第三章:捕縛
面白いと感じていただけましたら、
画面下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援頂けると嬉しいです。
皆さまの温かい評価が、このシリーズを続け、次の物語を紡ぐ力になります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
一
吉田東洋の暗殺――それは、土佐の夜明けを血で染める凶報であった。
開国交易を唱えた巨星が消えたのち、土佐藩の権力は津波のごとき勢いで武市半平太と土佐勤王党の掌中に帰した。
国家を揺るがす過激な尊王攘夷の狂熱。その陰で、職を追われ、高知城下の一角で泥水をすする日々を余儀なくされていた男がいた。後藤象二郎である。
だが、この男の巨躯から発せられる凄まじい覇気は、如何なる逆境をもっても隠しようがなかった。
「今に見よ、狂言の幕は必ず降りる」
夜な夜な安酒を煽り、漆黒の闇を睨みつける象二郎の眼光は、京や江戸の動乱、いや、世界という地殻変動のうねりをじっと見据えていた。
個人の営みを越えた歴史の必然性は、過激な理想主義を長くは許さない。
文久三年(1863年)八月十八日、京の都で政変が勃発。長州藩を中心とする尊王攘夷派は一夜にして失脚し、時代の風向きは逆転した。
これに連動し、土佐の狂犬どもを忌み嫌っていた前藩主・山内容堂が、隠居の身ながら再び藩政の実権を掌握すべく、不気味に動き出す。容堂が混迷の土佐を救うために召喚したのは、かつて自らが重用した吉田東洋の遺志を継ぐ、冷徹なる現実主義の官僚たち――すなわち、牙を研ぎ澄ませていた後藤象二郎であった。
二
元治元年(1864年)、後藤象二郎は奇跡的な大復権を果たし、藩の軍事と警察、すなわち生殺与奪の権を一手に握る「大監察」という底知れぬ要職に就任した。
二十七歳の若き大監察は、かつてない強大な権力を手にするや、飢えた肉食獣のごとく即座に行動を開始した。
その胸に燃え盛る第一の目的は、恩師・吉田東洋の無念を晴らす仇討ちであり、土佐勤王党の徹底的な粛清である。
「東洋先生の命を奪った賊どもを、爪の先、髪の毛一筋にいたるまで、一人残らず炙り出せ。手段を選ぶな。骨を砕いてでも吐かせろ!」
象二郎の怒号とともに、高知城下には凄惨極まる峻烈な取り調べの嵐が吹き荒れた。勤王党の志士たちは次々と闇に捕らえられ、凄絶な拷問の床で血反吐を吐いた。
そして、後藤象二郎の復讐の刃は、ついに勤王党の首領であり、土佐の若者を熱狂させた宿敵・武市半平太へと達した。
武市は投獄され、果てしない不条理な審問に耐え続けたが、象二郎は容赦なく彼を追い詰めていく。
だが、これは単なる私怨による報復ではなかった。東洋が命を賭して目指した「法による近代国家」を土佐に、そして日本に確立するためには、法を無視した暗殺を正義と信じる思想集団を根絶やしにせねばならぬ。私闘の果てに自滅する旧弊な土佐を終わらせるための、大局的な国家観に基づく冷徹な意思決定であった。
三
慶応元年(1865年)初夏。長きにわたる拷問と泥沼の司法不全の果て、武市半平太の命数が尽きようとするその直前、獄舎の最奥で、土佐を二分した双雄の、最初で最後の壮絶な対話が実現した。
重い鉄格子の向こう、凄惨な拷問に耐え抜きながらも、武市の鋭い眼光と凛とした佇まいは、いささかも衰えてはいなかった。対する象二郎は、漆黒の陣羽織を翻し、威圧的な巨躯で武市を見下ろす。
「武市、ついにその首が飛ぶ時が来たな」
象二郎の声は、地鳴りのように低く響いた。
「東洋先生を暗殺し、土佐を狂熱の渦に巻き込んだ報いだ。お前たちのせいで、どれほどの優秀な命が、法を逸脱した私闘で失われたか。お前がやったことは、国家への反逆であり、ただの虐殺だ!」
