第七章:象の宝剣
一
明治の御世が、血と硝煙の向こうからついにその姿を現した。
慶応四年(1868年)一月、鳥羽・伏見の戦いの大爆発を口切りに始まった戊辰戦争は、日本全土を真っ二つに叩き割る未曾有の大乱となった。昨日までの幕府の法はただの紙屑となり、昨日までの宿敵が今日の同僚となる、天地が逆転した狂乱の時代である。
かつて高知城下の片町で「竹を割ったような暴れ者」と恐れられていた後藤良輔は、いまや明治新政府の「参与」であり、「外国事務局知事」という、新生日本の外交の命運を一身に背負う最高幹部の座に君臨していた。
後藤象二郎のあまりの変貌ぶりは、周囲の度肝を抜いた。
「土佐の芋侍に、異国との談判などできるものか」という陰口を、彼はその圧倒的な器量で叩き潰した。もとは武骨な土佐武士でありながら、英国や仏国の公使らと対峙しても一歩も引かず、その堂々たる巨躯から放たれる覇気で異国を圧倒したのである。
しかし、誕生したばかりの新政府の足元は、脆かった。
とりわけ、長年日本中を狂わせてきた「尊王攘夷」の狂熱は、いまだ底流で激しく渦巻いている。外国人を「穢れた異人」と蔑み、これらを生きては帰さぬと誓う過激派たちが、京の都の闇に無数に息を潜めていた。
後藤象二郎は、かつて恩師・吉田東洋から脳髄に叩き込まれた冷徹な現実主義を以て、この歪んだ世情を睨みつけていた。
「世界の大勢を見ず、ただ己の狭い正義感で刃を振るうは、国家を滅ぼす邪道である! いま異国と戦えば、日本は清国の如く列強に貪り尽くされるぞ。新政府が天下の正統たるを示すには、国際信義を何が何でも厳守するほかなし!」
これこそが、象二郎の絶対に譲れぬ新時代の信念であった。しかし、その志の前に、時代の因習という巨大な怪物が牙を剥く。
二
慶応四年二月三十日(※明治元年3月23日)、京の街が血で染まる大事件が勃発した。
英国公使ハリー・パークスが、明治天皇に謁見するという歴史的儀式のため、宿所の知恩院から御所へと向かう途上のことである。
絢爛たる騎馬護衛兵を従えた行列が、京の縄手通の狭い辻に差し掛かった、その瞬間であった――。
「異人を斬れェェェーーーッ!! 天下の不義を正さん!」
突如、沿道の闇から、眼を血走らせた二人の狂気じみた志士が躍り出た。元津藩士・三枝蓊、そして朱雀操である。二人は凄まじい気迫とともに抜刀するや、英国公使の行列のド真ん中へと猛然と斬り込んだ!
「な、何奴だッ!?」
不意を突かれた英国の騎馬護衛兵たちが、防戦も間に合わず次々と落馬し、石畳に鮮血が飛び散る。
「ギャアッ!」
「過激派だ! 公使を護れ!」
悲鳴と狂ったような怒号が響き渡り、行列は一瞬にして阿鼻叫喚の血の海と化した。刺客たちの狙いは、ただ一人――英国公使パークスの首級である。パークスの命は、まさに風前の灯火となった。
この時、行列に随行していた後藤象二郎は、同行の薩摩藩士・中井弘とともに、直ちに事態の破滅的な重大性を察知した。
(ここで英国公使が殺されれば、誕生したばかりの新政府は国際社会の信用を完全に失う! 英国の無敵艦隊が大阪湾に押し寄せ、この日本は一瞬にして植民地にされるぞ!)
象二郎は、己の命を失うことなど微塵も恐れなかった。彼が恐れたのは、東洋の遺志を継ぎ、坂本龍馬とともに血の涙を流して描き出した「近代国家の設計図」が、この狂信者どもの独善的な刃によって水泡に帰すことであった。
「天下の暴徒め、この後藤象二郎が通さぬぞォォォッ!!」
象二郎はその巨躯を爆発させるように跳躍し、腰に帯びた肥前忠広の名刀を、稲妻の如き速さで引き抜いた!
鋭い金属音が響き、襲い来る刺客のひとり、朱雀操の凶刃が象二郎の眼前に迫る。
「邪魔をするな、新政府の売国奴がッ!」朱雀が叫ぶ。
「売国はどちらだ、この狂犬めがッ!」
ガキィィィィィィン!!!
互いの刀が激突し、火花が夜の街を鮮烈に照らし出した。朱雀操は神道無念流の凄腕の剣客であり、その太刀筋は鋭く重い。しかし、象二郎の背負う「国家の命運」という執念と、人並み外れた腕力はその遥か上をいっていた。
象二郎は朱雀の刃を強引に斜めへと受け流すや、その巨大な肉体を弾丸のようにぶつける、凄まじい体当たりを喰らわせた!
「ぐはっ!?」
体勢を激しく崩した朱雀の胸元へ、象二郎は肥前忠広を大上段から渾身の力で振り下ろした。
ズバァァァッ!!!
凄まじい肉声とともに放たれた一撃は、朱雀操の肩口から胸元を深く、骨ごと叩き裂いた。ドッと夜空に真っ赤な血飛沫が舞い散る。
同時に、中井弘もまた狂ったように刀を振り回し、もう一人の刺客である三枝蓊の足を深く斬りつけ、石畳へと圧し折っていた。
激しい息を吐きながら、象二郎は這いつくばる朱雀操を見下ろした。朱雀はなおも這い上がり、パークスを刺そうと執念の目を向けている。
「……日本を、我が国を……」
「お前の正義では、国は救えん!」
象二郎は容赦なく刀を真横に一閃させた。
一閃――。朱雀操の首級が宙を舞い、石畳の上をゴロゴロと転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
血煙が立ち込める縄手通の中、全身に返り血を浴び、血塗られた肥前忠広を握り締める後藤象二郎の姿は、あたかも地獄から現れた仁王像の如き、圧倒的な威圧感を放っていた。
事件は、ものの数分で完全に鎮圧された。パークス公使は奇跡的に無傷であり、後藤象二郎という怪物の、命を賭した激烈な防戦によって、日本という国家は未曾有の外交破滅の危機を、間一髪のところで回避したのである。
三
この「縄手通の襲撃事件」の数日後、英国政府は後藤象二郎の果敢極まる行動を「東洋の奇跡」と大いに称賛した。その功績を称え、ビクトリア女王より、名誉の紋章が刻まれた至高の宝剣が象二郎へと贈られたのである。
かつて、十歳で亡くなった実父・後藤助右衛門が「身体が大きいだけで、中身のない粗忽者にならねば良いが」と懸念したあの少年は、いまや一国の命運をその規格外の腕力で救い出した、世界にその名を轟かせる偉大なる英傑となった。
しかし、象二郎はビクトリア女王の宝剣を手にしながらも、冷たく笑うだけであった。
「暴徒を切り伏せるなど、ただの力仕事に過ぎん」
そう、東洋が目指し、龍馬が夢見た「新時代を構築する」という本当の大業に比べれば、このような刃傷沙汰は単なる端緒、小競り合いに過ぎないのだ。
後藤象二郎の真の戦いの舞台は、血生臭い京の路地裏ではない。世界という大渦の中で日本をどう生き残らせるか、国家の根幹を、法を、利の仕組みを組み替える、太政官の会議室という「新たな戦場」へと移っていくのである。
(第八章に続く)
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