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2.早く後宮を抜け出さなきゃいけないんだけど…居心地よすぎない!?

「あったけぇぇー!なんだこれ、天国だあぁぁ」


 湯につかった翠は、思わず口に出してしまった。


 王の寝所に入るのだから、当然身は清めてある。とはいえ、水で体を清めているから、こんなたっぷりとした湯につかったのは初めてだ。


「ほわあぁぁ……」


 感嘆ともとれる、なんとも言えない声が出る。


 お湯は温かく、花弁が浮いており、それらがなんともいい匂いだ。ずっとこうしていたい。粥もまんじゅうも美味しかった。盛られた薬はいまだに効いてこない。もしかして、薬など入っていなかったのかもしれない。


 それらの懸念がどうでもよくなるくらい、風呂は最高だ。お湯に体を浸けるだけで、こんな幸福が訪れるとは。

 湯から出ている手を見つめてみる。修行でついた傷がいくつもあり、爪は割れ、貧相で、明らかに栄養が足りていない。まんじゅうを差し出してくれた女官の手は、白くふっくらとしていて、傷など一つもなかった。


(私と、あの人の暮らし、何が違うんだろう――ん、あれ?私、いま丸腰だ)


 敵地で素っ裸になり、風呂につかる隠密がどこにいる。暗器が手の届かぬところにあるなんて、こんな状況は今までなかった。


(でも――まあいっか!)


 凄惨な拷問も、めくるめく快楽漬けエッチも、すべてがどうでもよくなるのが、風呂だ。風呂はすごい。


「翠さま、そろそろお出になったらよろしいかと。のぼせますよ」


 外から女官の声がする。はーいとのんきな返事をして、翠は立ち上がった。

 

 ◆


 風呂を出た翠のために用意されていたのは、拷問器具などではなく、普通の――いやとびきりの寝台だった。寝台など、宮中や貴人が使うもので、庶民は通常床で寝る。翠も床に茣蓙を敷いて、ぼろ布を掛け、仲間たちと雑魚寝をしていた。


 寝台に敷いてある布団は、雲みたいに柔らかかった。上にかける布団も、これまた雲みたいに重みがないのに温かい。


(なにこれ、ふわふわ!!最高ー!)


 腹はいっぱい。お風呂で体はほかほか。用意された夜着は、さらさらと肌触りが良かった。その状態で柔らかな布団に入った者は、たいてい長持ちしない。さらに女官が香を焚いてくれて、それが眠りを誘う。


 警戒すべき敵地であるのに、翠は3つ数える間に寝てしまった。


 ◆


 次の日の朝、翠は女官に連れられ、館へとやってきた。十人は住めそうな、大きな館である。

 その中の一室に案内され、

「翠さまは、今日からここでお過ごしください」

 と言われる。


 部屋は、簡素な寝台と机があるだけの、シンプルな作りだった。少し高い宿の一室のようである。


 結局、自分の処遇がどうなったのかわからない。そのことを女官に聞いてみたが、彼女は何も知らないらしく、困ったように首を振られた。彼女の役目はここまでだったのだろう。一礼をすると去ってしまった。


(とりあえず、ここに住めってことかな……)


 翠は、何も置いていない机の前に座った。


(私――宮妃になっちまったのか?)


 翠はごろんと、あお向けに倒れた。


 王の夜の相手になる女。それが宮妃だ。

 翠は、宮妃の候補として紹介された、という体になっていたから、当然といえば当然の処遇かもしれない。しかし隠密である翠の未来計画の中に、宮妃などという文字はない。


(早く抜け出さないと)


