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小説 後藤象二郎 熱風児 1838-1897  作者: 山田 誠一


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第九章:国民の権利

明治六年(1873年)、東京の太政官政府は、ぐつぐつと煮え返る泥沼のようになっていた。世にいう「征韓論」の巨大な嵐である。

頑なに鎖国を続ける朝鮮国に対し、使節を派遣して武力を背景に国交を開かせるべきか否か。

西郷隆盛、板垣退助、そして後藤象二郎らは、版籍奉還や廃藩置県によって特権を奪われ、不満を爆発寸前まで溜め込んだ国内の武士階級(士族)の目を外へ向け、かつ国家の威信を示すためにも、まずは西郷隆盛を「不帰の客」とする覚悟で遣使として派遣することを強く主張した。


これに対し、欧米列強の圧倒的な国力と、進んだ近代文明を目の当たりにして帰国したばかりの大久保利通や岩倉具視らは、「今は国内の整備が先決であり、無謀な外征の余裕など一分もない!」として猛然と立ちはだかった。


太政官の会議室は、連日、怒号と机を叩く音が絶えなかった。

「大久保ォッ! おんしは欧米の光に目を眩まされ、武士の魂を忘れたか! 国の威信を失うて、何が近代国家ぞ!」

板垣退助が、その鋭い眼光を血走らせて大久保を怒鳴りつける。

大久保は眉一つ動かさず、氷のように冷徹な声で言い放った。

「武士の魂などという情緒で、国が守れるか。今、清国や露西亜と一戦交えれば、この生まれたての日本は確実に滅ぶ。西郷殿を死なせるわけにはいかん」


この議論の応酬を、後藤象二郎は恐ろしい形相で睨みつけていた。象二郎にとって、この論争は単なる外交論ではなかった。薩長の一部有力者(藩閥)が宮廷と結託し、天下の公論を完全に無視して、自分たちの身内だけで国家の全権を独占しようとする体制そのものへの、激しい反発であった。


「――都合の悪い議論はすべて闇に葬るか! 大久保殿、岩倉殿! 天下の政事は、広く公議に拠るべしと、あの二条城で、御誓文で、天下に誓ったはずではないかッ! 貴様らのやっていることは、徳川の独裁と何が違うのだッ!」


象二郎の地鳴りのような咆哮が響き渡る。

しかし十月、岩倉具視や大久保らの緻密かつ強引な宮廷工作によって、西郷隆盛の遣使派遣は事実上、否決された。完全に盤面をひっくり返されたのである。


「……ふん、やはりそういう真似をするか」

象二郎の唇が、怒りと侮蔑で不敵に歪んだ。

「もはや、この腐りきった独裁政府に未練など微塵もない。公論を排し、身内だけで権力を貪る独裁政府など、こちらから見限ってやるわ!」


十月二十四日。後藤象二郎は、西郷隆盛や板垣退助とともに参議の職を投げ打ち、堂々と政府を去った。世にいう「明治六年の政変」である。

昨日まで国家の最高権力者として天下を差配していた怪物たちが、一日にして一斉に野に下った。東京の街に、不穏な激震が走った。


野に下った後藤象二郎は、同じ土佐出身の自由の巨頭・板垣退助とがっちりと固い握手を交わした。

実はこの二人、奇妙な因縁があった。板垣退助は、かつて幕末に後藤象二郎が「吉田東洋暗殺の犯人」として激しく粛清し、追い詰めた土佐勤王党の思想的系譜を引く男だったからだ。本来であれば水と油、不倶戴天の敵同士である。


「後藤、まさかおんしと手を組む日が来るとはな。東洋先生の一件、忘れたわけではないぞ」

板垣が皮肉交じりに呟くと、象二郎は大笑いしてその巨躯を揺らした。

「はっははは! 板垣、過去の恨み言など、犬にでも食わせておけ! 昔、長崎でわしが坂本龍馬と手を結んだ時と同じよ。大局の目的、すなわち『藩閥の独裁をぶち壊す』という大義の前には、過去の怨讐など埃のようなものぜよ!」


