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それでも無価値な復讐を  作者: 今井 初飴
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第31話 魔女が笑ってくれると嬉しい


 有澤家からいらないタオルや布団をもらい、大きなビニール袋を風呂場で広げて、ペンキの専用薄め液を頭からかぶる。頭がくらくらするし目が痛い。体に悪そうな気しかしない。

 俺は文明さんに手伝ってもらいながら体についたペンキを落とした。首から下は服のおかげで無事だが、咄嗟に顔を守ろうとした手と、髪がひどい。ハゲたらどうしよう。まだ三十前なのに。もちろん顔にもついたし、意外と耳がおちない。目が痛いのと情けないので涙が止まらない。揮発しているため文明さんも同じなのだろう、男泣きに泣いている。

 誉茉子さんは取り押さえられ、有澤家に見張りをつけられて閉じ込められている。たまにはいいと思う。ペンキは俺と寮の前の舗装されたアスファルトを染めただけで、誉茉子さんが本来狙ったらしい有澤酒造の立派な木の門も暖簾も無事だった。俺はひどく感謝されたが、ペンキはとにかく乾く前に落とさないといけないそうなので俺はすぐに男性陣に捕まって風呂場に放り込まれた。

 シンナーでペンキを落としてしまうと、シンナーの染み込んだ古布は素早くビニール袋で包まれ持ち去られた。あとはよく体を洗ってください、と文明さんも風呂場を出て行く。風呂場はまだ溶剤のにおいが立ち込め、頭が痛くなるほどくさい。3回以上シャンプーで流したのにまだくさい。

 体の表面を守る油が全て流れたんじゃないかと思うくらいぱさぱさになって俺は風呂から出た。のぼせたのかシンナーに酔ったのかわからないが気持ち悪い。もう夕方だ。

 食堂には誰もいなかった。何とも言えず取り残された感じがする。

 テーブルの上にメモが置かれていた。

「明日午前中葬儀屋さんが来ます 試着してください」

 試着があるのか。丁寧な葬儀屋さんだ。

 俺はメモを手に取りふらふら部屋に戻った。

 横になりたいが、布団を敷く気力がない。机に伏せていたが、耐えられずに転がった。吐き気はないが、気持ち悪い。

 目を閉じてひたすら耐えていると、急に頭が持ち上げられた。大きな動きで頭痛が増す。うう、とうめいていると柔らかいところに収まった。さっきより頭が下がり過ぎず、首が苦しくなくなった。

 幾分楽になり薄く目を開けると、圧の強い視線が俺に注がれていた。

「雨」

「大丈夫ですか」

 気持ち悪い、と答えて体を少し動かした俺は、自分の状況を初めてそこで意識した。

 雨に膝枕されている。

 雨が上から俺をのぞき込んでいる。心配そうだ。俺はどうしていいかわからず固まった。頭の下の太腿の感触。

「つらいですか。血の流れを整える魔法はかけたのですが、呪文だけなので効き目を感じられるくらい回復するまで時間がかかるんです」

 雨が魔法の効き目を促すように、俺の頭や肩を優しく撫でる。これがもう魔法だ。雨の手が俺に触れてくれる。

 たまらなくなって俺は飛び起きた。途端に頭痛がきて頭を抱える。

「まだ起きない方が」

 雨が心配そうに俺に手を添えようとして、ふと俺の顔をのぞき込んだ。

「ごめんなさい、いやでしたか」

「そんなことない」

 俺はずきずきする頭を押さえて無理に笑った。

「そういうのは、元気な時の方がいいと思って。今だと何だかもったいないよ」

 雨が何言ってるの、と苦笑する。

「では布団を敷きましょうか」

 雨が立ちあがった。敷けるのだろうか。雨は押し入れを開け、しまうのは難しいですが、出すことくらい、と不穏なことを呟きながらおもむろに布団をまとめて引っ張った。

「待って、待っ……いてて」

 俺は急いで立ち上がろうとして頭を押さえた。急に動くと痛む。雨の力があんまりなくて良かった。布団はまだ押し入れから動かなかった。掛布団も敷布団も全部引っ張ったら、布団の雪崩が起きて雨の手になんか負えない。

 俺は結局自分で布団を敷く羽目になり、頭痛を堪えながら布団を広げた。雨は邪魔にならないよう隅で見ている。それがいちばんいい。

 せっかく敷いたので横になった。少し楽になってきた気がする。雨は隅から戻ってきて、俺の手を握った。熱を出した時にこうしていてくれたから、と笑う。

 雨といると静かな時間が多い。雨はあまりおしゃべりな方ではない。俺は今までこういう時間が苦手だと思っていたけれど、相手が雨だと苦にならないことがわかった。話すことがなければそのまま静かに隣にいればいい。

