第21話 父親と母親と娘
理恵さんと文明さんが打ち上げに参加するため迎えに来てくれた時、俺と雨は食堂でお茶を飲んでいた。
理恵さんは日中とは違い、明るいピンクのワンピースを着ていた。雨が理恵さん素敵、と声をあげる。理恵さんは嬉しそうだ。仲良くなったんだな。
「雨ちゃんこそ、色んな色の服着たらいいのに。何でも似合うよ」
「そんな、私黒しか着たことないから」
本当に仲良くなったんだなあ。じゃれ合う雨と理恵さんに、何か感動してしまう。取り残された俺と文明さんは、まあ行こうかと言う感じで先に行く女性たちについて行った。
有澤酒造の会議室にはたくさんのテーブルとごちそう、そして酒瓶が並べられていた。識司さんが仕出しの人たちに忙しく指示を出している。会議室には椅子がなく、はみ出して、周辺の廊下と向かいの社員の休憩室のようなところに机と椅子が整えられていた。
「社長」
理恵さんが手を振る。識司さんが気付いて人の流れをかき分けてきた。
「理恵ちゃん、文明君、ありがとう、来てくれて。良かった、2人も呼んできてくれたんだね」
声かけそびれちゃって、ごめんね、と識司さんが俺に謝る。俺は慌てていいえ、と答えた。
「社長、今年は特にお客様多いですね」
文明さんが真顔で周囲を見回す。識司さんもそうだねえ、と周りを見て、去年より仕出し多めに頼んだんだけど足りるかなあ、と心配そうに言った。
「文明君、いざとなったら食べそうな人から酔い潰してよ。お酒は売るほどあるから」
識司さんにしたら冗談だったのだろうが、文明さんはわかりました、と真顔で答えた。俺の悲劇が繰り返されそうだ。
「黒栖君、そういうことだから食べたいものは早めに食べてね。あっちに餃子もあるから。地元には敵わないだろうけど、一応こっちの人気のお店で冷凍じゃないよ」
いや、俺は別に餃子を食べなければ死ぬわけじゃない。識司さんと話すと少し調子が狂う。
「あの、社長……」
「ああ、山田さん。来てくれてありがとう」
識司さんに横から声を掛けた男女と女の子は、場違いに深刻な顔をしていた。
「あの、娘が、どうしてもお話したいことがあると」
「明子ちゃんだったよね?いつも順子と仲良くしてくれてありがとう。どうしたの」
「あの……」
女の子が泣きそうな顔で俺たちを見た。家出したお嬢さんの友達のようだ。お嬢さんと違って化粧気のない頬を真っ赤にして、固く唇をかんでいる。ここは外した方が良さそうだ。お嬢さんは順子さんというのか。
俺は軽く会釈してその場を離れた。親子と識司さんは隅の方で話しているが、識司さんは見た限りいつもと同じ笑顔だった。娘が心配ではないのだろうか。意外と薄情だ。
そうこうするうち時間になったらしい。いつの間にか識司さんは前の方にいて、挨拶が始まったと思ったらすぐに乾杯してしまった。スピーチは苦手らしい。
俺は識司さんに話をする約束だけでも取り付けたくて、人を避けながら前に出た。
「識司さん」
識司さんが気付かず行ってしまいそうだったので、俺は慌てて腕を掴んだ。
「話があります、後で、いいですか」
その時は偶然、誰かが酒瓶を倒してしまってガチャンとガラスがぶつかり合う音と悲鳴が上がった、直後の静寂の最中だった。
俺は会場中から識司さんにケンカを売った魔女の今の婚約者、と見られた。俺は血の気が引いた。そんなじゃない。俺は穏やかに話がしたいのだ。
「いいよ。じゃ、後で」
識司さんは楽しそうに笑った。
よそ者は目立つ。俺はすぐに取り囲まれ、識司さんとの因縁を詮索された。俺は何でもなくて、お世話になったお礼も言えてないからと説明したが、それはお礼参り的な意味に解釈されていた。冗談じゃない、俺はケンカは弱いのだ。説明が通じなくて、俺はなるべく人を避けて雨と一緒にいた。雨には人は集まらなかった。美人なのに。魔女が怖いのだろうか。
識司さんと話している人も、ちらちらこちらを見ているようだ。識司さんが変に煽らなければいいのだが。
何となくさっきの親子を探すと、女の子はにこにこしながら自分の皿にごちそうを山盛り乗せて、苦笑している両親のもとへ向かうところだった。良かった、気にやんでいたことは解決したようだ。あのくらいの子は女の子でもよく食べるな。
時間が過ぎて人の流れもばらつき始め、識司さんがやっと俺の所に来てくれた。
「ごめんごめん、黒栖君、お待たせ」
雨が緊張してきゅっと体をこわばらせる。俺は雨を励ますように雨に少し近付いた。
俺は識司さんに、雨のことで話があります、どこか静かに話せるところはないですか、と聞いた。聞き耳を立てていた周囲が騒めき、識司さんは苦笑した。誰も見ていないようなのに、注目されている。識司さんはそうだなあ、とのんびり思案して、じゃあうちで飲み直す?と言った。
「結城さんが褒めてたよ。根性のある飲みっぷりだったって」
「え、ええと、いや、俺お酒はしばらくちょっと」
識司さんは残念そうにええ、つまんないなーと呟いた。
「俺お酒の会社の社長だよ?俺と話がしたいなら盃を交わすのが礼儀でしょ」
そうですか、では、とはいかない。大変だったんだから!
