最終話 第34話 燕
俺は雪の前で途方に暮れた。
「ほら、消えてないでしょう。除雪していなかったところまで消えるのはもう少し先ですよ」
車から降りて雨が笑う。道路は乾いているのに、目の前は真っ白だ。だって街は日陰の雪も消えたから、もう大丈夫だと思ったんだもん。
せっかく来たんだし、行くだけ行ってみる、と俺は雪の中を強行してすぐ後悔した。ぬかる、という奴だ。雪は重いし、ざくざくだし、靴に入ってきた。冷たい。しかし戻っても同じだと思い直して進む。
あれからもうそろそろ2年だ。あんなに怖くて悲しい思いをしたのが嘘みたいに、今日も晴れて暖かい。
俺は目印の木に到着し、見当をつけた辺りの雪を足で払った。後ろで雨がちょっと、黒栖!と怒っている。大丈夫、上の雪だけだから。
小さな石碑の天辺が見えてきたので、俺は表面だけ、もちろん手で雪を払った。まわりはまだ雪深いので、そこだけ穴を掘ったようになる。俺はそこに四合瓶を入れた。有澤酒造の白鷹山だ。今年も結城さん曰く、最高傑作だそうだ。
「嫌いなんだもんね、識司さん」
亡くなった人はもう文句も言えない。俺からの嫌がらせだ。
識司さんの遺骨は雨が引き取り、2人が住んでいたこの街に連れてきた。識司さんの実家も、有澤家も雨が引き取ることに何も言わなかった。厄介ごとを避けたいようだった。雨は2人がよく散歩したという川原が見える小さな霊園に、識司さんのお墓を作った。識司さんもこっちの方がのんびりできると思う。
不意にあの穏やかな笑顔を思い出して涙が出そうになった。いけない、雨も泣いてないのに。
俺は大きく息を吐き、笑顔を作った。今日はとっておきの報告があるのだ。
「理恵さんと文明さんに赤ちゃんが生まれてね、見に行ってくるよ」
石碑はもちろん何も言わないが、識司さんが聞いていたら喜ぶだろう。俺は満足して雪の中を戻った。
「大丈夫ですか」
「靴ぐしょぐしょ」
雨が笑いだす。
「いい靴の方履いてくるんじゃなかったよ」
俺はぼやきながら、何かあった時用に車に積んでいた靴と靴下に履き替えた。雨は無理するからですよ、と笑っている。
「だってこういうことはちゃんと報告しないと」
あれ以来、あちらに行くのは初めてだ。俺の提案した旅行プランはどうなっただろう。殺人事件があったということで、色々うやむやになってしまった。大して自信のあるプランでもなかったから放置している。そんなこともあってまだ町には行きにくいのだが、理恵さんがその隣の市にある地方の中核病院に入院していて、今ならむしろ会いやすいからと呼んでくれた。そんなにすぐでは迷惑ではないかと一度は断ったのだが、母子共にとても元気だし、何より理恵さんが雨に会いたいのだという。
「私たちの式に来てもらって以来ですね」
雨も嬉しそうだ。昨日だいぶ張り切って護符を書いていた。雨の護符はお金を出してもなかなか買えないそうだから、いいおみやげになるだろう。他にも雨は山のように赤ちゃん用の何かを買い込んでいた。荷物持ちをさせられた俺は大変だった。
ふと見ると雨が何かを手のひらに乗せて眺めている。焼けた金属。
「それ……」
「うん、そう、識司さんを火葬したときに出てきたって、黒栖が持って帰ってくれたあれです」
火葬場の職員の人が、体の中から出てきたものではないかと言っていた。あの時はもうめちゃくちゃだったから、てっきり缶が破裂した時の金属片か、そんな感じのものかと思っていたが。
「カプセルだったんです。昨日、何となく触っていたら急に開いて」
雨は中の白い破片を見せた。
「何?これ」
「確かではないけれど、おそらく骨です」
俺は破片をまじまじと見た。乾いた貝の殻のような、これ、骨か。
「多分、私の。私の左足です」
「えっ」
雨はカプセルを閉じ、大切そうに首から下げたペンダントにしまった。その中には分骨した識司さんの遺骨が入っている。
「識司さんもきっと同じようにしていたんです。そばにいられるように」
雨がペンダントをそっと握る。そんな雨を見ているとやっぱり正直、面白くはない。だから、そんな時は、いつでもどこでも抱きしめることにしている。俺の気持ちも落ち着くし、雨も俺が嫉妬してしまいそうになっていることに気付いてくれるから。
雨も抱きしめ返してくれたので、俺は安心して離れた。敵うとか敵わないとかじゃない。こういうものだともう納得して結婚したんだ。でなければできなかった。
「好きよ、黒栖」
雨が言葉にして言ってくれた。俺は嬉しくなって、でも恥ずかしいので俺も、と横着したら、怒られた。雨、好きだよ、と言うと雨は納得した。ご機嫌が直ったようなので良かった。
可愛い、大事な俺の妻。
あの時、全て終わって、帰る時に改めてプロポーズの返事を聞いた。
できません、ごめんなさい。雨は断った。
あの時は識司さんがこういう亡くなり方をしたからもう結婚なんか考えられないと断られた。次はお墓を守っていくからと断られ、その次はもう諦めて他にいい人を見つけて、と断られた。その次も同じ断られ方だったか。
しかし俺は粘った。識司さんのことはもういい、それはそれ、これはこれ。俺はその時の壊れそうな雨をずっと支えたし、雨も必死な俺に寄り添ってくれた。あの時は俺たちのものだ。そして、雨が俺を好きでいてくれるなら。
最後はよく2人が待ち合わせをしていたという駅のステンドグラスの前で片膝をつき、指輪を差し出した。恥ずかしかったが、もう何の力でも借りたかった。さすがに雨も陥落した。
頑張って指輪の借金を返して良かった。雨は年上の花嫁なんてと恥ずかしがったが、結婚式も小さいながらちゃんとできて良かった。結城さんは見事な謡を唄ってくれたし、両親も泣いて喜んでくれた。姉はともかく、健司にものすごく尊敬された。
何より、花嫁衣装の雨はとても、とてもきれいだった。
その時は俺も本当に識司さんに見せたいと思った。一番喜んだはずだから。
雪はたくさん残っているが、日差しがあると暖かい。外にいるのが気持ちいい季節になってきたなあ。
「あっ」
雨が空を仰いだ。指差す先に、燕が弧を描いている。
川原から飛んできたのだろうか。燕が来た。春が来たのだ。ここに来たなら、あの町にも、きっともうすぐ。
素早い飛翔を雨が眩しそうに見つめる。俺はその雨を見る。白い髪がきらきらと桜色のワンピースに舞い散る。
雨が輝くような優しい笑顔で俺を見た。
「では、行きましょうか」
俺はうなずいて雨の手を握った。




