最終章:悪童の夕雲
一
明治十四年(1881年)、自由民権運動は全国的な大沸騰を迎えていた。板垣退助を総理とし、後藤象二郎を副総理格とした「自由党」が結成され、藩閥政府を震え上がらせていた。高知の城下で暴れていたあの良輔が、今や天下の民衆を率いる巨頭となったのである。
しかし、後藤象二郎の懐は、常に火の車であった。高島炭鉱の経営に失敗して莫大な借財を抱え、日々の金策に追われていた。政府を激しく糾弾する一方で、後藤象二郎の脳裏には現実主義的な計算が働いていた。
「野にあって吠えるだけで、国家が動かせるか。わしは、東洋先生から授かった法と仕組みを、この手で動かしたいのだ」
そこへ、政府の知恵袋である井上馨から、奇妙な誘いが持ちかけられる。
「後藤君、板垣君とともに、欧州の進んだ議会政治を視察してきてはどうか。費用はすべて我が方で工面しよう」
民権運動の切り崩しを狙った政府の罠であることは明白であった。党内からは「政府の金で外遊など、裏切り行為である」と猛烈な非難が浴びせられたが、後藤象二郎は平然としていた。
「敵の金であっても、それを使って天下の知見を広めるのであれば、これほどの利はあるまい」
明治十五年(1882年)、後藤象二郎は板垣退助とともに横浜港から欧州へと旅立った。仏蘭西や英国、独逸の議会を巡り、新しき文明の光をその目に焼き付けた。しかし、この外遊の間に、国内の自由党は過激化と分裂を繰り返し、後藤象二郎らが帰国した頃には、民権運動はかつての輝きを失っていた。
二
時代は再び、後藤象二郎を政府の側へと引き戻す。明治二十二年(1889年)、大日本帝国憲法が発布されるや、藩閥政府は民権派の重鎮を取り込むことで、新体制の安定を図ろうとした。後藤象二郎はその巨躯を買われ、黒田清隆内閣の「逓信大臣」として、実に十六年ぶりに政府の要職へと復帰したのである。
「後藤は利に目が眩んで変節した」
かつての同志たちは、後藤象二郎を俗物と罵った。しかし、後藤象二郎の胸中は冷ややかであった。逓信大臣、鎖して農商務大臣を歴任する後藤象二郎は、近代日本の通信や産業の基盤を整えるべく、再び官僚としての腕力を振るった。実父の後藤助右衛門正晴が説いた「大局を見る目」は、皮肉にも、かつての仲間を捨ててでも権力の中枢に留まるという、冷徹な大人の処世術へと行き着いていた。しかし、その贅沢を好む奔放な生活と、相変わらずの借財は、この老いた巨頭の命運を確実に削り取りつつあった。明治二十九年(1896年)に職を辞したのちは、静かな隠居生活へと入った。
三
明治三十年(1897年)の夏、神奈川の箱根にある湯宿の縁側に、一人の老人がどっかりと腰を下ろしていた。後藤象二郎である。
数え年で六十。かつて天下を震撼させたあの巨躯は、長年の大酒と過分なる贅沢、そして終わりのない金策の心労によって、すっかり衰えていた。心臓の病が、この土佐の豪傑を静かに蝕んでいたのである。後藤象二郎は、箱根の山々に沸き立つ夕雲をじっと見つめていた。その脳裏には、走馬灯のように過去の情景が去来していたに違いない。
高知城下で父に叱咤された日々。鶴鳴塾で吉田東洋から天下の理を叩き込まれた青春。長崎で坂本龍馬と大杯を交わし、二条城で徳川二百五十年の歴史に幕を下ろしたあの秋。英国公使の危機に刀を抜いて暴徒を切り伏せた感触。そして、藩を解体し、やがて野に下って自由民権の旗頭として大衆の喝采を浴びた日々――。
「わしの生涯は、俗物の裏切りであったか、それとも誠の奉公であったか」
後藤象二郎は自嘲気味に呟いたかもしれない。世間は彼を「変節漢」と呼び、利に敏い俗物と評することが多かった。薩摩の西郷隆盛のように美しく散ることもできず、長州の木戸孝允のように己を律することもできなかった。
しかし、後藤象二郎という男の根底にあったのは、空理空論を排した徹底的な「現実主義」であった。武市半平太の攘夷が、坂本龍馬の理想が、板垣退助の民権が、どれほど美しくとも、それを現実の「法と仕組み」として天下に定着させる腕力がなければ、すべては絵に描いた餅に終わる。後藤象二郎は、その泥にまみれる役目を、自らの巨躯を以て引き受け続けたのではなかったか。
同年八月四日、後藤象二郎は静かに息を引き取った。土佐の熱風は、ここに吹き止んだ。しかし、後藤象二郎という男が歴史の闇に放った強烈な光芒は、割り切れぬ人間の業の深さと、時代を動かす冷徹な才覚の美しさを、今なお我々の心に鮮烈に伝えている。
(全十章・完)
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