第十五話 スコップ
御子神先輩だ!
俺は先輩のもとに駆け寄る。
――先輩に迷惑をかけないようにしなきゃ。
――だから俺、ひとりでここまで来たのに。
その気持ちより先輩に会えた喜びが上回ってしまう。
すぐそこに先輩がいる。
彼女がいれば、ここから出られるかもしれない!
そして慶助も助けることができる!
俺とキアラを助けてくれたのだから!
「御子神先輩!」
俺の呼び声に気付き肩を動かしたのか、彼女の髪の毛が緩やかに動いた。
「来てくれた……んですね」
そういえば御子神先輩は異変を察知できるみたいだ。
美咲のときだって、気付けば先輩は現場にいたのだから。
慶助の卵が(かえ)たのなら先輩ほどの力があるなら気付くことができるのだろう。
なら俺がどれだけ慶助のことを隠そうと無意味だろうな。
――結局、先輩に迷惑をかけてしまった。
自分のふがいなさに自然と俯いてしまう。
「閉じ込められたみたいね」
先輩に話しかけられて、はっと顔を持ち上げる。
「すみません、また迷惑をかけました。あれだけ忠告されたのに」
「そうね」
前を向いたまま先輩は淡々と返事してくれる。
俺の勝手な行動を気にしていない態度に少しだけ安堵した。
――ゲロゲロ。
蛙が鳴いた。
ぞわっと寒気が走る。
「……今の何?」
御子神先輩の質問に俺はブンブンと首を横に振る。
「何でもないです。早く慶助を捜しに行きましょう」
そう言いながら俺は浮かんだ一つの考えが気になって仕方なかった。
どうして蛙が鳴いたんだ?
怪異なら周りに幾らでもあるのに。
何故、御子神先輩と会ったタイミングで?
この蛙は怪異を教えてくれるという、清流院探偵の言葉が嘘だったのか?
あのおっさん、嘘ばかりついていたし、言動が怪しかったしな。
そう思い込もうとして、どこか腑に落ちない自分がいる。
このタイミングで蛙が鳴いたことに意味があるんじゃないか?
蛙の鳴き声を無視するのはまずいんじゃ?
戸惑う俺を気にせず、先輩は前に進み始めた。
「さあ、行きましょう。私の後をついてきて」
先輩の言葉に頷きながら、俺は言われるがままに後に続く。
ガタガタとガラスを叩くような物音、視界の隅に悪意を持って入り込むような人影、足元を濡らす血だまり、彼女はこんな異様な状況であるにも関わらず、平然と進んでいく。
やっぱり、こういう怪異現象に慣れているんだな。
しかし、どこに向かおうとしているんだ、先輩は?
いつもの先輩なら俺を叱りながらも、もう少し状況説明をしてくれそうなのに。
先輩の存在に頼もしさを感じながらも頭の隅に引っかかるような強い違和感がある。
「あの……」
沈黙に耐えきれずに俺はたまらず話しかける。
「慶助が……あの……」
隠していた後ろめたさで言葉にならない、が。
「わかっているわ。慶助が危ないのでしょう?」
あっさりと先輩は俺の心配を代弁してくれる。
「これから助けに行くんですよね」
ほっとしながら俺が言うと。
「そうね」
何の感情も籠もっていない簡潔な言葉が返ってくる。
先輩、慶助のことが心配じゃないのか?
もしかしたら美咲と同じように殺されるかもしれないのに。
それなのに先輩の足取りはゆったりしたものだ。
早く慶助を捜しにいかないといけないのに!
「先輩、急がなくていいんですか?」
「そうね」
先輩の足取りは変わらない。
ふわふわとした動きのまま、前に進んでいる。
先輩?
一体、何を考えているんだ?
嫌な予感は膨れあがるばかりだ。
こうして二人きりで薄暗い廊下を歩いていると、どこまでも続いていく廊下、時間を刻むことを忘れてしまったかのような空間に放り出されたような感覚に陥る。
「先輩、どこに行くんですか? 慶助のいる場所ですか?」
「そうね」
「もう少しで慶助のいるところに辿り着けるんですか?」
「そうね」
「いつ辿りつけるんですか?」
「そうね」
「……本当に慶助のもとに行こうとしているんですよね?」
「そうね」
「こんなにゆっくり歩いて……間に合うんですよね?」
「そうね」
「どこに慶助がいるんですか?」
「そうね」
同じ返事ばかりする先輩に猜疑心が膨れあがってくる。
先輩は一体何を考えているんだ?
自分ひとりで解決するつもりでだったから必要以上に先輩を頼っちゃいけないのはわかっている。
都合よく先輩を利用する自分に嫌気がさしながらも、同時に先輩に不信感を抱く。
このまま先輩に従ったままで大丈夫なのか?
焦燥感に促されるように俺は先輩に話しかけようとして――
――先輩の髪の毛に付着した白い塊に気付いた。
何だあれ?
いつも艶やかな光沢をした髪の毛だからこそ異様に白い異物が目立つ。
「先輩、髪の毛に何かついています」
そう俺が言うと先輩が前を向いたまま髪の毛を揺らした。立ち止まる。
「え? 取ってくれる?」
「はい」
こんなことをしている時間はないんだけどな、慶助のこともあるし。
しかし女性の髪の毛を触るなんて緊張するな。
俺は先輩の髪にそっと手を伸ばし、白い固形物を摘んだ。
何だ、これ。
俺はそれを凝視した。
卵の殻? 片側が黒い?
何故、先輩の髪の毛にこんなものが?
「あの、先輩……」
「取ってくれたの? ありがとう」
「いえ、取るには取ったんです……けど……」
何故、卵の殻が?
