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小説 後藤象二郎 熱風児 1838-1897  作者: 山田 誠一


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第五章:一枚の建白書

慶応三年(1867年)の秋、京の都は一触即発の、肌を刺すような熱気に包まれていた。

薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允は、武力によって徳川幕府を完膚なきまでに打ち倒すべく、密かに京の周辺へ兵を動かしつつあった。このまま戦火が上がれば、日本は焦土と化し、待ってましたとばかりに欧米列強が介入して国が割れる。それは火を見るより明らかであった。


「薩長が動く前に、盤面をひっくり返さねばならぬ!」


この未曾有の危機を回避し、かつ土佐藩を天下の主導権に据えるため、後藤象二郎は京の藩邸で猛然と、獣のように動き始めた。

だが、その前に立ちはだかる最大の壁があった。土佐藩の最高権力者にして、鯨海酔侯げいかいすいこうと称される絶対君主・山内容堂の説得である。容堂は徳川家への深き恩義を重んじる男であり、武力討幕など論外、されど幕府の無能にも愛想を尽かしているという、複雑な胸中の中にいた。


畳に額を擦りつける象二郎の前に、容堂は酒杯を傾けながら、射るような視線を投げ下ろした。

「象二郎、薩長が兵を集めておる。土佐もこれに加われと申すか。わしは、豊臣の恩を忘れて牙を剥いた裏切り者どものようにはならぬぞ。徳川家を滅ぼすことだけは、絶対に許さん!」


「滅ぼしはいたしませぬ!」

象二郎は猛然と顔を上げた。その眼光の凄まじさに、容堂の手が止まる。

「滅ぼすのではなく、徳川を『新しき日本の主宰者』として不滅のものにする策にございます!」


「……何だと? 詳しく話せ」


象二郎は懐から、長崎で坂本龍馬と共に練り上げた「大政奉還」の絵図面を容堂の前に突きつけた。

「将軍職を辞し、政権を朝廷に自らお返しするのです。政権を失えば、薩長は幕府を討つ大義名分(口実)を完全に失います。その上で、諸侯を集めた『新議会』を興す。容堂公、考えても御覧じませ。二百五十年も天下を統治した徳川家以上の財力、人材、人脈を、薩長が持っておりますか? 議会を開けば、筆頭に座るのは徳川慶喜公をおいて他にはございませぬ! これこそ、徳川を救い、一兵も損なわずに土佐が天下の主導権を握る、至高の一手でございます!」


容堂は絶句した。酒杯を握る手が、驚愕で微かに震える。象二郎の語る言葉の裏には、かつて己が愛した吉田東洋の、あの冷徹で合理的な『実学』の魂が、より巨大な規模で脈打っていたからだ。


「……大政奉還……。狂気の沙汰かと思ったが、これならば……徳川の家を潰さずに済むどころか、薩長の鼻をあかすことができる。象二郎、おんし、化けたな」

容堂の唇が、不敵に吊り上がった。

「良い。すぐに将軍家へ建白せよ。土佐藩の全命運を、おんしのその一手に賭ける!」


「ははっ! ありがたき幸せ!」

主君の全権を得た後藤象二郎は、一気呵成に嵐の中へと飛び込んだ。


十月三日、後藤象二郎は土佐藩の重臣として、徳川の心臓部へ斬り込んだ。幕府の老中・板倉勝静いたくら かつきよを呼び出し、緊迫した空気の中で、一枚の建白書をその手へと叩きつけた。


「板倉様、これは土佐藩の建白にございます。されど、ただの意見書と思召すな。今、薩長が禁裏(朝廷)を動かし、討幕の密勅を降そうと爪を研いでおります。これが最後の、徳川家が生き残るための命綱にございます!」


板倉勝静はその建白書を読み進めるうちに、顔面を蒼白にさせた。そこに書かれていたのは、形骸化した幕府を終わらせ、全く新しい日本の骨組みを創り出す、坂本龍馬が描き象二郎が翻訳した「船中八策」の魂そのものであった。


