第22話 できない魔女としてみた男
寮に帰って俺の部屋に雨を連れたまま飛び込む。窓から見える有澤酒造の事務所はまだかなり騒がしい。明かりをつけられない。
暗い部屋の中で外からの光に頼りながら、俺は息を弾ませたまま雨と向かい合い、恐る恐る尋ねた。
「雨、あの人を、呪ったの?」
「いいえ、まだ」
雨はいつものように小さな声で答えた。
「良かった……」
俺はほっと力を抜いた。
窓の外が一段と騒がしくなり、見ると、叫び続ける誉茉子さんが運び出されている。雨が嘘をつくとは思えないが、あれで本当に呪われていないのだろうか。
「少し興奮しているようですね。静かにさせましょうか」
雨が窓の外に向かって手を少し動かして息を吹くと、誉茉子さんの絶叫が急に静かになった。俺は言葉の意味を考えて焦ったが、何のことはない、本当にただ落ち着いただけのようだった。
誉茉子さんは正気に戻ると、また周りに当たり散らして赤い外車に乗り込んだ。どこかへ行くらしい。元気だなあ。
窓の外もようやく静かになってきた。俺は暗闇の中、手探りでお茶を淹れた。熱いのを一息に飲んだら少し落ち着いた。
雨はいつもと変わらないように見える。熱いお茶には手を出さず、おとなしく座っている。
有澤酒造の事務所はその後また宴会を再開したらしく、人の出入りが途絶えた。あんな話をしてしまった後で、識司さんはどうしているだろうか。
雨がようやくお茶を飲み始めた。
「雨、本当に魔女なんだね。少し怖かった」
「そうですか。私もです」
人を呪おうとしたのは初めてです、と雨は窓の外に目をやりながら言った。雨の白い肌は外からのわずかな光でも浮かび上がるようによく見える。
「識司さんと話、できなかった。ごめん」
俺は雨と同じように窓の外を見ながら言った。
「でも、呪わないで待ってくれて、ありがとう」
雨はうつむいた。長い髪がさらさらと雨の表情を隠してしまう。
「識司さん、あんなことを大勢の人の前で言ってしまうなんて。笑いながら。そんな人じゃなかった。優しい人なのに」
うん、と答えたけれど、言葉が続けられない。識司さんがひどいとも思うし、怒るのも無理はないとも思う。社長という立場のこともあるだろう。
「やっぱり、あの人といるからいけないんだわ。あの場で直接殺してしまおうと思ったのに」
できなかった、怖くて。消え入りそうな声で呟き、雨が震える。
「目の前で確かめたら、呪うより、殺してしまおうと思っていました。でも、その時になったら、怖くて、動けなかった。あなたが止めてくれて、ほっとしました。でも、私、ほっとした、って気付いたら、もう……何もできなくなりました。そのために来たのに」
雨はうつむいたまま、顔を覆った。
「どうしよう。私、何もできない。識司さんのためになれない。魔女の力も使えないなんて、私」
俺は何も言えず、雨の肩に手を置いた。雨の肩が小刻みに震えている。泣いてしまったようだ。慰めたいが、何と言っていいかわからない。ただ俺は、雨が怖くてできないことをしなくて済めばいいなと思う。識司さんもきっとそうだと思う。
「雨が人を呪ったり殺したりしないでくれて、良かった。俺は雨にそんなことしてほしくないよ」
雨の肩に手を置いたまま、俺は言った。泣いているからか、手に伝わる雨の体温はいつもより高い。
「雨、人を殺したいなんて思わないで」
この言葉が少しでも雨を止めるなら、俺は何度でもそう言う。俺がそう願うことで少しでも雨を縛るなら。これも呪いなのだろうか。
しばらくそうしているうちに、また外が少し賑やかになった。宴会が終わったようだ。雨に伝えると、雨は濡れた顔を上げた。少し泣き止んだようだ。
「ごめんなさい」
涙を拭く雨の髪をなでる。
突然廊下の灯りが点き、襖から光が漏れ差した。俺は驚いた。これは、間違いない。
襖を開けて顔を出すと、やはり理恵さんだった。理恵さんも驚いたように俺を見た。
「びっくりした、暗いから帰ってないかと思いました。雨ちゃんたちまでどこか行っちゃったかと思った」
本当のことは言いづらいので、雨が寝ちゃったから、と嘘を言ったら、疲れたんでしょうね、と理恵さんは笑った。
「奥さんの顔あんな間近で見るから、雨ちゃんの方が悪い夢見そう」
「……理恵さんは雨が怖くないの」
尋ねると、理恵さんは怖くないですよ、と言い切った。
「本当は少しは怖かったけど、雨ちゃんはそんなことする人じゃないって今日一日一緒にいてわかってたし、社長も雨ちゃんは人を呪ったりしないってみんなの前で言ってくれましたよ。俺は魔女の元彼ですから間違いないですって」
