第十話 ピグマリオン
慶助が見せたのは卵だった。
慶助の身長と同じくらい成長していた。
純白色の殻には衣類を纏っていない御子神先輩の肢体が薄墨色で艶やかに刻み込まれている。
先輩は俺のほうに手を差し伸べて誘うように微笑んでいる。
だけど、その笑顔は全然先輩らしくない。
下品なグラビア雑誌の表紙のような、駅のホームにあるゴミ箱に投げ捨てられてしまいそうな、そんな安っぽさだ。
キアラみたいに自分で描いたものじゃないということは一目でわかった。
何だよ、これ。
何なんだよ!
美咲の卵とはかなり違う、美咲のは彼女のトラウマ、夕焼けの空を表したかのように真っ赤だった。
どうして卵の模様が御子神先輩の裸なんだ?
不幸中の幸いなことに、まだ表面は黒く変色していない。
だけど、ここまで成長しきってしまったのなら果たしていつまでもつか。
「何で、こんなに大きくなっているんだ」
ようやく俺はそれだけ口にする。
震える俺の姿とは裏腹に、慶助は自信満々に胸を反らしながら言った。
「祥子先輩の愛の深さゆえ、だっつーの!」
祥子先輩? 愛?
こいつ、何を言っているんだ?
今、どんな状態なのか、わかっているのか?
「何を言っているんだよ、卵が大きくなってんだぞ?」
「それで?」
「それでって……慶助……卵が孵ったら死んでしまうかもしれないんだぞ、美咲のように!」
今でも目を閉じれば美咲の無惨な姿を思い出すことができる。
必死になって喚く俺を慶助は冷めた目で見つめている。
「……義忠、俺はがっかりだ。全くお前は表面上のものしか見てねーんだな」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ、こいつ?
「見ろよ、この卵。すっげえきれーな祥子先輩の姿だろ? まさしく俺の理想を体現したかのようなリアルな造形だ。この二の腕も太股もスベスベしててさ、水を弾くような滑らかさでさ、俺、本当にもう……」
慶助は卵に自分の頬をくっつけて何度も顔を左右に揺らす。
「最近は家に帰るのが楽しみで、ずっと卵を眺めて一日を過ごしてもいいくらいでさ」
祥子先輩の身体に抱きつくように卵に片足を絡ませる。
「ほら、祥子先輩、俺に向かって笑ってくれているんだぜ。こんな柔らかくて、とろけそうな顔でさ。この祥子先輩は、俺に何を語りかけたいのかな。やっぱり俺のこと好きなのかな。夜、この姿を前にすると、本当にたまんねーの。何度でも、何度でも、俺は……」
やめろよ。
慶助、何を言っているんだよ。
祥子先輩を穢すようなことを言うのはやめろよ。
でも口に出せない。
ハクハクと嫌な呼吸を繰り返すばかりで。
ただ俺は慶助を眺めていることしかできない。
そんな俺を無視して慶助は自分の世界に入ってしまったようだ。
ただ自分の思うように喋り続けている。
「最初は、こんなちっちゃかったのにさ、毎日、徐々に大きくなるんだよ。一気に大きくなったのは最近の話だけどさ」
一気に大きくなっただって?
じゃあ前まで慶助の卵は小さいままだったっていうのか。
最近、慶助の身に何が起こったっていうのか?
慶助が怖がるような出来事があったってのか?
「こんな巨大なものが……慶助に付きまとっているのか?」
そう俺が言うと慶助は肩を揺らして笑う。
「あ? 義忠の心配は大丈夫だぜ。俺がこいつを捨てないことを、こいつもわかっているのか、学校までついてこねーよ。ずっと物置の中で、俺のことを待っているんだ」
慶助は手を広げて卵に抱きついた。
「むしろ俺が学校サボって、早く卵に会いたいくらいなんだ」
恐怖心で卵は育つはずだ。
だけど目の前の慶助は状況に怖がっているように見えない。
強がりで、本当は怖がっているのか?
ぎり、と奥歯を噛みしめながら言った。
「……卵が育っていたなんて……俺には慶助がそんなに怖がっていたようには思えなかったから……気付かなくてごめん」
「それなんだけど……この卵は本当に恐怖心を糧にしているのかねえ?」
まさか俺の考えが間違っていたってのか。
慶助の言葉に、はっとした俺の顔を見ながら慶助はクツクツと笑った。
「だから謝る必要はねーよ。正直、俺は一連の騒ぎに恐怖なんて感じちゃいねーし」
「じゃあなんで――」
慶助の卵は、そんなに巨大に膨れあがっているんだ?
