26.幽霊なんていない
夕食もお腹いっぱい食べた翠は、そのまま寝転がった。
「食べすぎですよ」
杏があきれたように言う。
「だって、今日のあの鴨のやつ。すごく美味しかったんだもん」
そのままごろごろしていると、紅が訪ねてきた。
「ねえ、翠さん。これから幽霊退治に行かない?」
「幽霊?」
「そう。幽霊。明鈴妃さまの中庭に、最近夜になると出るらしいの。だから、退治しに」
いくら何でも唐突だ。
「ちょっと食べすぎちゃって……今からってのはなあ……。まだ足も痛いし」
「あら、怖いの?」
「そういうわけじゃ」
「私は怖いわ。明鈴妃さまに頼まれたけれど、一人で行きたくないから、翠さんを誘ってるの」
怖いからついてきてほしいというなら、もう少し頼み方というものがあるだろう。
「分かったよ。行こう。杏もいいか?」
「お供します」
翠はお腹をさすりながら立ち上がった。
◆
幽霊なんていない、というのが翠の持論だ。
(だって、みんなが幽霊になっちまったら、この世界は幽霊でぎゅうぎゅうになるじゃないか。夜しか現れないってのも、どうにも嘘くさい)
それに、自分はもと隠密。夜はむしろ主戦場だ。それは紅も変わらないと思うのだが。
「翠さんっ!絶対にっ!手を離さないでね!」
まだ、明鈴妃の屋敷に着いてもいないのに、紅は怖がって翠の手に縋り付いている。杏はというと、表情を変えることなく、明かりを持ってくれている。
道中、だいたいのことは聞いた。
明鈴妃の裏庭に小さな池がある。月が出ている時間帯だけ、そこに白い人影が現れるのだという。それは幽鬼のように歩き回ったり、ぶつぶつと何かを話したりしているらしい。
女官たちがすっかり怖がって、夜の番をやりたがらずに困っている、と明鈴妃から紅に話が来たらしい。
「大丈夫だよ、紅さん。幽霊なんていないから」
◆
「ぎょええ~~~~!!!お化けだーーー!!」
翠はパニックを起こし、紅に飛びついた。
「いまっ!いたっ!そこ!その木の枝に!」
紅は軽くため息をつき、翠をなだめた。やっと明鈴妃の屋敷についたはいいものの、翠のほうがこれでは、幽霊退治などできないかもしれない。
杏はというと、冷え切った目で主人を見ている。
「あれは、お洗濯ものが引っ掛かっているだけ。よく見て、翠さん」
「でも、ほんとに動いたんだもん~~。ゆらゆらーって、お化けだよぉ」
「布だもの。そりゃ動くわよ。――ねえ翠さん、幽霊なんていないんでしょ」
「幽霊はいない。けど、お化けはいる……コワイ……」
「よく分からないわ。とにかく、北の裏庭の池へいくわよ」
建物の陰に隠れるようにして、二人で裏庭をのぞく。池が庭の隅にあり、その周りには木が何本か植えられている。池はさほど大きくないが、満々と水を湛え、その水面には月が映りこんでいた。
さあっと風が吹き、木の葉を撫でる。葉擦れの音以外は、静寂そのものだ。ひらひらと葉が一枚池に落ちて、その波紋で月の形がゆがむ。
「幽霊、いる……?」
紅は、震える声で翠に尋ねる。
「特に――なにも見えないな」
池に意識を集中していた紅は、足元に近づいてきた何者かに、気づかなかった。
「きゃああ!」
足を筆で、さっと撫でられたような感触。寒気が一気に立ち上る。
「ニャンケイ!」
翠の言葉に足元を見ると、ニャンケイも驚いた顔で固まっている。にらみ合いは一瞬だった。ニャンケイはふいと目をそらし、建物の下へと潜り込んでいった。
「もう! ニャンケイたら。びっくりした!」
そうして池へと視線を戻すとーー
「――あ!」
白い何かが、池から建物のほうへ素早く動いたのが見えた。
「いた!」
「幽霊、本当に出たわね……」
そのまま少し待ってみるが、もう何も動く気配がない。
「ちょっと見に行ってみよう」
翠は、大胆にも立ち上がった。
◆
「何もないな」
翠は頓着なく池に近づく。
「ちょっと! また幽霊が出るかもしれないわよ」
「大丈夫だよ。さっき、建物のほうへ行ったから」
「翠さんっ! 幽霊ってのはね!何にもないところから、すうぅ~と現れるの。建物のほうへ行ったとか、関係ないの!」
「関係あるよ。あれは――人だ」
さきほどのあれは、白い服を着た女だった。走り方を見る限り、それほど訓練はされていない。べったりと着いた足跡からも、想像ができる。
(人なら――どうとでもなる)
池をのぞき込んでみると、月が映りこんでいる。その月の端に、沈みゆく白いものが見える。
(あれは何だ?紙――か?)
