第99話 世界創造の立会人
第99話 世界創造の立会人
透明な扉は、音もなく佇んでいた。
黒でも白でもない。
光を反射することも、影を落とすこともない。
まるで、そこに何かが存在していることだけを示し、その正体を誰にも決めさせないために作られた扉だった。
《次の対話対象――世界創造の立会人》
《開示条件:第三の存在による意思の表明》
リリアは、その文字を見つめた。
「世界創造の立会人……」
「世界を創るところに立ち会った者、という意味でしょうか」
セフィルが考え込む。
「そうだとすれば、エリシアや原初の観測者も候補になる。しかし、この記録は彼らを指しているとは限らない」
レオンが扉の周囲を慎重に調べた。
「それに、開示条件が問題だ。第三の存在が意思を表明するまで、扉は開かないらしい」
少女は、少しだけ肩をすくめた。
「……私が決めるまで、待つんだね」
「そうみたい」
リリアは頷いた。
「だから、無理に開けなくてもいいよ」
少女は扉を見つめたまま、首を横に振った。
「ううん。怖いけど、逃げたいわけじゃないの」
彼女は胸元の白い花に触れた。
「私は、自分が何を望んでいるのか、まだ分からない。でも、分からないから何も言わないままでいたら、また誰かに勝手に決められてしまうかもしれない」
「なら、今の気持ちを言葉にしてみたら?」
リリアの提案に、少女は目を伏せた。
「……今の気持ち?」
「うん。最終的な答えじゃなくてもいい。今、何を望んでいるのか。それだけでも」
少女は長い間、考えていた。
アレンも、ミラも、セフィルも、彼女を急かさなかった。
やがて少女は、小さく息を吸った。
「私は……世界を壊したいわけじゃない」
透明な扉が、わずかに輝いた。
「世界が生まれたことを、間違いだったとは思いたくない。そこに生きている人たちが、笑ったり、誰かを好きになったり、自分の未来を選んだりしていることまで、否定したくない」
少女の声は、少しずつ確かなものになっていく。
「でも、世界を守るために、私の願いをなかったことにするのも嫌」
白い花が開いた。
「私が反対したことも、怖かったことも、ちゃんと残してほしい。私の考えが間違っていたとしても、どうしてそう考えたのかまで消さないでほしい」
彼女は顔を上げた。
「今の私が望んでいるのは、それ」
《第三の存在――現在の意思を確認》
《世界創造への最終的な賛否――未確定》
《追加の意思:自身の反対理由を記録に残すことを希望》
透明な扉の中央に、細い亀裂のような光が走った。
だが、扉は開かなかった。
代わりに、別の文字が浮かび上がる。
《立会人への対話申請――受理》
《応答までの待機時間――未確定》
ミラが、思わず声を上げた。
「えっ、受理されたのに開かないの?」
「本人が意思を示したことと、対話する準備が整ったことは別なのかもしれないね」
リリアがそう答えたとき、扉の向こうから、かすかな足音が聞こえた。
一歩。
そして、もう一歩。
誰かが、こちらへ近づいている。
アレンは反射的に剣の柄へ手を伸ばしたが、抜くことはしなかった。
やがて、透明な扉に人影が映った。
銀色の髪。
紫色の瞳。
その姿を見た瞬間、リリアの隣にいたセフィルが息を呑んだ。
「……僕?」
扉に映っていたのは、セフィルとよく似た姿の人物だった。
しかし、違いは明らかだった。
その人物の瞳には、セフィルにはない深い疲労が宿っていた。
そして、首元には、今の世界では使われていない古い紋章が刻まれている。
「君は……誰なんだ?」
セフィルが尋ねた。
扉の向こうの人物は、すぐには答えなかった。
代わりに、少女を見つめた。
その目には、驚きも、怒りもなかった。
ただ、長い間、言葉を交わす機会を失っていた者を見るような、静かな眼差しがあった。
『……ようやく、話を聞いてもらえる時が来たんだね』
少女は一歩前へ出た。
「あなたが、世界創造の立会人なの?」
『その呼び名で呼ばれていた時期はある』
「名前は?」
人物は、わずかに目を伏せた。
『今は、まだ答えられない』
少女は、その答えに頷いた。
「分かった。無理に聞かない」
扉の向こうの人物が、初めて少しだけ表情を変えた。
『……君は、変わったんだね』
「昔の私を知っているの?」
『知っている。だが、今の君を昔の記憶だけで判断するつもりはない』
少女は胸元の花を握った。
「それなら、教えて。あなたは、世界が生まれたとき、何を見ていたの?」
人物は静かに答えた。
『私は、世界が創られる瞬間に立ち会った。そして、世界が成立した直後に、ある命令を受けた』
「どんな命令?」
『記録から外された意思を、すべて消去せよ』
リリアたちの間に、緊張が走った。
カイルが銀の指輪を握りしめる。
「……それを命じたのは、誰だ?」
『その質問に答えるには、まだ確認が必要だ』
「確認?」
