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小説 後藤象二郎 熱風児 1838-1897  作者: 山田 誠一


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第二章:武市半平太、黒く煙る

安政二年(1855年)の初夏、高知城下から少し離れた鶴田の地に構えられた吉田東洋の私塾、通称「鶴鳴塾」の講堂には、師の烈々たる声が、あたかも真夏の雷鳴の如く響き渡っていた。


「聖人の言葉をいくら唱えたところで、目の前の飢えた民は救えぬ。国を富ませ、兵を強くするは、空理空論の道徳にあらず。具体的な法と利の仕組み、すなわち『実学』である!」


ここに集うのは、旧来の門閥や因習を激しく嫌悪し、己の実力を以て国難を救わんとする血気盛んな上士の若者たちであった。成人を迎え、名を後藤象二郎と改めた良輔もまた、最前列で身を乗り出し、師の言葉を乾いた砂が水を吸うが如く、全細胞で吸収していた。


吉田東洋の思想は、当時の主流であった山崎闇斎の海南学(朱子学の一派)を土台としつつも、実利を排する儒教の殻を内側から叩き割った独自の「富国強兵論」であった。

後藤象二郎の体躯はいよいよ巨躯となり、座高は人並み外れ、その眼光は野生の猛禽の如く人を射るまでに鋭くなっていた。何者をも恐れぬ不敵な性格と、物事の本質を一目で掴む天性の直感力は塾生の中でも完全に際立っていた。吉田東洋は、この義理の甥が持つ「大言壮語を現実の仕組みに落とし込む圧倒的な腕力」を高く評価し、自らの壮大な政治構想の最強の手足として重用し始めたのである。


安政六年(1859年)、土佐藩主・山内豊信(後の容堂)の絶大な信頼を得た吉田東洋が、藩政改革の最高責任者である「参政」に就任すると、弱冠二十代前半の後藤象二郎もまた、怒涛の歴史の表舞台へと引っ張り出された。


幡多郡奉行や江戸御用役を歴任した後藤象二郎が手掛けたのは、吉田東洋の理想とする「重商主義による富国」の具現化であった。旧来の特権商人を容赦なく排除し、藩の物産を統制して臨海から広く交易を行う仕組みを整えようとした。それは土佐を、否、日本を中世の眠りから覚まさせるための、あまりにも急速な強行軍であった。


しかし、この冷徹で合理的な改革は、藩内の守旧派上士だけでなく、下士の間に急速に広まっていた尊王攘夷の思想と激しく衝突した。武市半平太率いる「土佐勤王党」の面々は、吉田東洋一派を「利を貪り、朝廷への忠義を忘れた俗物」として激しく糾弾し、城下は黒い殺気で煙り始めた。


これに対し、後藤象二郎の側も彼らを「世界の大勢を見ぬ、狂信的な攘夷論者」と鼻で笑い、一歩も引かなかった。

地理的に広大な太平洋に面し、異国の黒船を間近に目撃しやすい土佐という土地の制約が、最先端の現実主義と、激越な理想主義という二つの過激な意思決定を生み出し、城下には不穏な暗殺の霧が立ち込めていた。


「象二郎、天下の風は激しい。だが、我らがひるめば、土佐は時流に取り残され、列強の餌食となるぞ。何を失おうとも、この改革は引き戻せぬ」


文久二年(1862年)四月八日。

激しい雨が竹林を狂ったように揺らす夜、藩主への講義を終えて帰途についた吉田東洋は、そう語った直後、暗闇から躍り出た土佐勤王党の刺客たちの凶刃に倒れた。


「東洋先生が襲われた!」

その報せが届いた瞬間、後藤象二郎は魂を叩き割られたような衝撃に襲われた。

「何をしておる! 追え! 先生をお救いするのだ!」

象二郎は泥水を跳ね上げ、豪雨を突き破って現場へと疾走した。呼吸は激しく乱れ、胸の鼓動は早鐘のように鳴り響く。頭の中にあるのは、ただ一つ。「無事でいてくれ」という祈りだけだった。


しかし、現場に辿り着いた象二郎の目に飛び込んできたのは、言語を絶する地獄絵図であった。

溢れた血で赤黒く染まった冷たい泥水の中。そこに横たわっていたのは、首を失った、あまりにも無残な東洋のむくろであった。


「……先生……? 東洋先生ッ!!」

象二郎は泥の中に膝を突き、その遺体を抱きしめた。叫んだ声は、激しい雨音にかき消されていく。

脳裏をよぎったのは、十歳の時に経験した実父・後藤助右衛門の死の記憶であった。あの時も、己を庇護してくれる巨大な存在を突然失い、世界が暗転した。だが、いま目の前にある死は、それ以上に凄惨で、あまりにも残酷であった。


東洋は、実父亡きあとの己を厳しく、しかし誰よりも深く愛して育ててくれた「第二の父」であった。それだけではない。この男は、暗愚な日本において、はるか未来の国家を見据えていた「土佐の、いや日本の貴重な知恵」そのものであったのだ。その至高の頭脳が、目先の狂熱に狂った刺客どもの独善的な刃によって、一瞬にして、無残に奪い去られた。


「おのれ……おのれ、狂犬どもめ……!」

抱きしめた遺体から伝わる冷たさが、象二郎の絶望を、一瞬にして激しい「怒り」と「殺意」へと沸騰させた。涙は雨に洗われ、その瞳の奥には、地獄の業火のような冷徹な復讐の炎が燃え上がった。


(先生……! 先生の目指した『富国強兵』は、この私が必ず引き継ぐ。私が天下に証明してみせる!)


(そして先生……! 先生を殺した奴らを、私は絶対に許さぬ。一人残らず、地獄へ叩き落としてやる!特にお前だ武市半平太!お前は必ず殺す!)


偉大なる遺志の継承と冷徹なる復讐の誓いと。二つの巨大な宿命を背負い、後藤象二郎という怪物が、漆黒の雨の中で真の覚醒を遂げたのであった。


(第三章に続く)

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