紙を池へ投げ込む、白い服の女。訓練はされていない。
(誰かと、手紙のやり取りをしているのか?)
正式な手段を踏まずに、やり取りをされる手紙。夜に現れる、人の目を憚る女。
(まさか――女官が間諜のまねごとをしているのか?)
「紅さん。明日、もう一度来てみよう」
◆
次の日、同じ場所から池をうかがう。今日は雲が多く、昨日ほど明るくない。それでも目を凝らせば、白いものくらいは判別ができる。
「いる」
ごく小さい声で、翠はささやいた。
「え?どこどこ?」
「あの、二番目の木の陰。座っている」
――もしかして、池に密書を投げ込もうとしているところかも。
翠は足音を立てないように、素早く池のほうへと動く。獲物と対峙した虎のように、ゆっくりとした動きで。
最後の十歩になってしまえば、もう自分の間合いだ。バレてもいいから、一気に詰める。
白い服の人物は、やっと足音に気づいたのか、驚いた顔のまま固まっている。
(やはり人だ)
その手には、白い紙。密書か。
体ごと女を制圧し、手首をひねり上げ、紙を奪う。
「やめて……!」
女が悲鳴を上げた。
組み敷いた女は、息も絶え絶えだ。大きく抵抗する様子はないから、少し力を緩めた。
やっと追いついてきた紅は、相手が幽霊でないと分かったら、余裕綽々だ。
「あなた、何をしていたの?」
女はせき込みながら答えた。
「手紙を――」
「これか」
翠は紙を開く。花びらが一枚挟まっており、紙からは香のいい匂いがした。そこには一言「会いたい」と。
「これは、何の符牒だ」
女は答えない。そこへ、紅が割って入ってきた。
「ちょっと待って、翠さん。これって……そういう物騒なやつじゃないわよ」
「なぜ。おそらくこの花びらの数と種類が、密談の場所や時間を示している。香の種類にも、意味があるかもしれない」
「翠さん、なんでもっと、普通に考えられないの?」
「普通?」
ごく普通に考えている。会いたい、はそのまま取引の密談を示している。密談は時間と場所が大切だから、そこを符牒にして――。
「どう見ても恋文でしょ! こ! い! ぶ! み!!」
「恋文ぃ~?」
「当たり前じゃない!季節の花びら。それに合う香を焚きしめてる。紙だって、雲母が入った、小粋なものだわ。少し薄めの青みを帯びた墨を使って、細く流麗な文字で『会いたい』。ここまでベタベタな恋文が、なんで分かんないの!?」
「な、なんでって言われても……」
「お二人とも、おやめください!」
女は大きな声で叫んだ。つい、張本人を置きざりにして言い合いをしてしまったことに、翠は恥じた。
「そちらの方がおっしゃるとおり、これは恋文でございます」
「誰に出してたの?」
尋問係は翠から紅へとうつる。
「もう――会えない人へ」
「そっかぁ~! 一回後宮へ入っちゃうと、女官でもなかなか出られないものね」
「ええ。とは言え、あと半年で出る予定でございました」
「じゃあ、もうすぐ会えるじゃない」
紅の言葉に、女はあいまいに笑った。
「でも、こんな白い服を着て、毎晩ここに来てたら、他の人が怖がっちゃうから駄目よ」
「そうですね……」
「そうよ、白い服なんて、葬式でしか着ないんだから、ちょっと不気味よ」
紅の冗談めかした言葉に、女はぽつりと答えた。
「でも白い服は――喪に服しているから、必要なんです」
「あっ……」
紅も翠も、そこで気づいた。彼女が言う、「もう会えない人」の意味に。
「幼馴染だったんです。あと半年で、勤めを終えて結婚する予定だったのに、彼は病気であっさりと」
女は立ち上がり、空を見上げる。ちょうど雲が晴れ、月がのぞく。
「死者は月へ行く、と言うでしょう? 池に写った月に手紙を出したら、彼が読んでくれる気がして」
風が渡る。木々が鳴く。雲がまた、月を隠す。
女は振り返った。
「でも、みなさんを怖がらせているとは知りませんでした。もう、やめますね」
「いや、やめなくていい!」
翠は思わず言っていた。
「翠さん、でも…!」
「だって、だって。こういうのは、ちゃんと気が済むまでやらなきゃダメだ」
何をしても、死んだ人は戻ってこない。けれど、だからと言ってすぐに忘れられるわけではない。
翠は、紅を見て言った。
「紅さん。明鈴妃さまに、頼んでみよう。彼女を、夜の庭番にしてもらうんだ。そうすれば、普通に池に行けるし、お祈りもできる。白い服は――難しいかもしれないけれど」
「それくらいなら、できるかも。明鈴妃さまには、夜に散歩したくなる子だったって説明するわ。それで夜の庭番にしてもらえば、堂々と池へ行けるでしょう?」
女は、ぽろっと涙を流し微笑んだ。
「ありがとうございます。これで、もう少し――あの人と話ができます」
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