「ま、それは後から相談しよう。じゃ行こうか」
絶対飲ませたいという顔をして、識司さんはすぐに歩き始めたので、俺は慌てた。それでは中座させてしまうことになる。後でいいです、待ってますから、と言ったのだが、識司さんは毎年このくらいに帰ることにしてるんだよ、と笑った。
「俺がいたら、みんな会社や俺の不満を言いにくいだろ。そのガス抜きに振る舞ってるところもあるんだから」
どこまで冗談かわからない。対応できないでいると、識司さんは近くにいた社員らしい人に、じゃ後はよろしく、と言って歩き出した。
俺は急いで雨にどうするか確認した。雨は部屋に戻るというので、俺たちは識司さんと一緒に引き上げることにした。理恵さんを探し、休憩室で文明さんとほくほくお寿司を頬張っているところを捕まえて、帰ることを伝えた。理恵さんはすかさず重みのある密閉容器を差し出した。
「あんまり食べてなかったでしょう、雨ちゃんの好きそうなもの集めておきました」
半透明な容器の中はおそらく稲荷寿司と細巻き寿司。文明さんが早速ひとり酔い潰した方がいいくらいの量が詰められていた。
理恵さんに慌ただしくお礼を言って識司さんの後を追う。さすがに社長ともなると、ぽつぽつと行き交う人々に毎回声をかけられて、思ったより先には行っていなかった。追いつけて良かった。
識司さんに理恵さんにお寿司をもらったことを告げると、良かった、あんまり食べてなかったろう、と言われた。あれだけ人がたくさんいる中で俺のことまで気にかけてくれたのだろうか。社長って大変だ。
「結城さん、黒栖君のことかなり気に入ったみたいだよ。今時根性のある、素直ないい奴だって。俺、結城さんに褒められたことないよ。すごいねえ」
歩きながら識司さんが笑う。そういえば結城さんは来ていなかった。
「結城さんは人が多いの苦手だから。毎年近場だけど温泉旅行に招待してごまかしてるんだ」
これだけの投資で俺がいい人みたいな顔ができたら安いもんだよ、と識司さんがまた笑う。結果、投資した分は取り戻せてきてはいるようだからさすがだ。妹さんには投資しなかったり、お金の遣い方はシビアなところがあるようだ。こんなにのんきに笑っていても経営者なのだ。
だとすれば俺が投資してもらっている理由は何だろう。
「結城さんは識司さんにもらった命だって言ってました。すごく感謝してるって」
考えながら、口下手そうな結城さんが伝えていなさそうなことを識司さんに伝えると、識司さんは一瞬表情を消した。しかしそれはすぐに笑顔に隠された。
「何でもうあの人はそういうことをまず黒栖君に言うかなあ。直接言ってもらえたら喜ぶのに」
でも嬉しかったのかもしれない。事務室に寄って飾った賞状を見せてくれた。
「こんなの一枚で、本当にこれだけ変わるんだものね。味はそこまで変わってないのに」
でも、今年のはもっと結城さんが納得できる味になるはずだよ。
識司さんはひとりごとのように、
「だから俺はあの人の造る酒は嫌いだよ。大嫌いなこの土地の水の味がする」
こぼれるように、ぽつりと言った。
会議室の方で悲鳴のような声があがったのはその時だった。識司さんがきびすを返し、俺は雨にゆっくりでいいから、と言って識司さんの後を追った。
俺が会場の入り口に着いた時、ぱあん、と派手な音がして、識司さんの背中がわずかに揺れた。
「何やってるのよ!父親の癖に!」
識司さんが頬を張られたらしい。会場の方から小さな悲鳴があがる。しかし斜め後ろの俺から少しだけ見えた識司さんの口元は笑っているようだった。