理恵さんは最後だけちょっと言いにくそうに早口で言った。知ってる、と言うと驚いていた。
「でも、社長と仲良しですよね!え、すごい、三角関係?」
「違いますよ」
俺は苦笑した。理恵さんは文明さんが雨を識司さんに近付けないように言った理由がようやくわかったようで、ひとりで得心している。きっと誤解したいように誤解しているに違いない。まあ理恵さんなら好きなように誤解したらいいと思う。
「識司さん、あの後残ってくれてたんですか」
「はい、私たちよりは先に帰ったけど、今年はいつもより長くいてくれて、みんなと話してくれましたよ」
雨が誤解されないように助けてくれたんだ。狭い地域であんなに色々あって、詮索とか、余計なお世話とか、いつか帰る俺たちよりずっと大変だっただろうに。感謝ももちろんだが、俺はそのあとひとりで過ごす識司さんがつらい気持ちでないか、気掛かりだった。雨と、おまけで俺もいてあげられたらいいけれど、そうもいかない。
文明さんも玄関に来てくれたそうだ。理恵さんと一緒に挨拶に行くと、文明さんは少し赤い顔をしていた。今日は文明さんも飲んだらしい。
「でも5人は潰しました」
文明さんはいつもと同じ真顔だが、少し得意そうだ。俺は潰された相手に心底同情した。
「蓮野さんは大丈夫ですか」
文明さんが気遣ってくれた。俺は2人の心遣いが嬉しかった。
「ありがとう。大丈夫、よく休ませるよ」
理恵さんは棚にお寿司が入ってます、と言った。そうだ、せっかく準備してもらったお寿司の詰め合わせを忘れてきちゃったんだ。謝ると、理恵さんはあれじゃ仕方ないですよ、と笑ってくれた。
文明さんが理恵、そろそろ、と促した。俺はもう一度2人にありがとうと頭を下げた。
「そうだ、黒栖さん、明日は何時にしますか」
理恵さんが靴を履く間、文明さんが俺に尋ねる。
俺の予定はそれだけなので、何時でも、と答えた。文明さんは少し考えて、では9時に迎えに来ます、と言った。俺はわかりましたと答えながら、毎回迎えに来てもらうのは申し訳ないから絶対外で待とうと思った。
2人が仲良く帰っていく。もう事務所の前に人影はなく、事務所の電気も消えていた。
何となく見送っていると、事務所の常夜灯の下で、理恵さんがふと空を見上げて手のひらを空に向けた。俺もつられて空を見た。今日は星もない。
何だろう、と思っていると文明さんも空を見上げ、2人とも急ぎ足で駐車場に向かい始めた。ああ、雨が降ってきたんだ。
見覚えのある白い軽自動車が動き出す。文明さん、それは飲酒運転では、と俺が焦る前を理恵さんが運転する車が走り去っていく。文明さんは助手席から真顔で手を振ってくれた。俺も振り返しながら、この地域は確かにみんな運転できないと不便だな、と思った。
俺はやっと寮の電気を点け、お寿司の箱を持って部屋に戻った。遅い時間だがお腹が空いた。雨も食べるだろうか。
カーテンを閉め、部屋の灯りを点ける。すると、机に突っ伏していた雨が驚いて起きあがった。眠っていたらしい。
「ごめん、起こしたね」
いいえ、と雨は両手で頬をもにもにしながら顔を赤くした。
「理恵さんがお寿司持ってきてくれたんだ。食べる?」
食べないかと思ったが、雨は蓋を開けて見せた容器を覗き込んだ。お寿司は好きなのか。
割り箸を渡すと雨は怪しい持ち方をしたので、返してもらって割って渡した。雨はまだ少し腫れた目でにっこり笑って、カッパ巻きをつまんだ。
また泣くかもしれないと思ったが、俺は識司さんが会場に残り、俺たちの後始末をしてくれたことを話した。雨は少し箸を止めたが、もう泣かなかった。
「雨、明日9時から蔵を見せてもらえることになったよ。一緒に行く?」
雨ははい、と答えて、彼女にしてはもりもりカッパ巻きを食べた。もう3つ目だ。
「次こそは必ず仕留めます」
「雨、だめだって」
「あの人には他所にお付き合いしている人が他にもいるはずです。きっと今日はそこに行ったんです。その人と一緒にならざるを得ない状況を作ります。そして、この家から追い出します!」
雨は何とかしたいと考えるうち、今日のおじさんの悲劇を思い出したらしい。誉茉子さんは車で出て行ったから、近所ではないだろう。距離があれば少しはましなはずだ。おじさんは失敗したが、相手が変われば好きで通っているんだから何とかなるのではないか。そう結論づけたらしい。雨にしてはかなり平和的ないい考えじゃないか。
「そうだね、そうしよう!何かそんな魔法があるの?」
雨は4つ目のカッパ巻きをつまんだ箸を止めた。カッパ巻きしか食べないな。
