第三十六話 外
「思っていたより傷は浅いわ」
布団に寝ているキアラの額を布で拭きながら御子神先輩は口にした。
旅館に戻り、キアラは手当を受けていた。
夜のせいで血の量が多く見えただけで、実際はそれほどでもなかったようだ。
もちろん、彼女の身体のあちこちは傷だらけだが、そのいずれも致命傷は避けていたようだ。
「意図的に血が多く出るように、それでいて長く苦しむように傷がつけてあるというか……言いにくいけれど、まるで拷問されていたかのように見えるわ……」
御子神先輩は表情を曇らせている。
「拷問?」
俺が尋ねると御子神先輩は唇を噛みしめて深く頷く。
拷問? どうして?
何故、キアラがそんな酷い目にあわなきゃいけないんだ?
腹立たしさより黒々とした感情が膨れあがりそうになる。
「あ、あのっ」
心花が慌てたような声を出してキアラと俺の顔を交互に見てくる。
「何があったんですか? この人は……」
膝をついて眠っているキアラの顔を心配そうに覗き込んだ。
「キアラだ。助け出せたんだ、ようやく。……間に合ったみたいで良かった」
「キアラ……さん……?」
俺の言葉に心花は不思議そうな顔をした。
なんだ?
俺はその表情にどこか引っかかりを覚えた。
だが何が気になったのか、自分でもわからないでいた。
御子神先輩はキアラの手当を続けながら言った。
「拷問のような傷であると同時に、躊躇いや迷いがあったわ。だからこそ無駄が多いともいうのか……誰がどうやったのかは知らないけれど素人なのは間違いないでしょうね」
部屋の隅で壁によりすがり疲れた顔をしていた冬彦が口を挟む。
「きっと沙耶夏だ。俺がやらないのであれば、あいつがやるしかないからな」
俺はそんな彼の言葉が気になった。
「あいつが? 何故お前たちはキアラを攫ったんだ? 彼女に何をしようとしたんだ? 拷問とは何の話なんだ? お前がキアラを拷問する予定だったのか?」
俺の怒鳴り声を受けて冬彦は重たい表情をして俯く。
俺は立ち上がり、彼に詰め寄った。
「もういい加減に教えてくれ。これ以上、隠し通されるのはウンザリだ! この山には一体どんな秘密が隠されているんだ!」
「この、山には……」
「この山には?」
「それは……」
冬彦が戸惑いながら口を開きかけた、そのとき――
「……先輩?」
弱々しいながらも聞き覚えのある声が、はっきりと俺の耳に届いた。
俺は声のしたほうへと首を向けた。
彼女の傍に慌てて近寄り、しゃがみ込む。
「キアラ、目を覚まして――?」
「……先輩の言う通り。私は拷問めいたことをされたよ」
布団に寝たまま上半身だけ起こしたキアラは辛そうに口にした。
その言葉に俺は拳を強く握りしめる。
「……くそ、なんでこんな……」
「大丈夫、先輩、心配しないで。今はもう無事だから、大丈夫だから。私は
キアラは俺の怒りを見透かしたかのようで、俺を宥めるかのように優しく、柔らかい言葉で笑いかけてきてくれた。
キアラ。
俺は馬鹿だ。
逆にキアラに気を遣わせている。
このままでは逆に俺自身が彼女の負担になってしまう。
それは嫌だ。
苦悩する俺の横でキアラはボソボソと続けた。
「なんでこんなことをされたのか私にもわからない。あの人たちは儀式だと言っていた。これは鬼を生み出す本当の儀式だって。卵のような……失敗作だとは違うって……」
「失敗作? どういうことだ?」
俺は冬彦に向き直る。
こいつなら全ての事情を知っているはずだ。
「教えてくれ、頼むから。もうこれ以上、俺は卵の呪いで人が死ぬところは見たくないんだ」
冬彦は顔を大きく歪めて無言のまま俺を見つめてくる。
「ついでにあの春子さんの告げた約束事の意味も教えろ。もういい加減に隠すのはやめろ、探偵、お前もだ」
そう言いながら探偵に顔を向けると、あぐらをかいて座っていた彼はふっと自嘲気味に笑った。