武市は静かに笑み、だがその瞳の奥に、凍りつくような怨念の炎を宿して象二郎を見返した。
「後藤様……。貴方に我が志、我が勤王党の祈りが分かってたまるものか。異国の脅威が眼前に迫る中、ぬくぬくと門閥の権力にすがり、形ばかりの『法』を唱える貴方方に、この国の危機が、民の涙が見えていたか!?」
武市は一歩、這い寄るように鉄格子ににじり寄った。その声に、無念の血が混じる。
「私を殺すのは良い。だが、貴様は……貴様らは、我が我が子のように愛した同志たち、以蔵や、清岡たちを、犬のように拷問し、無残に首をはねた! 彼らはただ、この異国の脅威から日本を、土佐を護りたいと純粋に願った若者たちだ! その至誠を、貴様は己の復讐のために踏みにじったのだ!」
「至誠だと!? 笑わせるな!」
象二郎が激昂し、鉄格子を殴りつけた。凄まじい金属音が獄舎に木霊する。
「ならば、東洋先生の命は何だったのだ! 先生は、お前たちのように目先の攘夷という狂言に踊らされず、はるか未来の日本を見据えておられた! 土佐を近代的な強国へと生まれ変わらせる、唯一無二の頭脳だったのだ! それを……お前たちは闇討ちという最も卑劣な手段で奪い去った! 先生を失った我が無念、土佐の損失が、お前の一党の命ごときで償えると思うな!」
二人の視線が、火花を散らして激突する。
武市が求めたのは、古き良き日本の精神を尊び、至誠と 忠義を以て朝廷を中心に一丸となる理想郷。
象二郎が求めるのは、感情を排し、冷徹な法と軍事力、そして圧倒的な現実的富によって欧米列強と渡り合う近代国家。
目的は共に「土佐を、日本を護る」こと。しかし、その手段と、背負った死者の数が、二人を絶対に交わらぬ不倶戴天の敵としていた。
「お前たちの『正義』は、国家を滅ぼす毒だ。だから俺が根絶やしにする」象二郎の瞳から、私怨を越えた冷徹な『大義』が放たれる。
「後藤様、お前の創る国に『義』はあるか。……だが良い、私は土佐の礎となって消えよう。だが、私の志を継いだ血は、決して途絶えんぞ」武市は静かに目を閉じ、覚悟の首を垂れた。
同年五月十一日。武市半平太、切腹。
未だかつて誰も成し遂げなかった「三文字割腹」という凄絶な最期を以て、彼は己の至誠を証明し、この世を去った。ここに土佐勤王党は完全に壊滅し、土佐の絶対権力は、名実ともに後藤象二郎の掌中に帰したのである。
宿敵・武市半平太を打倒し、復讐を遂げた象二郎。しかし、勝利の余韻に浸る時間は一瞬たりとも残されていなかった。
土佐の権力を完全に掌握した彼の背後に迫っていたのは、欧米列強という、これまでとは次元の違う未知の巨大な制約、そして脅威であった。
英国の黒き巨船が長崎や横浜の港を不気味に威圧し、大砲の銃口を日本に向けている。徳川幕府の権威は完全に地に落ち、薩摩や長州といった雄藩は、すでに独自の軍事力と密貿易によって、天下を覆さんとする牙を剥き出しにしていた。
「このままでは、土佐は世界という大渦に呑まれ、一国もろとも消滅する」
東洋の遺志を継ぐ象二郎は、ただちに動いた。土佐を生き残らせ、さらには天下の覇権を握らせるためには、もはや旧来の藩政にこだわっている場合ではない。交易による富国、そして最先端の武器・技術の獲得。これ以外に道はない。
後藤象二郎は、西洋への窓口である長崎への派遣を山内容堂に直訴し、激動の港町へと身を投じた。
異国の風が吹き荒れ、蒸気船の黒煙が空を覆う長崎。
その混沌たる港町の片隅で、後藤象二郎は、日本の歴史を、そして己の運命を根底から狂わせ、かつ偉大なる方向へと導くことになる、一人の規格外の「怪物」と対峙することになる。
かつて武市半平太の元を去り、今や世界の海を見据える男――坂本龍馬という名の嵐が、すぐそこに待っていた。
(第四章に続く)
コメントや評価、レビューよろしくお願いします。とても励みになります。




