終幕
〜未明、大樹〜
星の光も通さなかった分厚い雲は、とうとう雨を降らせ始めた。遠くで低い雷鳴がし、目を覚ました女は不安げにその身を掻き抱いた。
不意に暖かさが増して、女は抱き締められていることに気付く。背中から回されたのは、幾千万の夜に夢見た、懐かしい腕だった。
「……泣くな」
愛しむ言葉を口にした途端、男は苦しそうに顔を歪めた。女はそれを見て幸せそうに微笑む。自分への愛情が男の身を焼いているのだと、男の心が変わっていないのだと、その喜びが女を癒したのだ。
女は男の手を取り、かつてのように自身の首筋へと促した。触れられたところが熱いのは、迸る血潮か、男の熱か。
「……随分と、汚されたのだな」
不機嫌な声は独占欲の表れだ。それすらも女を悦ばせ、できたばかりの傷を癒していく。
「笑うのも巧くなった」
「……嫉妬?」
「……魔の者として、間違ってはいない」
人の時間にしておよそ千五百年ぶりに味わう、幸せな苦痛。過ぎた時間を取り戻すかのように、二人は必死でそれを貪った。
先に限界を迎えたのは、女だった。
堕天したことで聖なる眷属が持つ肉体の頑強さは薄れ、穢れに晒され続けた魂もまた疲弊していた。
「本当はね……もっと穢れを溜めて、悪魔になろうと思ったのよ。そうすれば、ずっと一緒に居られるでしょう?」
腕の中で薄れ逝く女に向けて、男は魔の眷属とは信じがたいほどの慈愛に満ちた笑みを溢した。
「お前は阿呆か。悪魔が愛し合うなど、一瞬で消滅するぞ」
「あぁ……そっか……」
青ざめた唇に最期の口付けを落とし、血の紅で鮮やかに彩る。女の瞳は、もう何も映していないのだろう。だからこそ、闇色は一層深く男を惹き付けた。
「もう……眠れ。私も、すぐ逝く……」
「うん……」
闇色が、閉ざされる。
力をなくした女の体を抱き締めて、男は己を破滅させる、一番伝えたかった言葉を口にした。
「……愛している」
魂を引きちぎられるような痛みが男を襲う。
自分が朧になっていくのに、腕の中の女は輪郭を取り戻していく。だがもう、その女にも触れられない。
幕を引いたはずなのに、すべてが茶番だったとでも言うのか。この愛のために待った年月は、無駄だったのか。知る術を持たず、男は散っていく。
──霧雨の夜明けに、狂った笑い声が響いていた。
「言ったでしょう? 『君を愛した魂があれば戻れる』って」
女の背に生え揃った翼を執拗に撫で、金髪の男はまた狂ったように笑いながら女を抱いて飛び去った。