この止めの癖が、似ているように思いますが、断定はしづらいです。比べるお手紙も一通しかありませんでしたし」
「そうか。この柳という女官は、何者だ?紅さん、わかる?」
彼女は息をのみ、言いよどんだ。
「この女官――今は明鈴妃さまの近侍をしているわ……」
「明鈴妃さまの近侍――」
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