俺は再び冬彦に向き直り言った。
「お前は俺を助けてくれた。それはつまり、この状況を打開するのに俺の力が必要だと、そう判断したからだろう! 違うのか!」
彼は壁に身を預けたまま嘆息した。
「……ずいぶん傲慢な考えだ。……が、否定するほどのものでもない。確かに、このままではどうにもならないと思った。だから俺は外に救いを求めた。……違いない、違いない……」
どこか譫言のように彼は続けると、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「……そうだな、どこから説明すればいいか」
やがて冬彦が重い口を開いた。
「まず最初に言っておこうか。前鬼と後鬼などという鬼は存在しない」
「そんな馬鹿な。じゃあ、あのゼンとコウと名乗った奴らは何なんだ」
そう俺が言うと冬彦は肩をすくめて返してくる。
「単に偽名を考えるのが面倒だっただけだろう」
「じゃあ、あいつらは一体誰なんだ」
「二人とも五鬼継家の遠縁、前鬼の子孫と呼ばれるものたちだ。コウと名乗ったものは五鬼助家……つまり秋久の家と繋がりがあったからコウと言葉をもじったのかもしれないが――」
「偽名を名付け理由なんて、どうでもいい! あいつらが鬼じゃないなら、あいつらの狙いはなんだ。どうしてキアラを攫った!」
「あいつら、というより、俺たちの目的だな。そのために、そこの女が必要だと考えたからだ」
「……そのお前たちの目的とはなんだ」
「お前たちを縛っている卵の呪いをこの世から消し去ることだ」
ここまでは俺も知っている。
春子さんが同じことを言っていたからだ。
「だがキアラも呪われている被害者だ。どうしてキアラに酷いことをするんだ!」
「…………待って、落ち着いて、猪生くん」
興奮する俺に御子神先輩が一声かける。
「猪生くんの気持ちもわかるけど、そんな風に矢継ぎ早に質問を繰り返したところで、私たちの理解も追いつかないわ」
「御子神先輩……」
俺は自分の無力さを感じて唇を噛みしめた。
そんな俺の表情を見て感じ入ることもあったのか、御子神先輩が顔を曇らせて言った。
「ごめんなさい、あなたの気持ちもわかる、わかるのよ。だけど、ここは敵陣の中央に位置する場所よ。しっかり情報を整理して、慎重に取捨選択する必要があるわ」
そうして御子神先輩は冬彦へと視線をやった。
「前鬼と後鬼は存在しないといったわね。じゃあ、どうしてそんな話が現代まで伝わっているのかしら」
俺も御子神先輩の言葉に頷いた。
「……前鬼と後鬼は存在しない、この山には、昔、修験道と土着信仰の争いがあっただけだと、そう秋久さんも言った。修験道……土着信仰……つまり何なんだ?」
俺の言葉に冬彦はヤレヤレというように身体を横に揺らして答えた。
「ものすごく簡単にいうと、仏教徒と自然を神とする信者の対立だ。結局、仏教派閥が勝って、その時に自分たちの勝利を証として残したいために役小角の前鬼・後鬼という逸話を利用したんだ」
黙り込んでいる俺をチラと見て御子神先輩が口を挟む。
「その役小角という人物は実在したのかしら? もし、していたとしら、そのことについて何も言わなかったの? だって自分の名前が良いように利用されたのよ?」
「……実在したとされている。とはいえ役小角は修験道を極めて広めることにこそ興味がっただけで、自分の名がその礎になるのなら問題なかったようだ」
「わからないわね。その話がどうして卵の呪いに繋がるのかしら」
それが御子神先輩の確認したかったことのようだ。
冬彦は御子神先輩から視線を逸らした。その目に薄暗い感情が宿った気がした。
彼は重く息を吐き出して話す。
「そう、あくまで修験道の名誉を残すための作り話……だが……それだけに終わらなかった。前鬼・後鬼という話をうまく作りすぎてしまったんだ」
