第25話 俺は魔女の思いを伝えることができるか
「すごかったんですよ、奥さんの嘆きよう!」
翌朝、喪服を着た理恵さんがまたおにぎりをたくさん持ってきてくれた。急いで隠したが、実は昨日のがまだある。これはかなりがんばらないとおにぎりがどんどんたまっていくのではないだろうか。
理恵さんはおにぎりをぱくぱく食べながら、いつ咀嚼しているのかわからない勢いで昨日の通夜の様子を教えてくれた。
誉茉子さんは可愛い義妹の突然の死に泣き崩れ、多分損傷があるため早々に納められた棺にすがりついて号泣し、通夜に駆け付けた人々の涙を誘った。
対して識司さんはごくごく冷静、まるで普通だったそうだ。取り乱すでもなく、淡々と対応していた。実の兄がその冷たい態度はなんだ、と酔っ払った親戚とケンカになりかけたらしい。
雨がまた悲しそうな顔をする。
「昔、私の偏食がひどい時、よく小さい頃の妹さんを引き合いにして笑っていたのに……」
雨が赤と黄色が印象的な外資系のハンバーガー屋のポテトとシェイクが食べられるようになったのは小さい頃の明美さんのおかげらしい。ハンバーガーは食べられないのか。明美さんはそこに行きたいがために薄切り肉は食べられるが挽肉は食べられないという謎の偏食を克服したらしいのに。
他にもそういった細かい話を聞いていたら急に理恵さんが泣き出した。
昔は質素な人だったそうだ。背が高く、ずっとバレーボールのエースで、年が離れた理恵さんたちも憧れるお姉さんだった。それが実家の工場が火事になり、兄の識司さんが有澤酒造に婿入りして、自分の結婚も失敗して実家に帰り、誉茉子さんと付き合うようになったら変わったのだという。
変にひらひらした服を着はじめ、何人もの年上の男性と付き合うようになった。既婚者にも躊躇せず、いつも兄に小遣いをせびり、義姉と山を越えた県庁所在地に服を買いに行っていたという。
「でも、明美さん、本当にカッコ良かったんです。私たち日曜日に明美さんの高校まで汽車に乗って練習試合を見に行きました。明美さんはサーブもスパイクもすごくて、決まるたびに私たちは大騒ぎして」
理恵さんが泣きじゃくりながらおにぎりを食べる。
「明美さんの靴はいつも古くて、でもその繕い方が工夫してあって一番可愛くて、明美さんが私たちに気付いて手を振ってくれると嬉しくて、本当に、素敵な人だったのに」
こんな死に方、と言ったきり、理恵さんはテーブルに突っ伏した。雨が理恵さんの背中にそっと手を添える。理恵さんは一瞬雨を見上げ、声を上げて泣いた。
「私はお葬式には行けませんから、どうかこれを」
理恵さんが少し落ち着いた時、雨が小さな紙片を理恵さんに渡した。
「守りの護符です。良くないものから少しでも故人を守るはずです」
どうか隙を見て棺に挟んでください、と雨は懸命に訴えた。俺の明美さんの印象は雨がこき下ろされたあの時のものだ。手を合わせこそすれ、それ以上はない。しかし雨は違うのだろう。理恵さんも涙ながらにうなずき、その小さな紙片を大切そうに受け取った。
識司さんのお母さんはとても式には出られない状況だそうだ。詳しくはわからないが、理恵さんはそう聞き、確かに姿を見ていないという。
理恵さんは後は葬式に出るだけだが、文明さんは今日も早くから役目があるらしい。葬祭場で催すのに大変だ。
時間になり、理恵さんは雨と一緒に化粧を直して葬儀に出かけていった。雨は悲しそうに理恵さんを見送った。
その日も俺は雨の部屋にいて、雨がぽつりぽつりと話す故人と識司さんの話を聞いた。よくある兄妹の話が、故人のことと思うと悲しかった。それでも識司さんは変わらない様子でがんばっている。識司さんがまた悲しむこともできない状況になってはいないだろうか。俺たちはそれが気がかりで、しかし何もできずせめて祈った。
翌朝、俺は夜明けと同じくらいに起きた。理恵さんが来るまでまだかなり時間がある。昨日より早いくらいだ。
俺は礼拝堂に行ってみるつもりだった。早朝なら人目につきにくいし、もしかしたら識司さんが来るかもしれない。
外は寒かった。まだ薄暗く、東の空には赤みが残っている。今朝も靄が出ていた。有澤家の母屋はしんと静まりかえっている。
俺は霜柱でざくざくいう道を歩いて礼拝堂に向かった。まだ霜柱ができるのだ。防寒着を借りて良かった。俺の上着では寒くてとても外にはいられなかっただろう。歩くうちに空がみるみる明るくなっていく。光が入ると木立は白い靄が輝いて美しい。