識司さんが顔を戻すと、俺からは後ろ姿しか見えない。俺は会場の中を見て、ぎょっとした。
誉茉子さんが仁王立ちになっていた。テラテラのピンクのスーツ、しかも花柄。怒りの形相で真っ赤な唇を震わせ、目を剥いている。怖い。俺は思わず壁に隠れた。
しかしそれで却って目立ったのだろう、誉茉子さんが俺に気付いた。ますます声を張り上げる。
「従業員や客にへいこらして点数稼ぎするだけじゃ気が済まないの?またこんな奴らまで連れ込んで!娘がいなくなったのよ!」
誉茉子さんにもやっと連絡がいったようだ。
「やめなさい、お客様もいらっしゃるのに」
「何がお客様よ、ただの出入りの業者がたかりにきているだけじゃない!あんたは父親なのよ!」
「あなたこそ祭りの手伝いもしないで今までどこに行っていたんだ。社員もそのご家族もみんながんばってくれたんだぞ」
「当たり前でしょう!うちで働かせてやってるんだから!こんなことしてないで、早く順子を探させなさいよ!」
誉茉子さんがテーブルをばんばん叩き、乗っていた酒瓶がガチャガチャ音を立てる。識司さんはやめなさい、とその手を掴んだ。
「やめて!痛いわ、暴力よ!」
誉茉子さんは手を振り解き、悲鳴をあげた。識司さんは無表情だ。
「あんたたち、何してるのよ!順子を探しに行きなさいよ!早く!」
誉茉子さんが叫ぶ。社員の人たちが戸惑いながらも片付けを始めようとすると、識司さんが制した。
「その必要はないよ。順子の行き先は知ってる」
何ですって、どこよ、と誉茉子さんが怒鳴り、識司さんは無表情のまま答えた。
「東京だよ。どうしても行きたいようだったから。春休みだしいいかと思って、乗り換えの駅まで乗せて行ったよ」
「1人で東京へやったの!順子はまだ中学生よ!」
「列車の乗り方くらいわかるよ。泊まるところは俺が予約した。大ごとにしたくなかったのに。順子はもうモデルになって帰らないつもりらしいけど、そううまくいかなかったら帰ってこなきゃいけないから」
誉茉子さんがだめよ、危険だわ、今すぐ連れ戻しに行きなさいよ、と喚き続ける。
「あんたは父親でしょう!」
ずっと無表情だった識司さんが、笑った。
「確かに、俺は戸籍上、父親だ。でもこれでそのくらいの責任は果たしたんじゃないか?あとは血のつながった本当の父親にでもさせてくれ。あなたは順子に何をしてやった?あなたは戸籍だけでなく、生物学上も母親だろう。あなたの娘なら東京なんて楽しいばかりじゃないのかい」
何ですって、と誉茉子さんがはじめて怯んだ。識司さんがくっくっとこらえきれないように笑う。
「俺だってコウノトリが子供を連れてくるなんて信じちゃいないよ。何もしてないのに子供なんかできる訳ないだろう」
「それは……あんたが酔っ払った時」
「いつ?俺はここに来てから十年は酒を飲まなかった。順子はいくつだっけ」
社員の人が社長、こんなところで、と識司さんを止めようとしたが、識司さんは止まらなかった。
「証拠も見せようか。3社に鑑定を依頼して、全部親子関係はないと証明してくれたよ。俺の机の引き出しに入ってるよ」
誉茉子さんは廊下に飛び出した。俺は雨のことを思い出してはち合わせたらとぞっとしたが、雨はいつの間にか俺のすぐ後ろにいた。少しほっとする。
事務室の方で引き出しを開け閉めするにしては大きな音がし、誉茉子さんはまたすごい勢いで戻ってきた。
「そんなバカなものは、こうよ!」