『命令を出した者と、命令を実行させた者が、同一人物とは限らない』
その言葉に、カイルの指輪が淡く光った。
人物は続けた。
『私は命令に従わなかった。すべての記録を消す代わりに、一部を隠し、保存した』
「それが、記録領域……?」
リリアの問いに、人物は頷いた。
『そうだ。ただし、保存したのは記録だけではない。記録を残す権利そのものだ』
セフィルが目を見開く。
「記録を残す権利……?」
『世界の仕組みは、成立した事実を記録する。しかし、何を記録するかを決める権限は、一部の存在に集中していた』
人物の声は、淡々としていた。
『私は、その権限に対抗するため、本人が自分の意思を記録できる可能性を残そうとした』
「それで、世界の成立条件が不安定になったの?」
『そうだ。だが、それだけではない』
人物は、少女を見つめた。
『私は、君の意思を残すことを優先した。その結果、別の誰かの意思を、十分に聞かないまま記録してしまった』
少女は眉を寄せた。
「……どういうこと?」
『君の反対理由を記録に残すため、私は別の存在が残そうとしていた意思を、後回しにした』
人物は目を伏せた。
『私は、君を守るために行動していたつもりだった。だが、誰かを守ることを理由に、別の誰かの声を聞かなくなっていた』
リリアは、静かに息を呑んだ。
また一人、自分の行為を振り返ろうとしている者がいた。
誰かの意思を守ろうとして、別の誰かの意思を後回しにしてしまった者。
その過ちを、正しいことだったと押し通すのではなく、認めようとしている者。
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、尋ねた。
「あなたは、その人に謝りたいの?」
『謝るだけでは足りない』
「どうして?」
『私が謝れば、その人が許さなければならないような空気を作ってしまうかもしれない。私は、自分の罪を軽くするために、その人へ新しい負担を押しつけたくない』
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、まずは、その人の話を聞いて」
『そうするつもりだ』
「その人が、あなたと話したくないと言ったら?」
『その意思を尊重する』
少女は、初めて穏やかな表情を見せた。
「それなら、私はあなたの話を聞きたい」
扉の向こうの人物は、静かに頭を下げた。
『ありがとう』
その瞬間、透明な扉が少しだけ開いた。
しかし、人物は中へ入ってこなかった。
「入ってこないの?」
ミラが尋ねる。
人物は首を横に振った。
『まだ、こちらから近づくべきではない。君が対話を望んだことと、私が君のそばにいることを許されたことは、同じではないから』
アレンが、ゆっくりと息を吐いた。
「……そういうことか」
彼は、かつて少女の意思を守ろうとして、彼女の代わりに答えを出してしまった。
今、扉の向こうにいる人物は、同じ過ちを繰り返さないために、境界を越えずにいた。
少女は、少し考えてから言った。
「今は、そこで話してほしい」
『分かった』
「それから、私はあなたに聞きたいことがあるの」
『何でも聞いてほしい。ただし、分からないことは分からないと答える』
少女は頷いた。
そして、白い花を見つめながら、最も知りたかったことを尋ねた。
「世界が生まれる前、私は最後に何を願ったの?」
扉の向こうの人物は、長い沈黙のあと、答えた。
『君は、世界を創ることに反対した。だが、それが最後の願いではなかった』
少女の目が見開かれる。
『君は、世界が創られたあとも、誰かが自分の意思を変えられることを望んでいた』
「意思を、変えられること?」
『一度選んだ答えを、永遠に背負わなくてもいいように。間違えたと思ったら、もう一度考え直せるように。自分が望んだ未来であっても、そこから離れる自由を持てるように』
リリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは、今の彼女たちが探していた可能性に似ていた。
選ばれなかった未来を残すだけではない。
選ばれた未来から、本人がもう一度選び直す自由を守る。
少女は震える声で尋ねた。
「……それが、私の最後の願いだったの?」
『それは、君が最後に口にした願いの一部だ』
「一部?」
人物は頷いた。
『君は、そのあとにもう一つ、願いを口にした。だが、その記録は私の手元にはない』
カイルの指輪が、鋭く輝いた。
《未記録の意思――照合》
《記録者の証言と一致》
《最後の願い――未確認》
リリアは扉を見つめた。
「その記録を持っている人が、別にいるの?」
『可能性はある』
「誰なの?」
人物は答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
