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33/50

33.かすかな残り香

 王の寝所へ行ったまま、主人はなかなか帰ってこなかった。それで杏は、いつの間にか寝込んでしまっていた。


「ごめん、杏。もしかして待ってた?」


 机に突っ伏してうとうとしていた杏に、翠の声がかかる。ハッと杏は起き上がった。あたりはもう明るい。


(朝だ――)


「翠さま、おはようございます。今、お帰りですか」

「うん。待たせちゃってごめん」

「いいえ」


(朝まで)

(主上と一緒に)

(これは――)


(大願成就、おめでとうございます!!)


「お疲れではないですか?白湯でも用意しましょうか」


 言ってしまってから、踏み込みすぎた自分に気づく。


「え?別に疲れてはいないよ。杏のほうが、疲れてるんじゃない?白湯、持ってこようか?」

「いえいえ、そんな……」

「私は大丈夫。さすがは主上の寝台だね。すごく寝心地がよくて、ぐっすりだったよ」


(ん?)

(もしかして、寝ただけ?)

(なにもせずに??)


 杏はもう一度机に突っ伏した。


(貫いたかあー、純愛!!)


「そうだ。杏に言いたいことがあって」


 と、翠は杏の隣に座る。


「なんでしょうか」

「杏の姉弟子のこと。主上に聞けた」


 杏は息をのんだ。


(もう、忘れているかと)


 調べておくと言ってくれていたが、その時の方便だと思っていて、期待もしていなかった。


(なのに)


 覚えていてくれていた。


「そ、それで――」


 ひどく胸がドキドキする。始末されたのか、故郷へ帰されたのか。姉弟子は、どこへ行ったのか。


「うん。隠密だってことがバレたから、女官をやめたんだって」

「そうですか――」

「主上が言ってた。筆が好きだったから、本人が望んだ筆職人の道を示したって」

「筆職人……」


 姐さんを思い出す。隠密の中でも、彼女は文書に精通していた。その影響で、杏もそのあたりは得意だ。


 いつも筆巻きにじゃらじゃらと筆を入れていて、文書を作るたびに変えていた。これは、どこ産の何の毛でできていて墨含みがどうの、と目を輝かせて説明してくれたものだ。


「ありがとうございます。……姐さんらしいです」


 姐さんは、自分の意志で、自分の人生を選んだ。今頃きっと、大好きな筆を作っている。


(ありがとうございます)


 その道を示してくれた主上にも、それを聞いてくれた翠にも。


(この人が主人でよかった)


◆


「雪蘭妃さま、ご本をお借りしにきました」


「おお、翠か」


 雪蘭妃はネーネーを抱いて、自ら屋敷の入り口まで迎えに来た。世話をするはずの女官たちの姿が――ない。


 がらんとした寂しい応接間で、翠は借りた本を渡す。


「今回のも、すごく面白かったです。西方の王子というのは、このように優しいものなのでしょうか」

「どうじゃろなあ。ちと言うことが、甘すぎる気もするが」

「確かに……一歩間違うとすけこましですが、いい塩梅でした」

「西方の王子が気に入ったのなら、次はこれはどうじゃ?西方の騎士の話じゃ」


 そう言いながら、蔵書の山から目当ての本を引き出す。


「この西方の騎士はな――」


 そう言いながら、雪蘭妃は手ずから翠の湯飲みに茶を淹れる。


「そんな。雪蘭妃さま、私がやりますよ」

「気にするな。我もずいぶん茶を淹れるのがうまくなってしまった」


 それには何も言わず、翠は少し微笑んだ。


「来てくれるのは、お前かネーネーくらいじゃ」


 そう言いながら、雪蘭妃は膝の上の猫を撫でた。


◆


 寝所で本を読んでいた王は、立ち上がった。


(そろそろ寝るか)


 昨夜はあまりよく眠れなかった。長椅子だったという理由もあるが、それだけではない。


(しっかり眠らなくては)


 政務に影響が出てしまう。それでなくても、最近は悩ましいことが多い。


 寝台に潜り込み、目を閉じる。なんとなく、翠の存在を感じる。


(におい――か)


 かすかな残り香が、脳内で像を結ぶ。


(くそ)


 今日は眠らないと。


 寝台を出て、長椅子に寝転ぶ。


(ここなら)


 しかし、一度現れたイメージは、なかなか消えない。


 王は寝るのをあきらめ、もう一度本を読み始めた。

お読みいただき、ありがとうございます!

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