誉茉子さんは書類が入っているらしい封筒ごと、ビリビリに破ってその紙屑を識司さんに投げつけた。識司さんは楽しそうに笑っている。
「それは写しだよ。破ったからといって何になる訳でもないしね」
誉茉子さんはぎょろぎょろ辺りを見回した。そして、何ともならないと悟ると、突然泣き崩れた。
「ひどい!私は寂しいだけなのに、順子が心配なだけなのに」
俺も会場の人々も唖然としている。誉茉子さんの張り上げる甲高い泣き声と、識司さんの楽しそうな笑い声だけが響く。
「誉茉ちゃんを泣かせるな!」
会場の中から声がした。誰かが坂部の二代目、と声を上げる。
「……満広さん」
識司さんも知り合いのようだ。あれ、坂部って、先輩の知り合いの人じゃなかったっけ。
「誉茉ちゃんは識司がほったらかしにするから寂しくて家にいられないんだ!俺ならそんなことはしない、順子ちゃんもまとめて面倒見る!誉茉ちゃん、俺と一緒に順子ちゃんを探しに行こう!」
識司さんより年が上そうな頭頂部の薄いおじさんが、涙ながらに誉茉子さんを庇うように識司さんの前に立ちはだかる。
「……満広さん、のり子さんと美代ちゃんと広和君は」
「のり子とは別れる。美代と広和は俺が引き取る!順子ちゃんみたいな妹なら大歓迎だ!なあ、誉茉ちゃん!こいつより幸せな家庭を築こう!」
何だこのおじさん、誉茉子さんの浮気相手か。識司さんは気を削がれたような呆れた顔で、熱い涙を流すおじさんを見ている。
「……誰があんたみたいな貧乏印刷屋と一緒になるか!」
泣いていた誉茉子さんか腹の底から吠えた。
「一度でも私を抱けただけでありがたいと思いなさいよ!あんたなんかただの暇つぶしよ!何バカみたいな夢見てるのよ!」
「だって、夢を形にする印刷って、素敵だって……」
「冗談じゃないわ!酒屋よりきつくて暗くて儲からないなんて話にならない!私は東京のマンションに住みたいの!あんたはもちろん、あんたの子供の世話なんて真っ平ごめんよ!」
おじさんの恋は公衆の面前で砕け散ったらしい。俺たちは一体何を見ているんだろう。識司さんが一番そんな顔をしていた。
「奥さん、坂部さんと、浮気……」
吉田さんが意を決して言質を取ろうとするが、誉茉子さんはまた吠えた。
「浮気じゃないわ!犬に噛まれただけよ!浮気はこいつよ!昔の女を家にあげたのよ!」
「母屋には来てないし、婚約者付きです」
理恵さんが震える声で反論してくれる。理恵さん、すごい勇気だよ。
「その婚約者に奥さん色目使って、婚約者君は窓から逃げ出したんだぜ」
男性の声がどこからかして、周りが騒ついた。同意する声、詳細を求める声、それに応えて説明し始める声。騒めきが大きくなり、少し空気が緩む。
これでおさまるかと何となくみんな思い始めていた。
その時、俺の背後から猫のようにしなやかに黒い影が忍び出た。あっと思う間もなく、影は誉茉子さんに迫り、至近距離でぴたりと止まった。
「あなたなのね」
雨が大きな目を見開いて、誉茉子さんをどんよりと凝視していた。誉茉子さんが息を飲む。
「雨、ダメだ!」
俺は慌てて雨を抱きかかえるようにして誉茉子さんから引き離した。白い髪が舞い上がる。
ぎゃあああ、と誉茉子さんが悲鳴をあげた。顔中を口にして、誉茉子さんが絶叫する。何度も。俺は雨の頭を抱えたまま立ちすくんだ。何人かが誉茉子さんに駆け寄り、他の人々は俺と雨を恐ろしそうに見ている。識司さんは俺を振り返り、悪いけど帰って、話はまた今度、と笑顔で告げた。俺はすみません、と小さく頭を下げて雨を引っ張って寮に逃げ帰った。