「……今から考えます」
そうか。まあ、さっきまでよりはずっといい。
「雨、頑張って食べよう!元気がないと誉茉子さんには敵わないよ」
雨ははい、と答えて4つ目のカッパ巻きもひと口で食べた。
食べながら、少しだけ先の話をした。蔵を見せてもらったら、祭りも終わったし、そろそろ帰らなければならない。いつまでもお世話になる訳にもいかない。なるべく短期間で誉茉子さんを仕留めよう。
そして、識司さんがどうするかはわからないけれど、雨も一旦は帰ることになるだろうから、そうしたら俺も雨の街に一度寄ってみたい。俺がまだ行ったことのない街だ。雨の暮らす街を見たい。
雨は嬉しい、と微笑んだ。ひとりで帰るのが怖かったから、黒栖が来てくれたら嬉しい。
「識司さんは私と来てはくれないように思います」
雨が小さく呟く。ひどく悲しそうではあったが、もうそれを嘆くことはやめたようだ。
「だから、黒栖がもう少しいてくれたら、すごく嬉しい」
俺はもう雨の街に引っ越そうかと思った。
お寿司を食べた後はお風呂で英気を養い、早く寝てしまおうということになった。先にお風呂に入った雨が杖をついて俺にあがったことを教えにきてくれた。雨は今まで見た中で一番いきいきしているように見えた。今までもきれいだったか、より輝くようだ。俺は嬉しい気持ちで美しい雨に見とれた。
風呂を済ませ、襖の外から雨におやすみの挨拶をすると、雨が俺を呼んだ。何かと思って襖を開けると、雨はいつもの黒いワンピースで微笑んだ。
「今日こそ怖い夢を見てしまいそうだから、また一緒に寝てもいい?」
「だめ!」
何て冗談を言うんだ。変なことを覚えさせてしまった。慌てて襖を閉めようとして、雨の部屋をまじまじと見る。本当に布団も敷いていない。また外套にくるまって眠るつもりだろうか。
俺は布団敷くよ、と雨の部屋に入った。雨はたためないからいいです、と断り、最後はやめて、と俺を止めようとしたが、俺は布団を敷き終えた。
「たためないのに……」
雨が絶望的な顔をする。こんなことでするほどの顔じゃない。
「明日、俺がたたむから」
雨はぐずぐずしている。明日、一晩寝た後の布団を見られるのが恥ずかしいらしい。何を言っているのか最早理解できない。それでよく俺の布団にまた入りたいような冗談を言えたものだ。
俺は掛け布団をめくり、どうぞ、と雨を促した。そうでもしないと布団の横で外套にくるまって寝そうだ。雨はためらっている。
雨が寝るまで俺も寝られないなあ、とわざと言うと、雨は渋々布団に乗った。乗られても布団が掛けられない。横になって、と布団を示すと、そろそろと布団の隅に丸くなった。
「そうじゃなくて、もっと真ん中に、もっと伸びて」
雨はまな板の上の鯉のように、目をぎゅっと瞑って言われた通り布団の真ん中で体を伸ばした。そんなに無茶な恥ずかしいことさせてるか、俺。
あんまり雨が意識させるから変に気になってしまう。良くないので慌てて掛け布団で蓋をした。顔まで埋めてしまい、雨がうう、ともがく。ごめん、と顔だけ助け出して、俺は布団におさまった雨の出来を見た。まあ、上等だろう。
「じゃあ、おやすみ」
俺がついでに右手でぽんと布団に触れると、雨はその手をきゅっと握った。
雨の、懸命に手繰り寄せようとする俺より小さな両手、あまりに優しい感触に包まれ、振り解けない。
「黒栖、ありがとう」
大きな目が間違いなく俺を見つめる。
「……雨」
俺の願いは不意に叶った。雨が俺を見て、嬉しそうに微笑んでいる。今は、今だけは、俺の雨だ。
言葉が途切れると、外の雨音が大きく聞こえる。さっきの雨が、この音を立てるくらい強くなったようだ。
この地方でももう雨が降るのだ。冬は終わったのだ。
俺は雨の両手を添えられた右手でまとめて掴んだ。その上でダメ押しに左手でも雨の両手を拘束した。雨は急に両手を封じられて意外そうに俺を見る。
俺はその唇にキスをした。
俺のご褒美の一瞬があっという間に過ぎ、瞑っていた目を開けながら離れると、雨が大きな目を更に見開いて俺を見ていた。キスの距離で見たら負けて躊躇してしまう圧力だ。わかっているから目を瞑ったのだ。
知らず強く握り過ぎてしまった手の力を抜く。雨は急いで手を布団の中にしまい、それから頭まですっぽり布団の中にもぐってしまった。
「ごめんごめん、もうしない」
俺は布団の中で丸まってしまった雨を上からぽんぽんたたいた。雨はますます丸まった。
「ごめんね、おやすみ」
俺は今更緊張してどきどきしてきたことを悟られないように、わざとゆっくり声を掛けて雨の部屋を出た。