 殺せなかったけれど、殺されなかった。囚われもしていないし、情報も一切漏らしていない。すぐにでも抜け出して、頭領に報告をせねば。


「あら、新人さん?」


 開きっぱなしだった戸から、明るくのんきな声がかかった。翠は慌てて起き上がる。


 戸には、ふっくらとした体つきの女性がいた。年は翠より少し上か。その表情は、翠への好奇心が隠しきれていない。


「私、隣の部屋の紅《コウ》。よろしくね」


 どうしたらいいものか分からず、翠はぺこりと頭を下げた。そのまま紅を見上げる。


(出て行ってくれないかな……)


 どうせここを抜けるのだ。なるべく接する人間は少ないほうが良い。しかし紅はにこやかな表情を浮かべたまま、翠を見下ろしている。その顔には「私は自己紹介したわ。あなたは?」と書いてあるようだ。


 少し逡巡したあと、翠は立ち上がった。


「翠、です。よろしく」


 紅の顔が、ぱあっと明るくなる。


「そう! 翠さん、よろしくね。もうすぐ朝餉の粥が届くわ。お近づきのしるしに、私の部屋で一緒に食べない?」


(粥!! 食べたい!!!)


 後宮を抜け出すのは、粥を食べてからでも遅くはないだろう。


◆


 紅の部屋は、翠の部屋と全く同じつくりだった。しかし、机に並べられた化粧品や、衣装箱の上に溢れかえる色とりどりの衣装が、その部屋の住人の華やかさを物語っていた。


 すぐに戸が開き、宮女が粥を差し出す。紅が翠を指さし、翠の分の朝餉も置いておかせた。


 昨日見た粥と同じく、真っ白だ。柔らかそうな米の上に、赤いものがいくつも散らばっている。


「今日は、干しエビね。翠さん、いただきましょう」


 紅が言い、さっそく食べ始める。


(エビか……)


 翠もエビを食べたことはある。大きさは同じくらいだが、このようにきれいな赤い色ではなかった。池や浅い川で採れるエビは、火を通すと茶褐色になる。その粥は、沼の生臭さをそのまま煮たようなえぐみがあり、一口食べるとえずいてしまい、食べられたものではなかった。


「翠さん、エビはお嫌い? 美味しいわよ」


 紅は、匙にとった粥をぷっくりした唇でふうふうと冷まし、おいしそうに頬張っている。およそ、生臭いものを食べている顔には見えない。


 恐る恐る、翠は粥をすくって匙を口元へもっていく。つやつやとしていて、温かそうな粥だ。嫌なにおいは感じられない。

 思い切って、口に入れてみる。


(あつっ! うめ~~~!!)


 甘い粥に、エビが塩気と香ばしさを与えている。危惧していた生臭さは全くなく、粥の甘みは上品だ。上に乗ったエビはサクサクしていて、噛むたびに香ばしい。煮込んだ米の甘みとエビのうま味は、絶妙にマッチしていた。


 すぐに次の一口を口に入れる。上に乗っているエビとは別に、粥と一緒に煮込まれたエビもある。こちらは柔らかく、噛むと独特の甘さと香りが口に広がる。


(エビって、こんなに美味しかったんだ!)


 次から次へと、粥を口へ運ぶ。旨すぎる。調理法の違いか、そもそも使っているエビの種類が違うのか――いやそんなことはどうでもいい。とにかくうまい。

 王の前で食べた粥が、この世で一番うまい粥だと思った。が、この粥もうまい。紅はごく平静に食べているから、これがここでは「普通の」食べ物なのだろう。


 翠は、あっという間に粥を平らげてしまった。


「いい食べっぷりねぇ」


 紅はゆったりと食べており、半分をすぎたくらいだ。


「翠さんは、ご飯を召し上がるのがお好き?」


 誰だって好きに決まっている。こくんと頷くと、紅は何とも言えない表情を浮かべた。少し同情が入っているその表情は、痩せっぽちの翠の出自を勝手に想像し、それを気の毒に思っているようだ。


「でしたら、ここは天国ですわ。毎日三食、美味しいものが食べられるんですから」


◆


 それから5日間、翠はある意味「快楽漬け」の生活をした。温かいご飯が日に3回。さらに、菓子が午後に1回。夜になれば、柔らかな布団で眠る。

 