「どういうことだ」
俺の質問に冬彦はゆっくりと頭を横に振った。
「その話を本気で信じてしまった信者がいたんだ。そのものたちは作り話であることを信じないで、前鬼と後鬼が実在したことを証明するために独自に修験道の術をねじ曲げた」
御子神先輩は大きく顔を歪めた。フゥと息をつく。
「彼らは前鬼と後鬼を作ろうとした。その執念はやがて怨嗟になり、呪いと化した。そして妄念ともいえる長い年月の結果、彼らは前鬼のまがい物を作ることに成功した。……人間を媒体にしてな……」
「よくわからないわね。わざと曖昧にして誤魔化しているでしょう。その過程を具体的に聞きたいわね。人間をどうやって鬼にするのよ」
なおもしつこく聞こうとする御子神先輩に冬彦はフンと薄暗い表情で返した。
「気持ちのいい話じゃないぞ。従わせやすい弱い人間……主に病気に冒されたり初潮を向かえたばかりの女を攫ってきては、犯して身ごもらせた上、その胎内に、信者たちの鬼の存在を信じる感情を呪詛として注いでいく作業だ」
「それは……」
「なんだ、もっと具体的に話してほしいのか? ずいぶん好奇心旺盛な女だ」
冬彦のからかうような声に御子神先輩は蒼白な顔で黙り込んだ。
惨い話というものじゃない。
人を人と思っていない行為だ。
同時に俺は春子さんたちの背後にいた恨めしそうな白い影を思い出す。
あれは儀式と称して蹂躙された女たちの霊だったのか。
「まさかキアラにも同じことをしようとしたのか!」
「……」
冬彦は沈黙した。双眸に迷いがある。
ぐっと吐き気がこみ上げてきた。
もしそうなら、キアラは――
「大丈夫、先輩。私は平気。そういうことじゃない。なんか違うと思う。そういう目的じゃなくて、その、どちらかといえば苦しめる目的で私の身体に傷をつけていた気がする。していた側も幼い女の子だったから色々不慣れな部分もあった感じだったけど……」
慌てたキアラが付け足してくる。
独り善がりの思い込みに恥ずかしくなった。
ただ惨たらしいことをされていたことに変わりはない。
「嫌なことを口にさせてごめん、キアラ」
恥じ入りながらそう言うとキアラは弱々しく笑んだ。
「いいの、気にしてないから。大丈夫だから。私のほうこそ気を遣わせてごめん」
御子神先輩が考え込みながら言う。
「でも、希久本さんのされていたことが無関係なわけないでしょう。実際、その辺りはどうなのよ……いいえ、こう質問したほうがいいかしら」
御子神先輩は探偵へと首を向けた。
「――で、今までの話に、どうあなたが絡んでくるのかしら」
挑戦的な目つきで御子神先輩が言う。
「黙り込んでいないで、なんとか言ったらどうかしら、探偵さん」
「言ってもいいんだが、話している暇はなさそうだ」
「――え?」
御子神先輩は探偵の言葉にキョトンとした顔をする。
探偵は閉じられた窓側のカーテンを少しだけ開けて外の様子を眺めていた。
なんだ?
外に何があるんだ?
その時、電話が鳴った。
旅館の内線電話だ。
みんな、怪訝そうな顔で電話を見つめている。
ぞわっと嫌な予感がする。
どうしてこのタイミングで?
「俺が電話を取る」
ゴクリと唾を飲み込みながら俺は受話器に手をかけた。
「君か。意外ですな。一応、君がリーダー的存在ってことなんすかね、ああ、じゃあ冬彦に伝えてくれます? 出ておいでなさい。今なら許してあげるから、俺とお話をしましょうぜ。そう、大事なお話をね」
「はあ? なにを――?」
「ああ、じゃあこういう風に言ったほうがいいですか? 外を見なさいな」
何の話だ?
俺は受話器を置くと、さっき探偵がやっていたように窓のほうに近づき、カーテンを開けてみる。
窓の外には、揺らめく松明を掲げた大量の鬼が蠢いていた。