『私は、その記録が誰の手に渡ったのかを知らない。知っているのは、世界創造の直後、記録の一部が別の場所へ移されたということだけだ』
アレンが、銀の欠片を握りしめた。
「……別の場所?」
その瞬間、彼の手の中で銀の欠片が熱を帯びた。
白い花の紋様が、欠片の表面に浮かび上がる。
《第二の締結者――記憶の接続を検出》
《記録の移送先――照合可能》
アレンは目を見開いた。
「この欠片が……移送先を知っているのか?」
扉の向こうの人物が、初めて強い反応を示した。
『その欠片を、どこで手に入れた?』
「カイルの指輪から分かれたものだ」
『……そうか』
人物は、静かに目を閉じた。
『ならば、記録は失われていないのかもしれない』
「どこにあるんだ?」
アレンの問いに、人物は答えた。
『世界の中でも、外側でもない場所だ』
リリアは眉をひそめた。
「そんな場所があるの?」
『世界が成立する前に、選ばれなかった未来が集まっていた場所がある。世界が生まれたあとも、そこだけは完全には閉じられなかった』
少女の顔が青ざめた。
「……私が、世界の創造に反対した理由が残っている場所?」
『そうだ。だが、そこへ行くには条件がある』
「どんな条件?」
人物は、透明な扉の隙間から、彼女を見つめた。
『君が、世界を創るかどうかとは別に、自分が何を守りたいのかを選ぶことだ』
少女は唇を噛んだ。
また、選択を迫られているように聞こえたからだ。
だが、人物はすぐに続けた。
『今すぐ、世界創造への賛否を決める必要はない。君が何を守りたいのかを、君自身の言葉で確かめてほしい。それが、次の場所へ進むための条件だ』
「……何を守りたいのか」
少女は、白い花を見つめた。
世界を守りたい。
選ばれなかった意思を守りたい。
自分の願いを、なかったことにされたくない。
けれど、どれか一つだけを選ばなければならないのだろうか。
リリアは、その迷いに気づいていた。
「一つに絞らなくてもいいんじゃないかな」
少女が顔を上げる。
「今は、全部大切だと思っているんでしょう? なら、まずはそれを認めてもいいと思う」
「でも、全部を守るなんて……」
「できるかどうかは、まだ分からないよ」
リリアは正直に答えた。
「ただ、できないと決める前に、方法を探してみたい」
アレンも頷いた。
「俺たちも一緒に考える。君の代わりに決めることはしない。でも、君が一人で全部を背負う必要もない」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、透明な扉の向こうの人物へ告げた。
「私は、今はまだ、世界を創ることに賛成とも反対とも決められない」
扉が、淡く輝く。
「でも、世界が生まれたことも、選ばれなかった未来も、私自身の願いも……どれか一つを、最初からなかったことにはしたくない」
白い花が、彼女の手の中で開いた。
「それが、今の私が守りたいもの」
《第三の存在――現在の意思を更新》
《世界創造への賛否――未確定》
《保護対象――複数の意思》
《新たな進行条件――本人による意思の再選択》
透明な扉が、今度こそ大きく開いた。
しかし、その向こうにいた人物の姿は、薄れていった。
「待って!」
少女が声を上げる。
「あなたは、どこへ行くの?」
人物は、穏やかな表情で答えた。
『私は、まだ自分の名前を名乗る準備ができていない。君が自分の意思を選び直そうとしているように、私も、自分が何者なのかを確かめなければならない』
「また会える?」
『君が望むなら、もう一度、話をしよう』
その言葉を最後に、人物の姿が消えた。
扉の向こうには、一本の道だけが残されていた。
その先には、無数の光が浮かんでいる。
そして、その中央に、たった一行の記録があった。
《最後の願いの保管場所――原初の空白》
リリアは、その文字を見つめた。
原初の空白。
世界が生まれる前、すべての可能性が存在していた場所。
そして、世界が生まれたあとも、完全には閉じられなかった場所。
そこに、少女の最後の願いが残されている。
しかし、その願いを知るためには、彼女自身が何を守りたいのかを、さらに確かめなければならない。
外側の存在の声が響く。
『残り時間、九時間二十分』
『世界の成立条件の再評価は継続中』
『次の選択までに、必要な条件を満たせ』
少女は、深く息を吸った。
そして、リリアたちを振り返る。
「……行こう」
その声には、まだ恐れがあった。
迷いもあった。
けれど、誰かに急かされたからではない。
誰かに答えを与えられたからでもない。
彼女自身が、次へ進むと決めたのだ。
リリアは微笑んだ。
「うん。一緒に行こう」
一行は、透明な扉の向こうへ歩き出した。
その先に待つのは、世界創造の前に残された、最後の願い。
そして、彼女たちがまだ知らない、もう一人の意思だった。
第99話 終
次回、第100話「原初の空白に眠る願い」