この天性の、凄まじいまでの「割り切り」こそが、後藤象二郎という男の怪物たる所以であった。


明治七年(1874年)一月、後藤象二郎や板垣退助らは、一大爆弾を新政府へと叩きつけた。日本の歴史を永遠に変える一枚の書類、「民撰議院設立建白書みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ」である。


『臣ら今、謹んで天下一統の公議を計るに、これを有司(官僚)に帰するに在らず、民撰議院を設立するに在るのみ!』


「一部の官僚どもが権力を独占するのを排し、国民が自ら選んだ議員による『議会』を即座に興せ!」という、凄まじい叫び。これこそが、近代日本を揺るがす「自由民権運動」の、烈々たる産声であった。

かつて坂本龍馬が船中で熱く語り、象二郎が二条城で徳川慶喜に迫った「公議政体」の理想が、今度は「民権」という全く新しい、そして最強の旗印となって蘇ったのである。


象二郎は、日本初の政党とも言える「愛国公党」や、土佐における民権運動の総本山「立志社りっししゃ」の創設に最高幹部として深く関わり、全国を駆け巡った。


「政府の有司どもが権力を独占し、勝手気ままに国を動かすは、天下の公理に反する! 命を懸けて国を支える国民に、広く政治に参加する正当な権利を与えよ!」


全国の演説会場に、象二郎のあの熊のような巨躯が現れるたび、聴衆は狂乱した。壇上で拳を突き出し、地鳴りのような大声で藩閥政府を糾弾する象二郎の姿は、政府に不満を持つ不平士族や、豪農、豪商たちの魂を激しく揺さぶり、彼らの心を鷲掴みにした。

「後藤先生! よくぞ言った!」

「藩閥政府をぶち壊せ!」

地を揺るがすような喝采の中、象二郎は民権運動の圧倒的な「顔」となっていった。


しかし、後藤象二郎という人間の、生来の業というべきか――。

この男の栄光の足元には、常に「利」と「金」のどす黒い影がつきまとっていた。


民権運動の偉大なる旗頭として大衆の熱狂的な喝采を浴び、自由の尊さを叫ぶその口の裏で、象二郎は肥前(長崎)の高島炭鉱たかしまたんこうの経営権を買い取り、巨万の富を掴もうとしていたのである。

近代化に必要な「石炭」に目をつけたのは流石の先見の明であったが、経営の才覚はまるでなかった。高島炭鉱の経営はみるみる悪化し、気づけば象二郎の背中には、個人で背負える額を遥かに超越した、天文学的な借財がのしかかっていた。


「おい、後藤。また長崎からの督促状だぞ。おんし、演説で『民の権利』を語る前に、自分の財布の権利をどうにかせんか!」

板垣退助があきれ果てた顔で書類を突きつけると、象二郎は冷や汗を流しながら頭を掻いた。

「いや、勘定というのはどうも苦手でのぅ……。だが板垣、炭鉱が動かねば、新しき日本の産業も興らん。これも国のためよ!」


理想を語る大口の裏で、常にその日暮らしの現実的な金策に狂ったように奔走せねばならぬという、いかにも後藤象二郎らしい、巨大な矛盾に満ちた日々。

債務は膨らむ一方で、高島炭鉱の経営はもはや破綻寸前。大局の歴史を見る天才的な目はあっても、日々の勘定には恐ろしいほど疎い。


そして、この経済的な困窮、首が回らぬほどの金の切れ目こそが、やがて彼の輝かしい政治生命に、奇妙で、そして誰もが予想し得なかった「大いなる変節」をもたらす原因となっていく。


牙を剥く民権運動の巨頭を冷酷に見つめていた政府の最高権力者・大久保利通、そして内務卿の後継者たちは、不敵に笑っていた。

「後藤象二郎か。民衆の前では吠え猛る獅子だが……あの男には、致命的な弱点がある。金だ」


政府は、民権運動の巨頭が持つ「金銭への決定的な脆さ」を、冷徹に見透かし、闇の罠を仕掛けようとしていた。時代は、象二郎を再び泥沼の渦へと引きずり込んでいく。


(最終章に続く)

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