第32話 魔女の心は決まったか
「俺と結婚してください」
雨はぽかんとした。大きな目を丸くして、驚くというより呆気に取られたような顔だった。
俺は雨の手を握り返した。雨は慌てて手を引こうとした。俺は逃さず、手を握ったまま雨を見つめた。雨の表情が次第に困惑に変わっていく。
「何を言っているの?それは、もういいんですよ。私と識司さんはちゃんと別れたんですから」
「もちろん、識司さんに言われたからじゃないよ」
「じゃあ何故?今話したでしょう、聞いていませんでしたか?」
困惑し過ぎて雨の口調は少し苛立ったように棘を含んだ。
「聞いてたよ、そこにいた男の人が見る目がなかったおかげで雨がひとりでいてくれて本当に良かったって話だろ」
そうじゃないです、と雨が俺の手を無理に振り解く。
「私は結婚は無理です、何もできません」
「俺はそういうことをしてもらいたくて結婚したいんじゃないよ。でも、だから俺にも経済的には期待しないでほしいんだけど」
「この前会ったばかりですよ。お互い何も知らないのに」
「身分証に書いてあるくらいのことは知ってるよ。他には何が知りたい?学歴?年収?」
年収と言われたら危なかったが、雨はうんうんうなって考えた挙句好きな食べ物と言った。そんなことを聞いてどうするんだろうと思いながら俺はコロッケと答えた。雨はコロッケ、と復唱したが話は特に広がらなかった。それはそうだろう。雨はたまごといちごでしょ、と俺が言うと雨は驚いていた。そんなのはすぐにわかるよ。
「他にわからないことがあれば聞いて、答えるから。俺も知りたいことがあったら聞くよ。そうやって知っていけばいいよ」
「でも、だめ、そんな、どうして私?だって黒栖より年上だし、白髪だし、片足だし、黒栖にもっと似合う素敵な女の人なんてたくさんいるのに」
動揺を隠せず雨がうろたえる。俺はもう一度雨の手を握り、おろおろと揺れる雨の目をしっかり見つめた。
「雨、あなたはすごく素敵だよ。雨、あなたがいいんだ。俺と結婚してください」
雨が俺の視線から逃れようと目を伏せる。俺はそんな雨を全部見ている。
「俺がいやなら、諦めるよ」
雨がはっと顔をあげた。泣き出しそうな目。
「いやじゃない、けど、でも」
それなら、どうか。俺は雨を抱きしめた。
震えている。いやなのか聞いたら、雨はいやではないと答えた。しかし、怖い、と呟いた。
性急すぎたかと少し離れると、雨の方から俺を追いかけて身を委ねた。
「雨」
雨は私、子供を産めないの、と顔を上げずに言った。俺はああ、わかった、と答えた。
「そんな簡単に……ほしくなったらどうするの。私を捨てるの」
「そんなことしないよ、いないならいないでいいよ。雨と2人でも俺は全然かまわないよ」
雨は顔をあげ、潤んだ目で、もっと考えて、一生のことなのよ、と強く言った。何と言われても俺は雨がいてくれればいいとしか答えられない。それが俺の一番の望みなのだから。
「雨、あなたとずっと一緒にいたい」
もう一度雨を抱き寄せると、雨はもう抵抗しなかった。しかし、何も言ってくれなかった。
「雨、返事は今じゃなくていい。でも、どうか考えてみて」
そう言うと雨はようやく小さくうなずいてくれた。
その夜はなかなか眠れなかった。小さな物音で目が覚めてしまう。隣の部屋の雨も同じようで、俺が眠れずに起きると向こうでも物音がしていた。
明日は午前中葬儀屋さんが来るし、午後からは有澤酒造で会社の引き渡しが行われる。俺は関係ないけれど、だからといってお世話になっていながら寝ている訳にもいくまい。
早く寝ないと、と思っているうちに窓の外が明るくなってきた。俺は2日続けての夜明けを眺め、やはりここの朝はきれいだなと思う。
空の色がみるみる変わっていく。今日は霧がない。遠くの山がくっきり見え、朝日に照らされた雪の白さと影の濃さが山の厳しさを浮かび上がらせる。あの雪がいつかここの酒になるのだろう。
日がどんどん世界を照らす。鳥の鳴き声が賑やかになる。俺は雀と烏くらいしかわからないが、ここには違う鳥もたくさんいそうだ。よく聞いていると、聞いたことのない鳴き声が聞こえる。
音がして見ると、母屋から識司さんが外に出たところだった。会社にはまだ早いから、また礼拝堂に行くのかな。
