第六章:意志を継ぐ道
一
大政奉還という、日本の歴史をひっくり返す前代未聞の無血革命を成し遂げた後藤象二郎は、京の土佐藩邸において、新国家の壮大な設計図を広げていた。
「薩長も幕府も、わしと坂本の盤面の上で踊ったに過ぎん!」
己の才覚が天下を動かしたという絶対の自負が、そのただでさえ巨大な体躯を、いっそう巨人の如く大きく見せていた。
しかし、歴史の神は時に、あまりにも残酷で血生臭い転換を用意する。
個人の知略や理想をあざ笑うかのような歴史の必然性が、再びどす黒い血の匂いを伴って、京の街を暗黒の底に包み込んだ。
慶応三年(1867年)十一月十五日、風の冷たい夜。
京の河原町にある醤油商「近江屋」の二階において、未だ見ぬ新日本の夜明けを夢見ていた坂本龍馬、そして中岡慎太郎が、突如闇から現れた謎の暗殺集団の手によって襲撃された。
短い怒号と、肉を裂き骨を砕く凄絶な風切音。龍馬は脳を割られ、中岡は全身に無数の白刃を浴びて血の海に沈んだ。
その凶報が、土佐藩邸に籠る後藤象二郎のもとに届いたのは、深夜のことであった。
「後藤様! 大変にございます! 坂本様が……坂本様が近江屋にて何者かに斬られました! 坂本様は即死、中岡様も虫の息にございます!」
「……何だと……?」
その言葉を聞いた瞬間、後藤象二郎は手にしていた筆を落とした。パチリと畳に落ちた墨の音が、妙に大きく響く。象二郎の身体は、まるで氷像にされたかのように凝固した。
長崎の料亭で拳を突き合わせ、大杯を交わし、「日の本を世界一の強国にしよう」と魂を誓い合った無二の盟友。お互いに大事な人間を殺し、殺された怨讐の果てに、ようやく見つけた至高の相棒。
その男が、一言の別れもなく、冷たい屍となってこの世を去った。その冷酷な現実が、象二郎の脳髄を乱打した。
二
「う、嘘だッ! 嘘を言うなァァァーーーッ!!」
次の瞬間、象二郎は咆哮した。地鳴りのような怒号が藩邸の柱を震わせる。
象二郎は猛然と立ち上がり、漆黒の瞳に血走った怒りをみなぎらせて、畳を骨が砕けんばかりに拳で殴りつけた。
「誰だ! 誰が坂本を殺した! 幕府の犬どもか!? それとも、無血の革命を面白く思わん薩長の過激派かッ!? 答えろ!」
「分、分かりませぬ! 刺客どもが誰かはまだわかっておりません!」
「おのれぇぇ……! 坂本、おんし、こんなところで、なぜ死ぬ! 新しい国を、議会を、おんしと共に創るはずだったのではなかったのか!」
床に突き立てた拳から血が滲む。象二郎の巨躯から、血涙が溢れ出んばかりの悔しさが爆発していた。坂本龍馬という「未来の光」を失ったことは、象二郎にとって片腕を、いや、己の魂の半分を捥ぎ取られたも同然であった。
しかし、歴史の秒針は、彼の感傷を待ってはくれない。
龍馬という絶対的な均衡を失った世界は、狂ったように生き急ぎ、最悪の戦火へと突き進んでいった。
同年十二月、薩摩の西郷隆盛らの恐るべき謀略により、京の宮廷において「王政復古の大号令」が発せられた。
武力討幕を諦めない薩長は、徳川慶喜を新政府から完全に排除し、その領地を力ずくで奪い取るという暴挙に出た。象二郎と龍馬が命懸けで組み立てた「徳川も含めた、一兵も損なわぬ公議政体」の美しき理想は、薩長が放つどす黒い政治の暴力によって、一瞬にして踏みにじられ、葬り去られたのである。
「やはり、血を流さねば気が済まんか、西郷、大久保……!」
象二郎は、闇に煙る京の街を睨み、歯噛みした。
三
明けて慶応四年(1868年)一月三日。ついに、最悪の戦端が開かれた。
「鳥羽・伏見の戦い」の勃発である。
新政府の権力強奪に激怒した旧幕府軍の精鋭一万五千が、大坂から京を目指して進軍。それを、薩摩・長州を中心とする新政府軍が鳥羽と伏見の街道で迎え撃った。ここに、日本を真っ二つに割る「戊辰戦争」の凄絶な火蓋が切って落とされたのである。
戦場は、地獄の業火に包まれた。
ドゴォォォーーンッ! と鳥羽街道の静寂を切り裂いて、薩摩の英国製アームストロング砲が火を噴いた。炸裂した砲弾が旧幕府軍の列に直撃し、肉片と泥土が夜空高く舞い上がる。
「進め! 賊軍を一人残らず叩き潰せ!」
ズババババババッ! と新政府軍のミニエー銃が一斉射撃を浴びせれば、旧幕府軍の会津・桑名藩兵も「おのれ、薩長の不義打ちめ!」と叫び、白刃を抜いて猛然と突撃した。
ガキィィィン! 痛烈な金属音が響き、血飛沫が闇を走る。
伏見の街並みは激しい砲撃によって炎上し、黒煙が天を覆い、街道は敵味方の死屍累々たる地獄と化した。
土佐藩主の山内交通(容堂)は、大坂に宿陣しながら「我が土佐兵は、徳川に恩義がある。絶対にこの戦に加わり、徳川に弓を引いてはならぬ!」と厳命を下していた。
しかし、激動する戦場の最前線に立つ土佐の若き兵たちは、時代の熱風と薩長の圧倒的な勢いに押され、乾退助(後の板垣退助)らに率いられて、容堂の命令を事実上無視する形で、新政府軍として参戦していった。
京の藩邸で、砲撃の重低音を聞きながら、後藤象二郎は一人、燃え盛る蝋燭の炎を見つめていた。
その瞳は、怒りも絶望も通り越し、恐ろしいほどの冷徹さを取り戻していた。
「……もはや、徳川の世は二度と戻らぬ。大政奉還の理想は、戦火の中に消えた」
象二郎は静かに、だが鋼の如き硬さで、己の進むべき道の理由を定めた。
「ならば、わしがやるべきことは一つ。ここで立ち止まり、失われた策を嘆くことではない。土佐の軍勢を率い、この大乱を勝ち抜き、新政府の中で誰も文句の言えぬ『絶対たる地位』を築くことだ。それこそが……!」
象二郎は立ち上がり、腰の刀の柄を強く握りしめた。
「それこそが、旧弊を壊そうとして暗殺された東洋先生の無念を晴らし、日本の夜明けを叫んで散った坂本の遺志を、この時代に叩き込む唯一の道ぜよ!」
後藤象二郎は、ただちに動き出した。彼はその圧倒的な腕力と知略を以て、新政府の「外国事務総督」という、世界と対峙する最高要職に就任。
京の都に硝煙が立ち込め、古い日本が瓦解していく混沌の中で、一国の命運を握る外交の怪物質として、自らの存在感をいっそう不気味に、そして巨大に高めていくのであった。
(第七章に続く)
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