礼拝堂にもようやく光が差していた。人の気配はない。やはり今日は来ないだろうか。
俺は礼拝堂の扉を押してみた。扉は開かなかった。俺は扉の横に立ち、待つことにした。
しばらく立っていて、俺は無理だと思って動き出した。止まっていると寒くていられない。少しでも日差しを受けながら、付近を歩くことにした。それでも寒い。
俺はカタクリを見に行った。暗くて探しにくかったが、やっと見つかったその花は蕾になっていた。あれ、この前は開いていたのに。
新しい花だろうか、と考えながら礼拝堂のまわりを歩く。裏から見たステンドグラスは、下の方がまだ赤く汚れていて、あの時のままのようだった。祭りに葬式と続いたので、片付ける暇がなかったのだろう。俺は少しでも汚れが落ちてほしいと思いながら赤い汚れを裏からなでた。無駄なことはわかってはいるのだが。
止まると寒い。俺は立ち上がり、また歩き出した。
識司さんと会ったら何を話そうか。まずこんなところで待ち伏せしたことを謝ろう。それでも雨のことを話したい。お悔やみも言わなければ。
気がつくとまわりはかなり明るくなっていた。鳥が鳴き出している。礼拝堂の壁が白く浮かび上がっていた。白い靄が少し晴れている。カタクリを見に行くと、花が開いていた。光で開くんだ。俺は自分の影が花にかからないよう気をつけながら、かがみ込んで花を見た。
遠くから足音が聞こえる。俺は気付いて立ち上がった。ざくざくと聞こえてくる足音は歩きにしては速く、もしかしたら小走りしているようだ。識司さんが?
俺は道の向こうを見た。向こうから来た人影も俺に気付いて足を止めた。
「……誰?」
そう思ったのはお互い様のようだった。木立を抜けてきたのは頬を真っ赤にした少年だった。少年は戸惑ったように俺を見て、辺りをきょろきょろ見回し、おずおずと礼拝堂の方に来た。
「おはよう」
俺はとりあえず声を掛けた。少年はおはようございます、と小声で返した。
少年は礼拝堂の扉の前に立った。並んで立って、寒いね、と言ってみたが返事はない。少年にとって明らかに俺の存在は想定外であり、邪魔そうだった。有澤家の敷地内であるこの場所に来る人は殆どないはずだから、少年の秘密基地だったんだろうか。
少年を残して歩き回るのも変かと思い、俺は少年と並んだまま朝日が木立に差し込むのを見ていた。
「あの、おじさんも順子ちゃんのお父さんと約束してるんですか」
少年が意を決したように言った。真っ赤な頬のまま、素朴そうな顔に決意を漲らせている。
「いや、俺は約束してないよ。君はしてるの」
「はい」
少年はほっとしたような顔をして前を見た。
「男と男の約束です」
「え」
まだあどけなさも残るような少年が大きく出たので、俺は困惑した。少年はそれきり唇をきゅっと引き締め、前を見据えた。確かにふわふわ年だけ取った俺より強い思いがありそうだ。
しかし俺もただ年を重ねた訳ではない。少年が俺にいてほしくなさそうなのをわかった上で、それに気付かないかのようにこのまま留まるのは年の功というものだ。俺は少年がもう俺の相手をしないのを承知しながら、寒いねとか、きれいだねとか、当たり障りのない話をぽつぽつと続けた。
そうするうちにまた足音が聞こえてきた。少年が緊張するのが伝わってくる。
識司さんは少年と俺が並んでいるので驚いたようだ。少し足を止めて、笑顔で手を振った。
「おはよう。中村君、待たせてごめんね。黒栖君はどうしたの?」
おはようございます、と中村君は大声で挨拶した。俺は出端を挫かれ、変な小声で挨拶した。識司さんはもう一度おはよう、と答えて寒いね、入ろうか、と礼拝堂の鍵を開けた。
「中村君、この黒栖君は俺の昔の恋人の、今の婚約者だよ。もちろん聞いたことをよそで話すような人じゃない。証人として、いてもらってもいいかな?」
鍵を開けながら識司さんが俺に目配せし、中村君に話しかける。中村君は俺を見上げた。俺はなるべく真面目な顔をした。どうやらお眼鏡にかなったらしい。中村君ははい、と了承してくれた。
「ちょっとペンキで汚れたままなんだけど、ごめんね」
識司さんが真ん中くらいの列の椅子に座り、おいでよ、と呼んだ。俺は中村君に行こうか、と声を掛け、先に行かせた。