ぼんやり外を眺めていると、隣の襖が静かに開いた。
明らかに音がしないように気を付けた開閉音に、俺はふと息を殺した。雨だ。歩き方もいつもと違う。俺を起こさないようにしているのだろうか。俺に内緒でどこに行こうとしているのだろう。
俺は急いで着替え、上着はペンキに塗れて捨ててしまったので薄着のまま、静かに雨の後を追った。
外に出ると雨は早足になった。俺は道を少し離れ、木立の中を歩いた。もう雨がどこへ向かっているのかわかった。いやな気持ちがわきあがってくる。それを振り切るように俺は足を早めた。足元は悪いが、雨の足に遅れるほどにはならない。少しずつ距離を詰める。
慌てていてかぶる間もなかったのか、フードで覆われていない雨の白い髪が、時折差し込む日にきらきら輝く。雨は周囲には全く気を配らず、ひたすら先に行ったであろう人を追いかけた。
「識司さん」
礼拝堂まで至らず、木立の間の道の中ほどで雨は識司さんにやっと声が届くところまで追いついた。呼ばれた識司さんは驚いたようだった。待ち合わせたのではなかったのだろうか。
識司さんが戻ってきたので、俺は慌てて木の影に隠れた。
「雨さん、おはよう、どうしたの、こんなところで」
立ち話にしては少し離れて、識司さんが雨に話しかける。雨が息を切らせながら今気付いたようにおろおろして、いきなりごめんなさい、と謝った。
「何かあったの?」
「あの、あの、私」
雨が真っ赤な頬で必死に識司さんに何か言おうとしている。俺は雨が何か言ってしまう前にさらってしまいたくなった。雨、昨日はもう別れたって言ったのに。怒りなのか恐怖なのか、その他の感情なのかわからない。とにかく足が震えた。
「私、黒栖に、本当に結婚を申し込まれて」
雨が泣き出しそうな顔で識司さんを見る。識司さんは驚いたような笑っているような顔をした。
「へえ、本当に?」
「はい、それで、私、どうしていいかわからなくて、誰かに相談したくて」
「それで俺のところに来ちゃったの?」
識司さんが困ったように笑い出した。雨がごめんなさいと繰り返す。
俺の足の震えが止まった。気持ちもすぐに軽くなった。何だ、雨らしいや。でも帰ったらお説教ですからね。
「雨さんはどうしたいの?」
「わからないんです、私、自分がどうしたいか考えられないの。黒栖が困るんじゃないかなとか、いやだろうなとか、そんなことは考えるのに」
雨、それって。俺が思わず木の影から出ようとすると、識司さんか雨に見えないように手で俺を制した。気付かれていた。
「じゃ、占ってみたらいいよ」
雨は怯えたように身を引き、ふるふると首を横に振った。
「だめ、もし私と運命が重なるなら見えないし、そうじゃなかったら、もし黒栖のこの先が見えてしまったら、私」
雨は困惑して小さく叫び、はっと顔を上げた。
「答えは出たんじゃない?」
識司さんがのんびり笑う。雨は両手で頬を押さえて立ち尽くした。
「良かった、雨さん、俺これで本当に心配ごとがなくなったよ。ありがとう」
識司さんがちらりと俺を見る。あの、してやったりって顔。識司さんには感謝しかないけど、腹立つなあ。
「寒いから早く戻るんだよ。風邪ひかないでね」
識司さんがまた笑って、背を向けた。礼拝堂に向かうのだろう。雨はその姿を見えなくなるまで見送り、元来た道を戻り始めた。
俺は急いで先回りをして寮に戻り、雨が玄関をくぐるのを何とか自室で確認した。
雨の普段通りの足音が隣の部屋に入り、襖が普段通りにとん、と閉まる。少し物音がしていたが、すぐに隣は静かになった。
雨。顔を合わせるのが待ち遠しい。あなたはどんな顔で、俺を見てくれるだろう。
午前中訪ねてくれた女性の葬儀屋さんは、俺を上から下まで見て、突然肩の辺りと腰の辺りをばんばん叩くと、このくらいでしょうと専用のバッグを取り出した。もう中に一式入っているらしい。靴はサイズを言うとぴかぴかのを出してくれた。隣なので終わったら置いておけば取りに来てくれるそうだ。便利だ。買うよりもちろん安かったし。俺の喪服は買わないで、もうこれでいいな。
念のため葬儀屋さんが帰ってから試着してみたが、ぴったりだった。すごいな。もうこのまま出しておこう。
