第34話 さよなら
少しきしんで、扉が内側に開く。俺と雨は静かに中に入り、息を飲んだ。
ステンドグラスが真っ赤に染まっている。
ペンキで汚された下の方だけでなく、真ん中の女神のような白い姿にも赤が飛び散っている。そして強烈に血生臭い。
その原因はあれだ。
上から何かかぶら下がっている。それからずっと赤い液体が滴り落ちている。
「……人だ……!」
はじめ何だかわからなかった。しかしよく見るとそれは人のようだった。それも、2人、全裸だ。
ひとつは男だろうか。片足を吊られ、手をだらりと頭の両側に垂らして、ぴくりとも動かない。吊られていない方の足は腿から切断されているようだ。首の角度がおかしい。もしかしたら、半分切り離されている。細く血が流れている。
もうひとつは女。こちらも片足を吊られ、片足を切断されている。こちらも手を頭の両側に垂らしていたが、手が少し動いた。
「……」
言葉にならない声が口のようなところから漏れる。顔は半分だけ皮膚が残っているが、半分は剥かれて赤黒く影に沈んでいる。しかしその目が必死にこちらを向いているように見えた。
もう俺の視覚が情報に追いつかない。見ているのにわからない。
また唸るような音がして吊り下げている細い紐状のものがきしみ、垂れ下がったパーマのかかった髪が揺れた。
生きてる。
俺は助けに行くより、恐ろしさに後ずさった。
何でまた、ここで、こんな。
「おはよう」
声がしてはっとする。前の方の椅子に、識司さんが座っていた。半分血に染まった顔をこちらに向けて、識司さんはいつもののんびりした笑顔で笑った。
「どうしたの、俺に何か用?」
「識司さん、大丈夫、ケガは」
俺は震える声を絞り出した。あの塊が識司さんでなくて良かった、でも、ここに居合わせてしまったのなら、識司さんも襲われているかもしれない。
俺は震えながら前に進んだ。識司さんだけでも助けないと。
「黒栖君、そこまで。それ以上こっちに来ないで」
ちょうど通り過ぎようとして手を置いた長椅子の背もたれに、とん、と何かが刺さった。鉄の棒だ。
俺はぎょっとして周囲を警戒した。
「識司さん、誰かいる、逃げて!」
「誰もいないよ。俺は何ともないから、黒栖君は帰りなよ。こんなの見てたって仕方ないだろ」
識司さんはのんびり笑っている。何だかわからない。
「思ったより面白くなかったよ。このためだけにこれまで生きてきたのに」
識司さんがつまらなそうに手にしたおもちゃの銃のようなものを塊に向けた。おそらくここに刺さっているのと同じ鉄の棒が塊に打ち込まれ、紐がきしみ、塊が低い唸り声をあげた。
「識司さん……」
雨が俺に掴まりながら小さく叫んだ。識司さんは振り返り、顔を曇らせた。
「雨さんも来たのか。ごめんね、こんなもの見せたくはなかったんだけど、あれが逃げちゃいそうだったから。黒栖君、雨さんに見せないであげてよ」
識司さんは手慰みに鉄の棒を打ち込みながら雨を気遣う。俺の前で何が起こっているのか理解できない。
「識司さん、誰かにやられたんじゃ、ないの……」
「俺だよ」
識司さんは血に染まったステンドグラスの前で笑った。
「俺、って……」
俺は絶句した。俺に掴まった雨が震えている。俺と雨だけが現実で、他は全部幻みたいだ。
血塗れの床に足が2本無造作に投げ捨てられている。その横に落ちている斧で足を切ったのか。こうしてただあると、もう人の足だということがわからない。表面は血でぬめぬめとしていて、そこにステンドグラスの光が七色に跳ねる。
識司さんが立ち上がった。識司さんは確かにケガはないようだ。それは良かったけれど、立ち上がったため見えた識司さんの全身は、先ほどの言葉を裏付けるように血だらけだった。
「これには見張りをつけておいたのに、抜け出してさ。明け方、親族会議も終わった頃に気付いて、逃げられたらたまらないから焦ったよ。そしたら、原田君がこっちに来るのを見つけてね。つけたら、大当りだ。こんなところで密会とは、なかなか最後まで俺をバカにしてくれる」
識司さんは俺に何かを放り投げた。思わず受け取ると、識司さんは同じようにもう一度何かを放り投げた。慌ててそれも受け止める。
俺の手には少し重い美しい鍵がふたつ。
「鍵はあれも持っていたんだ。だから、黒栖君が鍵を持っていても中にペンキを撒けたんだよ。俺も知らなかった」