どうして御子神先輩の裸なんだ?
「それなのに――?」
喉はからからだ。
徐々に前のめりになる俺を慶助は面白がっている。
「義忠の推測が間違っているんだろ。この卵は恐怖心で育たない。別の何かを栄養としているんだ」
別の何か、だって?
恐怖心じゃない?
慶助の何を栄養としているんだ?
どうすれば、こんな御子神先輩の裸なんてものが模様になるんだ?
わけがわからない!
頭をかきむしりたい衝動を必死に堪えながら俺は慶助を睨みつけた。
「ま、そんなにがっかりすんなよ。俺は一人でも何とかなるって」
慶助は卵を撫でながら言う。
「俺なりに調べたんだ。解呪の手がかりは、あの廃墟にある。あの廃墟に入り込んだ、よそ者が呪いにかかる。最初からあそこに住んでいた人間は呪いにかかっていない。あそこの老婆とは呪いとは無関係の何者かに殺されている。もしかしたら、その事件が呪いと関係あるのかもしれない。だから廃墟の住人の持ち物から解呪の手がかりを見つけ出せる可能性が高い」
慶助は興奮している。
ぎらぎらした目で卵に描かれた御子神先輩を見つめている。
「俺だけが気付いた事実だ! 祥子先輩みたいに霊能力はないけれど、俺だってできることがある!」
何を言っているんだ。
もう少しで卵から化け物が孵るかもしれないのに。
「御子神先輩に相談したほうが……」
そう言う俺に慶助は目を見開き、怒鳴った。
「何で祥子先輩に相談するんだ? 意味わかんねーよ!」
びくりとする俺を見て、慌てて慶助は取り繕うように薄笑いを浮かべる。
「怒鳴ってごめん、へへ」
後頭部をかきながら慶助は舌を出す。
「でも俺なら平気だっつーの」
平気なわけないだろう!
いつもの慶助の表情であるはずなのに今はとても不安に感じる。
あまりにチグハグで、強い違和感がある。
「何を根拠にそんなこと言えるんだ?」
ようやく俺はそれだけ口にする。
「根拠なんて必要あるのかよ? 俺だぜ? このタイミングで活躍しないと俺の存在は一体何なんだ? きっとこの機会は神様が俺に与えてくれたチャンスなんだ」
慶助は大きく両腕を広げて空に掲げた。
「俺は特別になれる」
陶酔しきった目で卵と俺を交互に見つめてくる。
「いいや、もう特別なんだぜ」
慶助。
おかしいよ、慶助。
俺は彼に何を言えばいいんだ?
だが同時に俺は。
彼に対して既視感を覚え始めていた。
どうして慶助がこんなにおかしくなったのか。
どうして彼の姿に共感すら覚えているのか。
その正体を確認したくて、俺は必死で質問する。
「何が……特別なんだよ。意味がわからない。一体、何のチャンスだっていうんだ?」
「どうして意味がわからねーんだよ」
心底、俺を馬鹿にするような目で慶助が見つめてくる。
その瞳の冷たさに、俺はぞっとした。
「このままじゃ祥子先輩は俺のことを好きにならない」
慶助は卵に拳を叩きつける。
鈍い音に俺は身をすくませた。
慶助はニタリとした笑みで言う。
「ここで俺が先輩の手を借りずに解呪すれば、先輩だって俺のことを見直すだろ。そこでようやく俺は祥子先輩と同じ立ち位置になれるんだ」
ああ。
慶助の言葉に絶望する。
どうして俺が既視感と共感を覚えるのか、わかったからだ。
俺は必死になって慶助に語りかける。
徐々に冷めていく心とは裏腹に声を強くしながら。
「そんなの……どうやってすぐに解呪するっていうんだ? もう時間なんて残されてないだろ。なあ、頑張ろうとするお前の気持ちはわからないけど」
――本当はわかっているくせに。
「大人しく御子神先輩の力を借りよう。先輩なら何とかしてくれるかもしれない。慶助だけじゃ何もできない」
――よく言うよ。
――俺も、何もできないと知っていても一人で呪いを何とかしようとしていたくせに。
「……今なら間に合うかもしれない。俺も手伝うから」