雨はあれから寝たのか、まだ起きてこない。もう昼だ。窓の外は少しずつ来客のような人も増えてきた。
識司さんはこれからどうするのだろう。楽隠居みたいなことを言っていたから会社を売ったお金でそうするのかと思ったら、文明さんの考えでは、お金は殆ど従業員に配ってしまったのではないかということだった。文明さんが特別たくさんもらった可能性もゼロではないが、家を取り壊したりしたら幾らも残らないのではないかと社員の中で噂になっているくらいなので、やはりみんなそう思うくらいもらったんだろう、ではやはり楽をするほどのお金はないのではないか。
文明さんと理恵さんは引っ越し先と聞いている場所を見に行ってみたそうだ。ごく普通のアパートだと言っていた。
識司さんは今、誉茉子さんが一切合切家財を運び去った家で暮らしている。持ち出した家財は全て処分されたらしい。誉茉子さんも今は家にいる。今日は特に見張りが強化されているはずだ。
ここ2日、社員が必ず常駐して誉茉子さんを見張っているが、誰も識司さんが引っ越しの準備をしているのを見たことがない。文明さんの手伝いの申し出も、そんなにかからないからと断られたそうだ。
順子さんの死がやはりショックで、もう何もかもいやになってしまったのではないか。打ち上げの席であんな風に言ってはいたけれど、それでも折々の行事ごとには識司さんが参加していたり、その時に順子さんが危険なことをしようとしたら叱って止めたりと、そんな姿を見ていた人も地域の中には大勢いた。文明さんもそう思う、と言っていた。だからみんな心配している。
今朝見た識司さんはいつもと変わりないようだった。娘が亡くなったのに。会社も人の手に渡るのに。雨も、もう識司さんに頼らないで歩き出したのに。
識司さんには何が残り、これからどう生きていくのだろう。
式事が終わったようだ。
晴れやかな空の下、人々が事務所の玄関から出てきて、それを数人の人で見送りをしている。あの髪を後ろに束ねた女性が新しい社長だろう。誉茉子さんの写真で見たのと同じスーツだ。識司さんの姿はない。
俺は今日はなるべくおとなしくしていた。この寮も識司さんの管轄外になったのだ、こんな日はいつ誰が来るかわからない。それでも寝ていられる雨の度胸はある意味すごい。
夕方あたり、理恵さんか文明さんが来るだろうか。もう来ないだろうか。わからないが、来たらプロポーズしたことを伝えようか。指輪はまだ渡せていないけれど。
雨、きっと、受けてくれるよね。収入もないし、家事もそんなにできないし、年下で頼りないし、人に見せたくなるほどカッコよくないし、収入は本当にないし、お金はないし。
……受けないかな。こんな男からプロポーズされたら迷惑だな。俺なら断るな。だめか。やっぱりだめなのか。
ひとりでいると考えても仕方ないことばかり考えてしまう。早く雨に会いたい。
しばらくするとまた会社の外に人が出てきた。作業着の人たちだ。社内向けの挨拶なども終わり、今休みになっているという製造部の職人さんたちが帰宅するのだろうか。
よく見ていると結城さんがいた。文明さんと理恵さんもいる。その他にも何人かこちらに向かって来たので、俺は急いで食堂に向かった。
「こんにちは。黒栖さんいますか」
文明さんだ。はい、と返事をして出ると、俺を見るなり理恵さんが叫んだ。
「うわ、すごい頭!」
ペンキを落としてからばりばりの髪がうまくおさまらないのだ。寝癖であちこちになっているのが、濡らしたけれど直らない。結城さんが笑って、理恵坊、これが男の勲章よ、なんて言っている。
あがってもらおうと思ったが椅子が足りないからいいと断られた。
「魔女さんはいねえのかい。こいつらがどうしても絶世の美人を拝みたいらしくてよ」
後ろの人たちが照れた笑顔で会釈した。それは申し訳ない。
「すみません、ちょっとまだ寝てるんです」
「何だ、まだ具合が悪いのか」
俺は迷ったが、思い切って言った。
「昨日プロポーズしたから、夜眠れなかったみたいで」
おお、と感嘆の声があがる。
「でも、まだ返事はもらえてないんです」
「もともと蓮野さんからプロポーズされていたんでしょう」
文明さんがそれならもう決まったようなものでしょう、と言ってくれたが、俺は首を振った。