中村君は畏まって識司さんの隣におさまった。緊張した様子だ。俺は2人の後ろの列に座った。識司さんが俺を振り返る。いつものように穏やかな顔だったが、少し疲れているように見えた。
「中村君は順子のことで話したいことがあるんだって。男と男の話がしたいって言うから、ここに来てもらったんだ。ここは俺が大事にしている、大人の秘密基地みたいなものでね」
「知ってます。順子ちゃんが言っていました。お父さんは家族にも鍵を貸さないんだって」
中村君が話し出した。
「順子ちゃんと僕は愛し合っているんです。一緒に東京で暮らすつもりです」
中村君が識司さんを真っ直ぐ見た。俺は声を上げそうになり堪えた。中村君の意気に水をさしてはいけない。
識司さんも驚いたようだが、すぐにそうか、とうなずいた。
「俺にその許可を取りに来たのかい?」
識司さんが穏やかに尋ねる。ずっと顔をあげて前を見ていた中村君は、そこで初めてうつむいた。
「いいえ。きっと許してもらえないから、許可はもらわないで東京に行くことにしていました。あの日、祭りの前の日は大人が忙しいからその日を選んで、地元や、近い駅で待ち合わせると見つかるかもしれないから、東京駅の新幹線のホームで待ち合わせよう、って決めて、僕が先に出ることにしました」
ここからだと2回は乗り換えだ。中学生には大変だっただろう。きっと2人でたくさん時刻表を調べて考えたに違いない。
「それで、ずっと東京駅で待っていたんですが、順子ちゃんは来なかったんです」
「行き違いになったとか?」
うなずきながら聞いていた識司さんが尋ねる。
「そうしたらホームのベンチの裏にメモを貼ることにしていました。全部のホームを調べたけど、メモもなかったんです」
中村君はまた顔をあげた。
「日付を間違えたのかもしれないと思って、次の日も東京駅で待ちました。でも、一日中ホームにいたけど、順子ちゃんは来なかったんです」
識司さんが少し目を伏せる。
「順子のためにそこまで、ありがとう。中村君の気持ちを裏切ってしまったのなら本当に申し訳ない」
「順子ちゃんが裏切るはずがありません。何かあったんです。僕は、順子ちゃんのお父さんが許さなくて、家に閉じ込められたのかと思いました。順子ちゃんはお父さんが大好きで、もしかしたらお父さんだけには話すかもしれないって言っていたから」
識司さんは順子が、と呟いた。中村君も、もしかしたら順子さんも、識司さんがどんな思いで順子さんに接してきたのか知らないのだ。識司さんも暗い目をしている。
「中村君、俺が順子を駅まで送っていったよ。でもその後は帰っていないよ」
「昨日帰ってお母さんに聞きました。本当はすぐ、順子ちゃんのお父さんに相談したかったけど、お葬式だったから」
中村君はまたうつむいた。
「順子ちゃん、どうしたんだろう。何かあったんだ」
中村君が顔をくしゃくしゃにし、ぽろぽろと涙をこぼした。
「おじさん、ごめんなさい、僕たち、勝手なことをしたから、順子ちゃんが」
わかったわかった、と識司さんかまた少し笑顔になって中村君の肩に手を置いた。
「話してくれてありがとう。わかったよ、後は大人に任せてくれ。中村君、順子を心配してくれて、勇気を出してくれてありがとう」
中村君は今までこらえてきた分を吐き出すように識司さんにしがみついて泣いた。識司さんは中村君の背中を優しくなでた。その背中はやはりまだ小さく、男を背負うにはきっと荷が重かったろう。
「順子ちゃんは、お父さんが昔あの駅から遠くに行きたくて行けなかったことを、ずっと叶えてあげたかったと言っていました。だから僕たちで叶えたかったんです。順子ちゃんは自分が自立したらお父さんが自由になれると言っていました。だから早く東京に出たかったんです。順子ちゃんが帰ってきても、どうか、叱らないでください。悪いのは全部僕なんです」
中村君は泣きながら、それでも懸命に順子さんを庇おうとした。識司さんは何度もうなずき、叱らないよ、と約束した。
「後は任せて、大丈夫だよ。そろそろ中村君は帰りなさい、お母さんが気付いたら心配するから」
識司さんが中村君の背中をぽんとたたいた。中村君が泣きじゃくりながらうなずく。
「順子ちゃんのお父さん、ありがとうございました。順子ちゃんをよろしくお願いします」
中村君はそれでもきっちり頭を下げて、礼拝堂を出て行った。