「義忠の協力なんていらねーっつーの。自分で何とかしてこそ祥子先輩に惚れられるチャンスだろ?」
――そう、協力なんていらない。自分で呪いを潰してみせる。
慶助の返答に頷く自分がいる。
「それと間に合う、間に合わねーとか余計な心配だって。今夜、もう一度俺は廃墟に侵入して、解呪のための手がかりを探す予定だ。ネットで企画されている2回目の廃墟探索は、まだもう少し先になりそうだしな」
「慶助……一人であの廃墟に行くってのか? 危険だ、やめとけよ」
――そんな風に忠告されても聞く耳持たなかったくせに。
「そんな心配するなって、大丈夫だって。何とかなるって。俺だって、この呪いの謎を解明したい気持ちは変わらねーんだからよ。俺でもできることはあるはずだって」
――そう、大丈夫だ。何とかなる。気持ちさえあれば、できることはあるはずだ。
あれは今までの俺だ。
何もできないくせに根拠もなく動こうとして。
御子神先輩に忠告されているのに聞こうともしないで。
「なあ、義忠も期待しとけよ。俺、ぜってー、見事に解呪してみせっからよ。あー、もし解呪できたら祥子先輩、俺のこと何て言うかねー? さすがだわ、慶助。見直したわ。私の結婚相手にふさわしいわ、なんてなー」
――ああ、気持ち悪い。
そんなことを言う権利は俺にはない。
だって今の慶助は、かつての俺なんだから。
俺にできることはない。
今の慶助を説得する言葉なんて持たない。
俺は、俺ですらどうにもできないのに。
こんな醜い自分の姿を見せられても、それでも慶助を助けられないか模索している俺なんだから。
――慶助を助けたい。
その気持ちはあるはずなのに、どうしてだかうまくいかない。
「俺も……」
廃墟探索に付き合うよ。慶助を放っておけないから。
そう言おうとして。
――お願い、猪生くん。私の邪魔をしないで。勝手なことをしないで。危険に巻き込まれないようにして。できるだけ安全な場所にいてくれる?
御子神先輩の言葉がぞわっと思い浮かんだ。
ああ、ああ。
今、ここで思い出さなくてもいいじゃないか。
必死に俺を心配する先輩の表情が鮮やかに浮かぶ。
御子神先輩の言葉が呪いのようだ。
慶助の怪訝そうな瞳に何も言えなくなる。
「――もう、俺、帰るよ」
それだけ言い残して、俺は立ち去るしかなかった。
「いいか、このことは俺たちの秘密だぜ。ぜってー祥子先輩に言うなよ!」
そう慶助は言っていたけど。
このまま何も先輩に言わないままで慶助を放置したら。
俺の脳裏に、身体が折れ曲がった美咲の姿が浮かび上がる。
――美咲のように死んでしまう。
それだけは絶対に避けなければいけない。
でも、どうやって?
御子神先輩に言えば、慶助は助かるのか?
俺も何とかしたい。
安全な場所で何も行動しないなんて――。
先輩は俺に危険な目に遭って欲しくないって。
グルグルと同じことを考えながら歩いているので、足取りは重い。
自分自身を引きずるようにして自宅に着く。
奇跡のような解決策が出てくるわけもなく俺はどんよりとした気持ちのまま靴を脱いで。
「兄さん、帰ったんだね。待ちくたびれたよー」
秀義に声をかけられて俺はのっそりと顔を持ち上げる。
「酷い顔。客人に会う前に顔を洗ったほうがいいよ」
眉根を寄せて言う秀義に俺は首を傾げて答える。
「客人? 誰に?」
「僕は目の前の兄さんに話しかけているんだけど? 他に誰かいる?」
俺に客人だって?
「客人って誰だよ」
そう俺が訊くと秀義は首を捻りながら答える。
「桐嶋美咲? っていう子の親戚? その子の名前は母さんも知っているみたいだったから家に上がってもらったんだ」
桐嶋美咲だって?
彼女の親戚が俺に何の用事があるってんだ?
「どこに?」
「居間にいるよー」
秀義に礼を言い、俺は急いで靴を脱ぐと居間に向かう。
息を荒げながら襖をあけたその先には。
「よう、坊主。また会ったな」