「それは一度なかったことになって、改めて俺から申し込んだんです。だから、どうなるかわからない」
俺の緊張がみんなに伝わったかのようにしんとする。その沈黙を結城さんが破る。
「クロ、しゃんとしろ。お前なら大丈夫だ。きっと魔女さんを幸せにしてやれるさ」
「結城さん」
結城さんが笑う。ここにいる人たち、もっとたくさんの人たちをまとめてきた結城さんが俺をそう言ってくれた。大丈夫な気がしてきた。雨を幸せにできそうな気がしてきた。
俺も不安だったんだ。雨の一生に俺が関わっていいのか、雨を幸せにできるか自信がなくて。
でも、少しだけ自信がついた。俺はここで結城さんに認めてもらえた。何より、それよりたくさんの責任を負ってきた、しかも元の彼氏の識司さんにも認めてもらえたじゃないか。
「黒栖さん、これからが大変です。マリッジブルーは無闇に面倒です」
「フミ、脅かすようなこと言うんじゃねえや。クロが震えあがっちまうぞ」
経験者が語り、俺の気の小さいのをもうわかっている結城さんがたしなめる。いつバレたのだろう。やはり人を見る目がある。
結城さんは後ろの人たちに、魔女さん拝観は明日だな、と声をかけた。後ろの人たちもうなずく。
「噂の婚約者さんが見られたし、プロポーズのことも聞けたから十分です」
「そうだ、昨日もすごかったんだってなクロ」
結城さんが思い出したように俺の肩をたたく。力が強い。
「あの門はな、俺の小せえ時からあるもんだ。その頃から残っているもんはもう本当に少なくなっちまって、あれがひどい目にあっていたら俺はやり切れなかっただろう。守ってくれてありがとよ」
そんなつもりはなかったのだが、そう言ってもらえると嬉しい。
「じゃあまた明日頼むぜ。おう、行くぞ」
「黒須さん、雨ちゃんによろしくね!」
迎えに来てくれる時間を告げてから、理恵さんが言う。初めて名前で呼ばれた。遂に理恵さんにも認められたか。よくわからないけれど。
俺は手を振ってみんなを見送り、さっきより元気になって部屋に戻った。
俺が雨の部屋の前を通りかかった時、襖がすっと開いた。
「誰か来ていましたか?」
「雨、起きてたんだ。今、結城さんたちが来てたんだよ。理恵さんも。起きてたなら呼べば良かった」
雨は今日も変わらずきれいだ。せっかく見に来た人たちに見せたかったな。
「呼ばれても行けませんでした。さっきまで護符を書いていたので」
そういえば明美さんのお葬式の時も言っていた。魔女の魔法だろうか。
「どんななの、見てもいい?」
興味がわいて頼むと、雨はだめです、ときっぱり断った。この時期に断られると実に痛い。
「使うために書いた護符は、あまり見せるようなものではないのです。後でどんなものだったか、別に書きますよ」
そういうのはいいのか。不思議なものだ。でも雨といて、俺はすっかり魔法を信じるようになった。俺がゲームやマンガで見たものとはかなり違っていたけれど。
「魔女は医者のようなものです。お医者様ほど病気を治すことはできませんが、お医者様の治せない人同士の関係や、気の持ちようなど、人が困ってきたことを改善に導く技を持っています。不思議でも何でもないですよ」
雨がこともなげに言うが、俺はやっぱり不思議だと思う。魔女のことも色々知りたいな。
「雨、ところで、あの……」
雨はためらいながら話しかけた俺を見上げ、真っ直ぐな目で言った。
「あの返事は、もう少し待って。ごめんなさい、焦らすとかではないの、でも、お葬式が終わってからにしたいんです。お願い」
本当は今すぐ聞きたい。しかし俺はわかった、とうなずいた。雨の気持ちを大切にしたい。
「少し、話してってもいい?」
やっと雨に会えたので少しでもそばにいたくて尋ねると、雨はあと何枚か護符を書きたいし、ひとりになって考えたいこともあるから、と断った。結城さんのくれた自信がすごい速さで目減りしていく。
俺は明日の予定と時間を伝えた。雨ははい、と短く答えて容赦なく襖を閉めた。立ち尽くしていても仕方ないので、俺はとぼとぼと自室に戻った。これでは出た時よりひどい。俺はすがるものもなくなって、目の前の白鷹山に祈った。
雨の返事をもらうまで、俺がもちますように。




