25.普通です
珍しく手ずから墨を擦っている王を見て、侍従は声をかけた。
「主上、お忙しいでしょう。他のものにやらせましょうか?」
見たところ、少し紫がかった墨だ。王は、きめが細やかで黒々とした墨を好むから、意外だった。
「いや、これは余がやる」
そのまま黙って墨を擦り続ける王の横顔を見守る。
夜、寵姫と庭を散歩しているはずの王がどこにも見つからず、護衛を総動員して探させた。そんななかひょっこり戻ってきた王は、無頼漢のような服を着て、わき腹に傷を負っていた。
慌てて典医を呼び、王にも事情を聴いたが、頑として口を割らない。
(また、町へ繰り出していたのか……)
主の放浪癖は、王子時代からだ。登極してからはずいぶん減ったが、この始末だ。
周りをどれだけ心配させたか、王という立場とその体がどれだけ大切かを懇々と言って聞かせ、護衛を増やす提案した。しぶしぶ首を縦に振った王は、苦渋の表情をしていた。
(あの時は、少し言いすぎたかもしれない)
墨を擦り終わった王は、紙を選び始めた。私信でも書くのか。
「薬はあるか?」
唐突に聞かれて、侍従は戸惑った。
「まだ、お体が?」
王がうなずく。
「うむ。傷に効く軟膏が欲しい」
「かしこまりました」
紙が決まったらしい。が、何も書かずに筆をもてあそび始めた。内容を考えているようだった。
(政務では、ほとんど迷うことはないのに)
とうとう王は頬杖をついて、遠くを見始めた。
珍しい、と侍従は思った。
◆
また来た、と手紙を受けとった杏は思った。
怪我をした主人が、なぜか王に負ぶわれて帰ってきたのは3日前。
この主人は、王の寝所で甘美な時を過ごしているかと思っていたら、夜更けに王に負ぶわれて帰ってきたので、杏は仰天した。
慌てて平伏する杏に、王は翠を託し、
「すまない。怪我をさせてしまった。治療してやってほしい。この件は内密に」
とだけ言って去っていった。
あわてて医者を呼び、治療をしてもらった。理由を聞かれたので、ちょっとゆきすぎた鍛錬、と自分でも苦しい言い訳をした。
その後、発熱。
そこから目を覚まさず、こうして看病している。
杏の手には「翠」と宛名が書かれた手紙。
(また、主上だ)
筆跡も紙も毎回違うが、杏はわかる。内容は見られないが、翠の身を案じるものだろう。
(そういえば、墨が変わったな)
今までは、艶のある黒々とした墨だった。が、いつからか、この少し紫がかった薄めの墨になった。
(何があったんだ?)
帰ってきた主人の服は、見慣れないものだった。宮中をうろうろするには目立ちすぎる、普通の町の娘のような服。連れてきた王の服装はほとんど見れなかったが、やはり簡素な服だったように思う。
(変装……?)
その理由は――。
(え、もしかして)
(逢瀬?)
(町へ下りて、普通の男女のように逢瀬を……?)
その考えに至った杏は、身もだえした。
(いや、そんなはず)
(主上が、そんなかわいいこと……)
(はッ!!……かわいいなんて、私はなんて不敬な考えを)
杏が思い浮かべる王は、威厳そのものだ。近寄りがたく、決して表情を崩さず、何を考えているのかわからない。
(あの主上が……)
(ギャップがすごい!!!)