 朝から寝転がって本を読み、午後には鍛錬。疲れたら蝶を追いかけ、花を愛でる。そんなのんびりとした5日間が過ぎた。


「翠さま、本日の夜、王がお呼びです」


 女官の声に、翠は身を引き締める。あの日以来、王には会っていない。その呼び出しがあるということは、何かしらの採決が下されるのであろうか。


「わかりました」


 逃げる隙はいくらでもあった。錠をされているわけでもない。周りには、武器など手にしたことのない、か弱そうな女官しかいなかった。でも、なぜだか逃げられなかった。


(だって――ご飯がおいしすぎる!!)


 毎食、食べたことのない料理がでてきて、どれも美味しい。次は何が出てくるのかと気になってしまい、次を食べたら脱出しようと思っている間に、もう5日も経ってしまった。


「主上のお召しですから、身を清めましょう」


 女官の呼びかけで、翠は呼び出しの意味を察する。


(ただの呼び出しじゃない! ご寵愛を受けるってやつだ――! つ、ついにエッチなことが……!)


 表向きは、宮妃として入り込んだのだから、おかしな展開ではない。あの夜に起こったことは、そこにいた人間しか知らないし、そのまま何もなかったかのように皆接してくる。


「湯あみのご用意はできていますから、どうぞ」


 言われるがままに風呂へ行く。風呂は、あの夜からは入っていない。やはり、特別に贅沢なものなのだ。女官が3人がかりで体と髪を洗ってくれる。傷だらけの痩せっぽちな体も、この5日間で癒え、少し血色が良くなってきた。


 洗い終わるくらいに、女官たちがささーっと引いた。何事かと思って、女官たちの目線の先を見てみると、王がいた。


「きゃあぁあ!」


 思わず叫び、体を隠すためにどぼんと湯へ飛び込む。女官たちは何かを察し、風呂場から出て行ってしまった。


「宮妃として入り込んだのなら、もう少し色っぽくせよ」


 呆れたように王が笑う。


「な…何しに来たの?――ですか?」


 頭だけ湯から出し、翠は王を睨みつけた。

 

「本日、寝所に呼び出した姫に、会いに来ただけだ」

「じゃあ、その――今からここで?」

「ここで?」

「ここで、エッチなことを、なさるのですか?」


 王がついに吹きだした。


「せぬ。5日間、たっぷり栄養を取った娘が、どうなったのか見に来ただけだ。ずいぶんと毛艶が良くなったようだな」

「え?」


 それはまるで、5日前の裸も見ているかのような言いっぷりだ。


(まさか)


「あの時、盗み見してたの!?……ですか?」

「『なんだこれ、天国だあぁぁ』という間抜けな声がしたので、つい見たくなってしまった」

「なっ……!!」


 顔が赤く染まる。声を聞かれていた、裸を見られていた、その恥辱に。


「どうだ。仲間の元へ帰り、前と同じ暮らしをしたいか。それともここで、ゆっくりと過ごしたいか」


 そんなの決まっている。そんなの……!


(分からない)


 頭領の厳しい修行をしなくてもよい。兄様たちと少ない食料を取り合わなくてよい。凍えるように寒い夜を過ごさなくてよい。人を手にかけなくてよい。


 短剣を突き刺す。血が飛ぶ。苦悶の表情。怒りに燃える瞳。思わぬ反撃。無念の涙。運悪く目撃者となった、恐怖に凍り付く子供も手にかける。

 そのたびに、自分の中の何か大切なものが擦り減っていく。

 あと何回、これを繰り返せばいいのか。


「分からぬか」


 心を見抜かれ、ドキリとする。


「結論は急がぬ。風呂を出て、寝所へ参れ」


 王は踵を返し、風呂場を出て行った。

お読みいただき、ありがとうございます!

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