第3話普通だった世界
その日、神代湊は珍しく予定を早く終えていた。
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空いた時間。
それはこの世界では希少だ。
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管理された社会では、“余白”は効率が悪い。
だから本来、存在しない。
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それでも今日だけは違った。
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神代は施設を出る。
街へ向かう。
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夕方の都市は静かだった。
高層建築。均一な照明。整った歩行動線。
何も問題はない。
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だが。
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“問題がないこと”そのものが、少しだけ気持ち悪い。
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その感覚に名前はまだない。
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広場のベンチに、一ノ瀬梨沙がいた。
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「珍しいね」
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神代が近づくと、梨沙は少し笑う。
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「湊の方が珍しい」
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隣に座る。
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沈黙。
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しかし今日は、その沈黙が少しだけ重い。
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「最近、変だよ」
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梨沙が先に言う。
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「何が」
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「湊」
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即答できない。
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梨沙は視線を前に向けたまま続ける。
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「考えてるでしょ」
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神代は答えない。
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答えないことが、肯定になっていた。
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「……あの男?」
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その一言で、空気が止まる。
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神代は初めて聞く。
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「知ってるのか」
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梨沙は小さく頷く。
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「噂になってる」
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「“昔の世界から来た男”」
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神代は少し黙る。
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そして言う。
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「普通だったらしい」
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梨沙は笑わない。
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「それ、怖いね」
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怖い。
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その感情を、この世界で聞くことは少ない。
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危険は管理されている。
混乱も制御されている。
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だから人は、“怖がる必要”がない。
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「何が怖い」
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神代が聞く。
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梨沙はゆっくり答える。
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「比べられること」
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その言葉で、神代は少しだけ理解する。
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この世界は完成している。
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だが“比較対象”が現れた瞬間、完成ではなくなる。
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梨沙は続ける。
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「湊」
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「もしさ」
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少しだけ迷う。
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「もし、昔の世界に生まれてたら」
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「今みたいに生きてたと思う?」
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答えられない。
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神代の中には、比較する基準が存在しない。
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だが今だけは違う。
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1980年の男が持ってきた。
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“別の普通”を。
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広場を歩く女性たちが、神代に気づく。
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視線が集まる。
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一人。
また一人。
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その空気が広がっていく。
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神代は立ち上がる。
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「行く」
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梨沙は止めない。
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ただ、小さく言う。
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「ねえ」
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神代が振り向く。
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梨沙は少しだけ苦しそうな顔をしていた。
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「湊はさ」
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「“人”として見られたこと、ある?」
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言葉が出ない。
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視線。
期待。
適合。
価値。
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それらは知っている。
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だが、“人として見る”という意味が分からない。
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梨沙は笑おうとする。
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でも少し失敗する。
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「ごめん」
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「変なこと聞いた」
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神代は何も言えない。
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遠くで警告音が鳴る。
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夜間移動制御。
いつもの音。
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だが今日は、それが少しだけ冷たく聞こえた。
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帰宅途中。
神代はガラスに映る自分を見る。
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そこにいるのは、男だった。
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だが、それ以上ではない。
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「人として」
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小さく呟く。
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その意味だけが、まだ分からない。
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(第2章 第3話・終)