「これを……公(慶喜)に伝えよと言うか。後藤殿、これは幕府の終わりを意味するのだぞ!」


「終わりではありませぬ! 幕府という古い衣を脱ぎ捨て、徳川が新しき国を率いるための脱皮にございます! 薩長の刃が慶喜公の喉元に届くのが先か、この建白を容れるのが先か。老中、一刻の猶予もございませぬ!」


将軍・徳川慶喜という男は、時の激流を見抜く天才的な、かつ明敏すぎるほどの頭脳を持っていた。板倉から建白書を受け取った慶喜は、即座に理解した。薩長の武力討幕という銃口を、合法的に、かつ完全に無力化する一手はこれしかない、と。


十月十三日。京都二条城、格式高き大広間に、諸藩の重臣たちが集められた。

嵐の前の静けさが支配する中、後藤象二郎もまた、その巨躯を畳に平伏させ、将軍の出座を待っていた。心臓の鼓動が、耳の奥で激しく打つ。

やがて、威厳に満ちた足音と共に、十五代将軍・徳川慶喜が姿を現した。その佇まいは、滅びゆく覇王のそれではなく、時代の先頭に立とうとする変革者の鋭さに満ちていた。


慶喜は諸臣を見回し、澄んだ、されど地鳴りのように威厳に満ちた声で言い放った。


「天下の時勢を鑑みるに、これ以上の内乱は国を滅ぼす。よって、これまでの因習を捨て、朝廷に政権を帰し、広く天下の公議を尽くさんと思う。諸臣、異存はあるか!」


その瞬間、畳に額を押し当てていた後藤象二郎の背中に、雷が落ちたかのような激しい戦慄が走った。全身の血の気が一引きし、次の瞬間には沸騰するような熱さが突き上げた。


(……やった。本当に、本当にひっくり返したぞ……!)


二百五十年、いや、鎌倉の世から七百年近く続いた「武家政治」の歴史が、今この瞬間、己と坂本が仕掛けた一枚の建白書によって、音を立てて崩壊し、新たな時代へと生まれ変わったのだ。


二条城の巨大な門を出た後藤象二郎は、遮るもののない京の夜空を仰ぎ見た。


「東洋先生……! ご覧ください! 貴方の蒔いた『実学』の種が、ついにこの日本を覆う大樹となりました! 貴方を殺した狂熱の世は、今夜、完全に終わりを告げました!」


冷たい秋風が、興奮で火照った巨躯を包み込む。象二郎は胸の奥の底から、溜め込んでいた息を、咆哮の如く吐き出した。


「坂本――ッ!! やったぞ!! 天下は、歴史は動いたぞ!!」


闇に向かって叫ぶ象二郎の脳裏に、かつて長崎の料亭で、血涙を流しながら「新しい日本を創らんか」と拳を握りしめていた龍馬の姿が鮮烈に浮かんでいた。涙が頬を伝うのを、象二郎は拭おうともしなかった。復讐の炎は大義へと昇華され、ついに恩師の魂を救い出したのだという確信が彼を震わせていた。


しかし、夜空を見つめる象二郎の瞳は、すぐに冷徹な現実主義者のそれへと戻った。

この大いなる奇策の成功は、平穏をもたらすものではない。徳川を肉体的に、完全に抹殺せんとしていた薩長の志士たちは、この無血の政変によって大義名分を奪われ、激しい怒りと憎悪に狂っているはずだ。彼らは必ず、この盤面を再び血で汚すための、さらなる武力行使の陰謀を巡らせてくる。


そして何より――。

「……坂本、おんしの命が危ない」

象二郎は呟いた。この前代未聞の策の真の生みの親であり、時代の先頭を走り続ける坂本龍馬という光が強くなればなるほど、その背後に潜む暗殺の影は、色濃く、深く、忍び寄っていたのである。

時代は、さらなる狂気を孕んで加速していく。


(第六章に続く)

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