 手をつないでもらったまま、俺は少し眠った。

 それから本当に少ししか寝てないのに、腹に一撃をくらって起こされた。驚いて目を覚ますと、寝ぼけた雨も額を押さえ、辺りを見回しているところだった。この頭か。

「ごめんなさい、私、何かにぶつかったみたいですけど、何?」

「何で頭突きするの……」

「わかりません、私、寝ちゃってたんでしょうか」

 寝ちゃってたんだろう。座ったまま寝てしまって顔から落ちたのか。何故横にならないんだ。

「だって、黒栖が一緒に寝たらだめだって言ったじゃないですか」

「布団に入っちゃダメだって言ったんだよ」

「黒栖が入れたんですよ」

「あれは……俺だけど俺じゃないんだってば」

「やっぱり黒栖じゃないですか」

 雨が引かない。俺を言い負かして笑っている。仲良くなったなあ。

 気がついたらかなり気分がよくなっていた。俺は体を起こした。髪がまだ湿っている。やはりあまり時間が経っていない。魔法のおかげだろうか。それとも、あの膝枕と手のひらか。

「大丈夫ですか」

「うん。良くなった、ありがとう」

 雨は嬉しそうに微笑んだ。俺は布団から出て雨の隣に座り、机に肘をついた。雨が布団の方を向いていたのを机の方に向き直る。お互い顔を見合わせて、何となく笑った。

「黒栖、いきなり飛び出したと思ったら真っ赤になって戻ってくるんだもの。びっくりした」

「俺も。まさかペンキ浴びるとは思わなかった」

 雨がくすくす笑う。俺も笑った。笑っているうちに楽しくなって、2人で大笑いした。最後は息が切れて、2人でひっくり返って笑った。

 笑い過ぎておなかが痛い。天井を眺めながら、息が整うのを待つ。雨も同じように天井を見ている。

「……私、識司さんがいなかったらもう笑えないと思ってました」

 まだ息を弾ませながら、雨がぽつりと話し出した。

「識司さんがいなくなったら、私の世界はなくなってしまうって、本当にそう思っていました」

「うん。雨は確かにそんなだったよ」

 雨は横になったまま俺を見て笑った。

「でも、私はなくならなかったし、今、こんなに笑ってる。不思議」

 うん、と俺も笑ってうなずいた。

「雨が笑ってると嬉しいよ」

「私も、黒栖が笑うと嬉しい」

 俺は少し驚いた。そうなんだ?それならいつも笑っていようかな。雨が嬉しいなら。

 雨がまた天井を見上げる。

「識司さんが話してくれて嬉しかった。やっぱり私と識司さんはつながっていたって、わかりました。でも、戻れないんですものね。戻りたいけれど、もう無理なんです。それでも、同じ思いを持っていてくれて、嬉しかった。やっと、受け止められました」

 そうか、良かった。俺は心から思った。雨がまた泣いてしまうかもしれないと思ったが、雨は何ともいえない目はしたけれど、泣かなかった。

「黒栖がいてくれたからだと思います」

「えっ」

 雨は微笑んで、また俺を見た。

「黒栖が支えてくれると思ったから、私は識司さんの話を聞くことができたんだと思います。識司さんも、それがわかったから話してくれたんでしょう。私ひとりではきっと識司さんの話を理解できなかった。黒栖が手をつないでいてくれたから、私は識司さんと話ができました。ありがとう」

 まだ上気した顔で、雨が俺を見て俺の話をする。雨の目にはもちろんまだ悲しさも寂しさもある。しかしずっと底に澱んでいた暗さはずっと軽くなった気がする。それよりやっと明日に向かって輝き出した。悲しみながら、寂しさを抱えながら、雨はやっと歩き始めた。

 きれいだ。俺は何だか胸がいっぱいになって、顔を逸らした。眩しくて、泣いてしまいそうな顔を見られたくなくて。

 俺がそのきっかけになれたのなら、なんて幸せなんだろう。雨がこんなにきれいだ。

 その美しい雨が顔を背けたままの俺の肩に寄り添う。雨を思っている俺の心臓が跳ね上がる。

「黒栖に会えて良かった。本当にありがとう」

 人の運命なんて本当にわからないものだ。俺はここに来るまで雨に会ったこともなかったのに。このままこの人を支えて、支えてもらって、一緒に手をつないで行けたら。

 俺はぎゅっと目を瞑った。そして、声を出そうとした瞬間、雨が笑い出した。

「これじゃ私も人のこと言えませんね。浮気な女だと思いますか?」

 気勢を削がれて俺は雨を振り返った。雨は無邪気な顔をして笑っている。別れてすぐに別の男、と言ったら確かに聞こえは良くないが、十数年経っているんだから縁結びの神様も大目に見てくれるんじゃないかな。こっそり白状するなら、俺の方が前の彼女と別れてから数年と経っていない。とても雨には言えないが。

