第四章:宿敵、坂本竜馬
一
慶応三年(1867年)の春、長崎の街は、異国の商船が吐き出す石炭の煙と、天下の動乱を企む志士たちの野心で沸き返っていた。
土佐藩の参政としてこの地に乗り込んできた後藤象二郎は、丸山の料亭「清風亭」の広き座敷に、どっかりと巨躯を横たえていた。張り詰めた沈黙の中、障子が開く。
そこに現れた男の姿を見た瞬間、背後に控える土佐藩士たちの手が、一斉に刀の柄へとかけられた。室内の空気が瞬時に凍りつく。その男こそ、かつて後藤象二郎が目の敵にして潰しきった土佐勤王党の生き残りであり、今は脱藩の罪人として追われる身の坂本龍馬であった。
本来であれば、出会い頭に互いの白刃を交わし、血を流して斬り結ぶべき宿敵同士である。後藤象二郎にとって坂本龍馬は恩師・吉田東洋の仇の同類であり、坂本龍馬にとっても後藤象二郎は、首領・武市半平太や岡田以蔵をはじめ、多くの大切な同志を死に追いやった冷酷無比な執行人に他ならなかったからだ。
だが、この二人の怪物の瞳の奥には、過去の血煙を遥かに凌駕する「世界の大勢を見る目」が不気味に光っていた。地理的に遠く離れた長崎の地で、交わらぬはずの二つの志が、今まさに激突しようとしていた。
二
後藤象二郎は、おのれを射抜くような坂本龍馬の奔放な眼光を正面から見据え、不敵に唇を歪めた。
「……坂本おんし、よくもわしの前に面を晒せたものじゃ。脱藩の罪人が、薩摩の西郷吉之助や長州の木戸準一郎を裏で動かし、大量の鉄砲を融通していることはすべて掴んでいるぞ。薩長を焚きつけ、武力で幕府を叩き潰して、この日本を血の海にするつもりか」
龍馬は懐に手を差し入れたまま、怯える色も見せず平然と言い放った。
「後藤さん、戦をすれば日本は焦土となり、それこそ異国の思う壺ぜよ。薩長も幕府も、目の前の戦に目を奪われて大局が見えちょらん。武力討幕など、悪手の中の悪手ぜよ」
「ほう? ならば幕府を存続させるというのか。容堂公と同じ公武合体か? 徳川の天下など、もう持ちはせぬぞ」
「違うきに。徳川の政権をすべて朝廷に返し、諸侯が集う新たな『議会』を興す。これしか、日本が生き残る道は絶対にない」
龍馬は懐から一通の書状を取り出し、畳の上に滑らせた。それは、後に「船中八策」と呼ばれる、国家平定の壮大な青写真であった。政権の奉還、上下議政局の設置、万機公論に決すべし――。
その書状を凝視した象二郎の脳裏に、かつて鶴鳴塾で吉田東洋が血を吐くように叫んでいた言葉が鮮烈に蘇った。
「……これは……『法と利の仕組みによる近代国家』……! 坂本、おんし、まさか……」
「そうぜよ、後藤さん。東洋先生が言っちょった『実学』、それを日本全土の仕組みに広げるがじゃ。幕府を倒すのではない。幕府という『器』を壊し、徳川も薩長も土佐も、等しくその中に放り込んで公論で国を動かす。これなら、一兵も損なわずに新国家が生まれるきに!」
三
「……素晴らしい……!」
後藤象二郎の巨大な身体が、歓喜と驚愕、そして武者震いで激しく震えた。二人の脳裏に、全く同じ「天下を覆す一手の盤面」が浮かび上がり、火花となって弾けた。
「これだ……! この策を土佐藩の建白として徳川慶喜公に突きつければ、土佐は戦うことなく天下の主導権を握り、薩長の暴発を完全に制圧できる。坂本、おんし、とんでもないことを考えたな……!」
敵同士であったはずの二人が、互いの知略の奥底にある「大局」を理解し合った瞬間、座敷の空気は熱狂的な興奮へと反転した。しかし、その興奮の底から、押し殺していた血の記憶が、濁流のように湧き上がってくる。
象二郎が、書状を握りしめたまま声を低くした。
「……だが、坂本。わしはお前の一党を憎んでいる。東洋先生は、この日本にその仕組みを創るはずだった、唯一無二の頭脳だったのだ。お前たちの仲間が先生を闇討ちしなければ、日本はもっと早く変わっていた!」
龍馬の顔から笑みが消え、その瞳に深い哀悼と、怒りの炎が宿った。
「分かっちょる。だが後藤さん、おんしもまた、我が命より大事な同志たちを惨殺した。武市先生は、この国の至誠を信じて、土佐を想って切腹された。以蔵は……あいつはただ、時勢の嵐に惑わされた哀れな男じゃ。それを、おんしは容赦なく打ち首にした! 殺された側の無念、殺した側の怨恨、そんなものは、俺の胸の中にも血の涙となって流れちょる!」
龍馬は畳に拳を叩きつけた。
「お互い、大事な人間を殺され、殺してきたがじゃ! 恨み言なら、死ぬまで言い合ってもきりがないきに!」
「……ならば、なぜ、わしにこの策を託す」
象二郎が問う。龍馬は真っ直ぐに象二郎の目を睨み返した。
「東洋先生も、武市先生も、以蔵も、みんな『日の本を護りたい』という一念で死んでいったがじゃろう! ならば、その死を無駄にせんために、今ここで俺とおんしが手を組むべきぜよ! 過去の血を洗い流すほどの強い国を、異国に舐められん強い日本を、俺たちの手で創らんか!」
象二郎は深く息を吸い、そして猛然と笑った。その顔は、復讐に囚われた大監察のものではなく、未来を奪いに行く革命家のそれであった。
「ははは……! 面白い。坂本龍馬、おんしの言う通りだ。東洋先生の知恵も、武市やお前たちの志も、すべてこの『大政奉還』という一手に注ぎ込み、昇華させてみせる。藩内の守旧派が何と言おうと、容堂公が激怒しようと、わしが命を懸けてこの大博打を成し遂げてやる!」
危険への覚悟など、とうに捨てていた。象二郎は目の前の大杯に並々と酒を注ぎ、龍馬に突きつけた。
「坂本、この一手、我が命に代えても将軍へ届ける。二人の死力を尽くし、日の本を世界一の強国にしようぞ!」
「後藤さん、頼み申す。……さあ、日本の夜明けぜよ!」
怨讐を越え、魂の誓いを交わした二人の怪物は、一気に酒を飲み干した。長崎の夜風が、二人の熱気を孕んで激しく吹き抜ける。後藤象二郎はすぐさま京へと向かった。目指すは、徳川二百五十年の歴史を公論によって終わらせる、前代未聞の大舞台である。
(第五章に続く)
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