「どうしたの? 何がついていたの?」
「それは……」
何と答えていいかわからない。
卵の殻が気になって、そっちばかりに気をやってしまう。
「猪生くん、教えて? 何を取ってくれたの?
先輩が喋るたびに彼女の吐息が頭にかかる。
くすぐったさと恥ずかしさを感じてしまい、思わず俯いた。
――そのとき、ありえない事実に気付いた。
待てよ。
どうして御子神先輩の足先が前を向いているんだ。
どうして俺はさっきから御子神先輩の吐息を頭の上から感じているんだ?
先輩はどういう体勢を?
どれだけ彼女は上半身をねじ曲げて――?
ブチュ、ブチュと音がした。
脂肪のような物体がねじ切れて肉汁が滴り落ちるような、そんな嫌な匂いと鉄さびの臭みに、くらりと目眩がする。
そう、まるで人がありえないほど身体をねじ曲げたことで上半身が千切れかけているような――そんな幻覚を。
顔を上げては駄目だ。
俺が気付いたと、悟られては駄目だ。
この状況は異常だと。
この御子神先輩はおかしいと。
そう、俺が気付いてしまったと彼女に悟られては駄目だ。
逃げ腰になろうとして、ここに来た目的を思い出す。
「……あ」
早く慶助のもとに行かなければ。
でなければ殺されてしまう。
だから俺は、こんなところで立ち止まるわけにはいかない!
意を決して俺は呼びかける。
「先輩」
「なぁに?」
「……」
甘たるい声音に血の臭いが混じる。
間違えるな。
ここが正念場だ。
どう声をかけるかで全てが決まる。
そう、一声で相手が何なのか判断できたる上で怯むような言葉を選ぶんだ。
「榛名と呼んだほうがいいのか?」
ハァと笑う気配がした。黒くあざ笑うような響きだった。
俺は強く床を蹴った。
先輩の横を駆け抜ける。
あれは先輩じゃない!
先輩の形をした何かだ!
もうここは慶助の恐怖を具現化した世界と化している。
何故、学校なのか。
どうして化け物が御子神先輩の形なのか。
考えることはたくさんあるけれど――
「私の先を歩かないで。だってあなたにはその資格がないんだもの」
そう、声をかけられた瞬間だった。
戻された。
走った分どころか、ずっと後ろの位置まで移動させられたのだ。
まるで瞬間移動したかのようだ。
感覚がおかしくなってしまいそうだ。
立っていられなくなり、俺は膝を床につけた。
御子神先輩の形をした化け物を睨みつける。
化け物は上半身だけ捻り、顔をこちらに向けて、長い髪の毛を垂れ流しにしながら、後ろ歩きをするような不自然な動作でこちらに向かってくる。
表情は長い髪の毛に隠れてわからない。ただ不気味に唇を歪めて嗤っているのはわかった。
ゆっくりと、ゆっくりと。
重く引きずるような足取りで、長い時間かけて、俺に恐怖を与え、いたぶらんとするかのように。
――ビチャリビチャリと音がする。
化け物が動くたびに肉がねじ切れるような不快感のある音が聞こえてくる。
長い髪の毛を引きずる音に混じるそれが何なのか、わかりたくもなかった。
這いつくばりながらも、相手の様子を窺う。
ポケットに手を突っ込んだ。
バクバクと心臓がうるさい。
いい加減黙れよ、それどころじゃないんだ。
こいつがここにいるということは。
卵から孵ったであろう化け物が、俺の目の前にいるってことは。
まだ慶助は無事なんだ!
立ち上がった。
踏ん張るようにして床を蹴る。
跳躍するかのように前に進む。
お前なんて怖くない!
俺はガチャポンケースの蓋を弛めると、ケースごと蛙を化け物に投げつけた!
ゲロ、と蛙は鳴いた。
あんぐりと口を開けて長く赤い舌が異常なほど伸びる。
一瞬だった。
蛙の舌は化け物を巻き付け捕まえると、口の中へと運んでいく。
蛙の胃袋に入りきらないはずの化け物を呑み込んでいったのだ。
――ゲロ、と蛙は鳴いた。
まるでお腹がいっぱいだと主張するかのように。
俺は力の抜けた身体を引きずるようにして蛙に近づくとガチャポンケースに仕舞った。
「やった」
自然に乾いた笑いが出てくる。
「はは、やった! 勝ったぞ!」
そう乾いた笑みを浮かべたとき、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が聞こえた。
喉の奥から絞り出すような、まさに断末魔と表現できる醜い声音だった。
慶助の悲鳴?
何で!
化け物は、ずっと俺が引きつけていたはずじゃないか!
目眩が酷くなる。
ぐわんぐわんと耳鳴りすらしてくる。
耐えられなくなり、しゃがみこんだ俺は身体を丸める。
――気付くと、俺は廃墟の戸の前に座り込んでいた。
ここ、は?
少なくとも学校ではない。
さっきまでいた異様な空間ではないようだ。
――あれから、どれくらい時間がたった?
凄まじい疲労感に吐き気すらこみ上げながらも俺は時計を確認する。
目を見開いた。
俺が廃墟に到着してから二時間が経過していた。
携帯電話を確認すると弟や両親から着信がきていた。
もう深夜に近い。
でも俺は慶助の安否を確かめないと。
――音がする。
土が削られるような音が、すぐ近くからする。
向こうの庭だ。
俺は音のしたほうに、ゆっくり近づいた。
「……慶助……?」
そう俺が呼びかけると、
「よーう、義忠!」
大きなスコップを持って泥だらけの慶助が笑いかけてくる。
「何だよ、そんなに慌ててさ!」
「慶助、よかった、無事だったんだな」
安堵した俺を嗤うかのように、ゲロゲロと蛙が鳴いた。