変だな、と思うことは度々あったんだよ、と識司さんがまた棒を撃つ。塊はぐうと呻いて紐をきしませた。
「すぐに逃げたら俺も間に合わなかったのに、ここで、この通り、ゆっくりくつろぎ始めたからさ。まあ後生だから少し待ってあげたけどね」
識司さんは楽しそうにふふ、と笑った。
「2人の左足が揃う瞬間を待っている時が楽しかったかな。一気に斧で落として、でも一瞬過ぎて、ノコギリにすれば良かったって後悔した」
だからこれで少し憂さを晴らしてるんだよ、と識司さんはまた鉄の棒を撃った。
「男はだめだね、弱いんだ。足を切っただけですぐ瀕死だ。仕方ないから首を切って楽にさせてあげたんだよ。まあご褒美だよ、原田君は俺を一番怖がってくれたから」
識司さんがまた我慢できないように肩を揺らす。
「原田君は警戒心が強くて、平野が死んだのは俺のせいだと思っていた。当たりだよ、毎年タイヤ交換の度に平野の車のタイヤのボルトをひとつだけ緩めておいたんだ。4年かかったよ。小西君も一緒に死んだんだっけ。この辺の人はみんな自分でタイヤ交換するから、過失になったけどね。原田君の車にもしてたんだけど、車自体に乗るのをやめて、すごいなって思ってたんだ。ここでは車がないと想像以上に不便だから。だからすぐに楽にさせたよ、原田君にそこまでの恨みはないからね」
また鉄の棒が発射された。
「やめて!」
雨の悲鳴と吊り下げられた肉塊の咆哮が重なる。識司さんは雨の声を妨げた塊に苛立ったように腹の辺りを蹴った。肉塊は大きく揺れ、血を迸らせ、雨は俺にしがみついた。動かなくなった塊も揺れたが、もうそちらには何の反応もない。
「やめて、識司さん、やめて、お願い」
「雨さん。見るのがつらいなら、出て行って。俺の、やっと辿り着けた楽しみを邪魔しないで」
識司さんが笑う。紐はぎしぎしきしみながら次第におさまり、じきにまた静かに肉を吊り下げていた。
「俺の父がね、こうして首を吊って揺れてたんだよ。苦しんで死んだんじゃないといいけど。そうするまで、どんなにか苦しかっただろうから」
識司さんはまた塊の腹部を蹴った。俺は震えて泣いている雨の頭をかばうように抱きしめた。
紐のきしみは大きく、小さく、さっきと同じようにおさまっていく。雨の小さな泣き声だけが礼拝堂に響く。もう蹴られた塊は動かない。
つまらなそうにそれを眺めていた識司さんが突然激昂した。
「何だよ、もう少し頑張れよ、俺はここまで、これだけを楽しみにしてきたんだぞ!」
腹と言わず顔と言わず、ポケットに手を突っ込んだままの識司さんが塊を蹴りまくる。やめてと懇願する雨と俺の声は最早届かなかった。
ごごう、と肉塊の喉から音がすると識司さんははしゃいでいるといっていいくらい喜んだ。
「そうだ、そうこなくちゃ!」
すぐに銃型のクロスボウで鉄の棒を撃ち込む。肉の塊が揺れ、識司さんがまた蹴り、塊は紐を中心にしてくるくると回転した。識司さんが何の屈託もなく声をあげて笑う。
やめて、と雨が泣いている。俺も声を振り絞ったが、識司さんを止めることができない。
「順子はね、大嫌いだったけど、可愛かったよ。赤ん坊から育てたんだ。やっぱり情は移ったよ。だから、悲しませたくなくて、一番に殺したんだ。駅に送る前に、水がほしいって言ったから」
中村君のことは本当に知らなかった。同じ思いをさせたのはすまないと思うよ。識司さんは微笑んだ。
「東京に行くからって、おしゃれをしてね。首を絞めながら、こんなに大きくなったんだな、って思ったよ」
識司さんか両手を見る。その手は吊られた2人の血で真っ赤だ。
「明美も、変わってしまったけれど、散々苦労して相手をしてきた妹だ。結婚に失敗して、あれにそそのかされて男遊びをしてみたようだけど、俺の妹が、あんな不器用な子が上手く立ち回れるはずがないんだ。坂部さんの二代目と不倫して、苦しんでいた。祭りの打ち上げの席でのことを知って、俺に相談してきたんだ。それで、あの川原に呼び出して」
識司さんはまたふふ、と笑った。雨を抱きしめながら俺も震えていた。目の前にいるのが識司さんだと思えなかった。
「うちの酒をね、美味しいって飲んでたよ。あの酒は所詮水の味なんだ。突き落としたら川に突っ込んで、すぐに動かなくなった。美味しい地元の水を存分に飲めて、心残りはないだろう」