 でも、雨がそんな風に言うってことはつまり、俺のことをそうとらえてくれているとことなのかな。

 そこをもう少し聞きたかったのだが、雨は既に別のことを考えているようだった。

「識司さんの奥様は、寂しかったんでしょうか。識司さんの愛情があれば、あんなじゃなかったでしょうか」

「寂しければ何でもしていい訳じゃないし、俺は識司さんは愛情のない人だとは思わないよ。もし本当に何とかしようとしたなら、これだけ時間があったんだ、何とかなったんじゃないかな」

 そうですね、と雨は悲しそうに言った。

 今なら話を戻せるだろうか。

「雨は、その、もう誰かを好きにはならないの?」

 雨はえっ、とひどく意外そうに俺を見て、苦笑した。

「これからですか?先のことはわからないけれど、もう十分。こんなに大変なことはたくさんだわ」

 では、俺といたいのも、雨にとっては恋とは違うのか。わかっていたけれど残念な気がした。

「黒栖や理恵さんのように好きになれる人を、少しずつ探してみようと思います。他の人がこんなに優しいなんて知らなかった。怖い人もいるから気を付けるけれど」

 雨は少し首をすくめて見せた。俺もうなずいて苦笑した。あの人は怖いね。なかなかあんな人はいないけれど。

 雨はやはり俺のことが好きなんだ。理恵さんと同じように。

「……結婚したいとか、思わないの。女の人がひとりでやってくのは大変じゃない?」

「そうですね。でも、それは男の人もそうなんじゃないですか?」

 雨は言って、思い出したように笑い出した。あんまり笑っているから、どうしたの、と聞くと、雨は涙を拭きながらごめんなさい、と言って続けた。

「思い出したの。私の姉弟子のお葬式の時、せっかく集まったんだからって魔女の集まりでお見合いをしたの」

 魔女ってそんな活動もするのか。

「初めは男の人たちがすごく集まってきて、でも私が何も話さないから先輩の魔女が私のことを説明してくれたの。この子は何にもしない、掃除も、洗濯も、炊事も、飾って眺めるならごはんも食べないし両足が揃ってる分だけお人形の方が上等よ、って。そしたら」

 ひどい悪口を再現した後、雨は堪えきれないように吹き出した。

「男の人が、さーっといなくなったの!もう、波が引くみたいに、あっという間に」

 雨が楽しそうに笑う。

「その後、お相手が決まらなかった魔女でごはんを食べたんですけれど、みんなそのことですごく笑ってくれて。楽しかった」

 雨がまた俺の肩に寄ってきた。雨は気を許した人にはすぐくっつくな。

「蜘蛛の子を散らす、って言うでしょう?私、見たことがなくて、そしたら先輩魔女が見せてくれるって言うから、後からまた集まって見せてもらったら、もう……2度と見なくていいと思いました」

 詳しく聞く?と雨が悪戯そうな目を向ける。俺は苦笑して断った。言葉を聞いただけで背中がぞわぞわする。

「雨は結婚しても何もしないの」

「はい。男の人が望むようなことは何もできません。だから、識司さん以外の人と結婚はできないと思います。もう、する気もありませんし。黒栖が申し込んでくれたら、考えますけど」

 雨は俺の肩にくっついてくすくす笑った。

 俺なら。そうか。雨がそう言ってくれるならそれでいい。

 俺も笑って、少し天井を眺めた。それから大きくのびをした後、反動をつけて起きあがった。雨にも起きて、と手を差し出す。雨は少し不思議そうな顔をしたが、素直に俺の手に掴まり起き上がった。

 俺は布団をたたんで押し入れにしまった。せっかく出したのに、と雨がもったいないとでも言いたそうな声を出す。寝る時はまた出すからいい。こういうときは少しでもちゃんとしないと。

「どうしたんですか、改まって」

 雨の前にきちんと座り直した俺に、雨が笑いながら問いかけるが、俺は答えず、きちんと座ってください、と言った。雨は素直にはい、と答えて座り直し、膝の上に手を置いた。

「座りました」

「ええと」

 どう切り出そうか。雨は不思議そうに俺の言葉を待っている。ああ、やっぱり改まらずにさっきのくだけた雰囲気の中でさりげなく言ってしまうべきだったか。いやでもこういうことはけじめなんだから。けれど勢いがないと。

「まだ痛みますか?大丈夫?」

 顔をあげると目の前に雨がいた。心配そうな顔。悩み過ぎて顔をしかめたのを、また頭が痛むのかと心配してくれた。俺の手を包むように手を重ねている。笑ったり、心配そうだったり、雨の表情は次々と変化する。ひとつも見逃したくない。

 俺は深呼吸して、雨を見つめた。


「雨、俺と結婚してください」

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