第2話逃走未満
移送まで、残り十二時間。
---
その数字だけが、頭から離れなかった。
---
神代湊は眠れないまま朝を迎えていた。
---
窓の外。
都市は正常に動いている。
---
誰も止まらない。
誰も疑わない。
---
世界は、神代が壊れかけていることなど知らないまま回っている。
---
---
端末には移送手順が並んでいる。
---
【指定時刻まで待機】
【自発的同行を推奨】
【精神安定維持を優先】
---
---
“自発的”。
---
その言葉が妙に気持ち悪い。
---
選択肢がない状態での同意。
---
それは従属だ。
---
---
通知音。
---
短いメッセージ。
---
『外に出て』
---
送り主は、一ノ瀬梨沙。
---
---
神代はしばらく画面を見る。
---
行く意味はない。
---
逃げられるわけでもない。
---
未来は変わらない。
---
それでも。
---
気づけば、部屋を出ていた。
---
---
待ち合わせ場所は、都市外縁の歩道橋だった。
---
朝の光。
風。
静かな交通音。
---
そこに、梨沙がいる。
---
---
「来たね」
---
神代は頷く。
---
梨沙はしばらく何も言わない。
---
ただ、神代の顔を見る。
---
そして小さく言う。
---
「ひどい顔」
---
---
神代は少し笑う。
---
「そうかも」
---
---
その返答に、梨沙が少し驚く。
---
今までの神代なら、そんな風に返さなかった。
---
---
しばらく沈黙。
---
やがて梨沙が言う。
---
「湊」
---
「逃げる?」
---
---
神代は意味を理解するまで少し時間がかかった。
---
「……無理だ」
---
---
「うん」
---
梨沙は即答する。
---
「たぶん捕まる」
---
---
神代は少し目を細める。
---
「じゃあ意味ない」
---
---
梨沙は首を振る。
---
「意味はある」
---
---
また同じ言葉。
---
だが今度は、少しだけ分かる。
---
---
「結果じゃなくて」
---
「自分で決めたかどうか」
---
---
風が吹く。
---
梨沙の髪が揺れる。
---
---
「湊」
---
「このまま行ったら、たぶん戻ってこれない」
---
---
神代は何も言わない。
---
言い返せない。
---
地下で見た男。
---
壊れた女性。
---
あの空洞みたいな目。
---
---
自分も、ああなる。
---
その未来だけは、もう想像できてしまう。
---
---
梨沙が続ける。
---
「ねえ」
---
「一回だけでいいから」
---
---
「“誰かのため”じゃなくて、自分で決めて」
---
---
その言葉が、深く刺さる。
---
---
神代は視線を落とす。
---
今まで、自分で決めたことがあっただろうか。
---
学校。
仕事。
役割。
人生。
---
全部、“選ばれて”決まった。
---
---
「……分からない」
---
小さく呟く。
---
「何を選べばいいのか」
---
---
梨沙は少し笑う。
---
悲しそうに。
---
「最初は、逃げるでもいいんだよ」
---
---
神代は初めて、その言葉に少しだけ心が動く。
---
逃げる。
---
今まで許されなかった行為。
---
この世界では、“異常”。
---
だが。
---
“異常じゃない人間”を、最近たくさん見てきた。
---
---
1980年の男。
---
地下の男。
---
壊れた女性。
---
子供。
---
みんな、正常ではなかった。
---
でも。
---
“生きていた”。
---
---
神代は空を見る。
---
広い。
---
管理されているはずなのに、空だけは自由に見える。
---
---
その瞬間。
---
遠くで警告音が鳴る。
---
【長期管理対象:位置確認開始】
---
---
梨沙の表情が変わる。
---
「早い……!」
---
---
神代の端末が赤く点滅する。
---
【待機命令違反】
【現在位置固定開始】
---
---
世界が、“回収”しようとしてくる。
---
---
梨沙が神代の手を掴む。
---
初めてだった。
---
誰かが、役割じゃなく。
---
“神代湊”に触れた。
---
---
「走って」
---
---
その一言で。
---
神代の中の何かが、初めて決定的に壊れる。
---
---
従順。
管理。
適合。
---
全部を振り切るように。
---
神代は、生まれて初めて。
---
自分の意思で走り出した。
---
(第4章 第2話・終)