吊られた肉塊がごう、と息を漏らす。識司さんはまたそれを蹴り、回転させて笑った。
「野辺さんはついでだよ、熱をあげているホステスを順子と同じに目に合わせようか、って電話しただけなんだ。彼女はどうせ来月幼馴染と結婚するために故郷に帰るけどね」
すぐに切られたね、あれはちょっと楽しかった。識司さんは回転に飽きたのか、蹴り上げるようにした。塊が不規則に揺れる。
「全てお前を苦しませるためだよ、お前はちっとも気付かなかったけどな。雨さんが来たのは誤算だ、巻き込むつもりはなかった。こんなものを見せたくなかった。優しい人なんだ、きっと悲しんでしまうから。これにそんな価値はないんだ。順子と明美、平野、原田、小西、そしてお前と俺を足しても雨さんの足に及ばない。お前も償えないんだ。せめて苦しめ」
識司さんは落ちていた血塗れの斧をとり、迷いなく振り下ろした。斧は塊に食い込み、塊を止めた。腰から、背骨の手前まで。乳房に刃が食い込んでいる。識司さんはもっと斧を振るいたかったらしく、食い込んだ斧を抜こうとしたが、びくびく痙攣する肉から斧は抜けなかった。仕方なさそうに斧を諦め、識司さんは肉を蹴り、斧が食い込んだままの塊にクロスボウをどんどん撃った。確かにもう命はもたなそうだった。
この肉が、識司さんの全ての恨みをぶつけられているこれが、誉茉子さんだ。
「識司さん、やめて、お願い」
雨が護符を握り締める。雨が心を込めて一晩かけて書いた識司さんを守るための護符は、識司さんに届かない。
「お願い、識司さん」
識司さんは不意にそっと雨を振り返った。狂ったように回り、血を撒き散らしながら揺れる肉を背に、場違いなほど優しく微笑む。
「雨さん。あなたにまた会えて、本当に嬉しかった。俺のことは忘れて。あなたはどうか、幸せになって。俺の望みを、どうか、叶えて」
紐のきしみが小さくなっていく。誉茉子さんは遂に命を失い、ただの肉になったようだった。
「識司さん」
雨が泣きながら呼びかける。俺も呼んだ。
雨がいなくては生きていけないのは、識司さんの方だったんだ。
識司さんは血塗れのステンドグラスの前にゆらりと立った。そして足元の缶を蹴った。
血とは別の強いにおい。油だ。
「本当はね、一番許せないのはこの人じゃない。俺なんだ」
識司さんが笑う。
「雨さんに怪我をさせて、置き去りにして、その上こんなに長く雨さんの時間を奪った。最後まで泣かせて、悲しい思いをさせた。一番苦しめて殺したい」
俺はぎくりとした。振り返ると全ての椅子の下にポリタンクが置いてある。
「でもね、自分をどうやって苦しめて殺したらいいのかわからないんだ。だから、こうして死ぬけれど、許さなくていい。ただ、お願いだ。どうか幸せになってくれ。黒栖君、雨さんを幸せにしてあげてくれ。そばにいて、大事にしてあげてくれ。頼むよ」
そして識司さんは俺にクロスボウを向けた。
「さよなら」
止めたかったが、近付いたら識司さんは躊躇なく撃つだろう。その覚悟は俺にも雨にも伝わった。俺は雨を強引に引っ張った。
礼拝堂の扉を出る間際、識司さんがクロスボウを投げ捨てるのが見えた。俺は咄嗟に雨を突き飛ばし、扉の中へ飛び込もうとした。
しかし、投げ捨てられたクロスボウから火花が散る方が早かった。火花は揮発した油に引火し、缶に燃え移って缶の中身を激しく噴射させ、火柱になった。火柱は次々に椅子の下のポリタンクを巻き込み、熱せられて噴出した油は火柱となり、ポリタンクは耐えられず爆発した。
俺は扉ごと吹っ飛ばされて礼拝堂の外に転がった。もうだめだ。俺は駆け寄ってきた雨を抱き上げて走り、礼拝堂から離れた木の影に身を寄せた。
木立の間の道に人の気配がする。俺は雨をかばいながら、近付くなと叫んだ。その時、礼拝堂からどん、と地を揺するような大きな音がした。
ああ。俺は雨を抱きしめた。雨も俺にしがみついた。
礼拝堂が燃えている。時折中から爆発するような音がする。立ち尽くす有澤家の親族の前で、礼拝堂の屋根が崩れ落ちた。
炎は収まらない。熱い。こんなに離れているのに。
呆然と礼拝堂が燃えるのを見つめる人々の足元で、俺は雨を抱きしめた。
消防車のサイレンが聞こえてきたのは、それからしばらくしてからのことだった。