妄想は、途切れることがなかった。
◆
「書き終わりました?」
「うん、だいたい……」
杏の声に、翠はあいまいにうなずく。手紙を書くのはあまり得意ではない。
ふくらはぎを怪我してから、4日ほど寝込んでしまった。その間に来ていた王からの手紙の返事を書いていたところだ。
「こんなもんで、いいと思う。とりあえず、元気ってことが伝わればいいでしょ」
王からの手紙の内容は、翠の怪我を気遣うものばかりだった。それと――警護が厳しくなって抜け出せなくなったと、子供のような泣き言。
「薬のお礼は書きましたか?」
「忘れてた」
最後に礼を付けたし、
「できたよ。これで出しておいて」
と、杏に手紙を託す。
「じゃあ、ちょっと出てくる」
「あまり遠くへいってはいけませんよ」
という杏の声に、はーいと応えて、翠は歩き出す。
怪我をしてからというものの、杏が妙に過保護になり、まるで母親のようだ。
あの時負った傷は意外と深く、まだ少し歩きづらい。
(だからこそ――)
部屋でごろごろするお供にうってつけなのが、本だ。翠は前回借りた本を抱きかかえ、うきうきと雪蘭妃の屋敷へ向かった。
翠が、雪蘭妃の屋敷を訪ねると、彼女はネーネーを抱きかかえながら、本を読んでいた。
「雪蘭妃さま」
「おお、翠か。苦しゅうない」
雪蘭妃はネーネーを下ろし、本を閉じる。
「雪蘭妃さま、あんこい、ありがとうございました!とても面白かったです!」
「そうじゃろう」
雪蘭妃は、近侍を呼び、茶を淹れさせる。
「お前は、あんこいと、あんこい2、どちらが好きじゃった?」
「私は――あんこいです。あんこいの主人公たちが好きだったのに、2のほうは、主役が妹になっちゃって、ノリも少し変わってしまって、それがちょっと――」
「そうなのじゃ!我もそう思っておった。2は少し蛇足じゃな」
「なので、3が出なかったのでしょうか」
「なるほどな」
近侍がお茶を持ってくる。それを翠にすすめならが、雪蘭妃はお茶を飲んだ。足元にすり寄ってきたネーネーの背中を撫で、まんじゅうの皮を与える。
「お前は主上がお好きかえ?」
突然の言葉に、翠は首をかしげながら答えた。
「うーん……普通です」
からかわれて、イラっとすることがある。が、時折甘いお菓子をくれる。夜市は楽しかったが、暗殺者の相手は疲れた。いやな点といい点、足し引きゼロだ。
「気が合うの。我も普通じゃ。普通なのに、いろいろあって第二夫人に納まってしまった。主上を好きになれればそれはそれで幸せなのだろうが――我にはどうもよく分からぬ」
「私にも分かりませんが――下女には人気があるようです。いわく、背が高く、品があって、強い、とか」
「それなら、お色気三姉妹の3話で出てくる剣士のほうが良い。最初は謎めいているが、顔がよく、武芸にも秀でており、冗談がうまい」
「あ!私も大好きです。最初はあまり愛想がないのに、後半で三姉妹を心配して守ってくれるのもいいですよね」
「そうじゃ!そこじゃ!」
雪蘭妃の目が、キラキラと輝く。そのまましばらく、お色気三姉妹についての話で盛り上がった。
日もとっぷり暮れ、いつしかネーネーがいなくなったことに気づかないくらい、話し込んでしまった。翠が雪蘭妃の屋敷を辞去にしようとしたとき、彼女はポツリとつぶやいた。
「我も――あの三姉妹のような、奔放な生き方をしてみたいものじゃ」
◆
ある日の午後。掃除をしていた杏は、見慣れないものを見つけた。
翡翠のかんざしだ。
「翠さま、これは…?」
外で鍛錬している翠に、声をかける。まだ鍛錬できる状態ではないが、上半身だけでもやらないとなまる、と言って止めても聞かないので放っている。
翠は宝飾品にこだわりがない。ほとんど持っていないから、新しいものというのが珍しい。
「ああ、それ?主上にもらったやつ」
手を止めることなく、翠が答える。
「主上に――」
銀の土台に、翡翠の玉が一つ。一見シンプルだが、上等な翡翠を使っている。土台の細工も見事だ。
(華美ではなく、あえて静謐としたデザイン)
色とりどりの宝石がついたかんざしなど、いくらでもある。贈り物となると、値が高く、見栄えのするものになりがちだが――。
このかんざしからは、贈り主の意思を感じる。
(これは、特別なものだ)
杏はごくりと唾を飲み込む。
「こちらは、どうしましょうか」
「あとで使うから、卓の上にぽーんと置いておいてー」
「かしこまりました」
恭しく置いたそのかんざしを、あろうことか加工し始めた翠に仰天するのは、また別の話。
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