第100話 原初の空白に眠る願い
第100話 原初の空白に眠る願い
透明な扉の向こうに続く道は、どこまでも白かった。
花も、空も、大地もない。
けれど、何も存在しないわけではなかった。
リリアが一歩踏み出すたび、足元に淡い光が灯る。その光の中には、見知らぬ誰かの笑顔や、聞いたことのない声、そして、最後まで選ばれなかった未来の断片が浮かんでは消えていった。
「ここが……原初の空白」
リリアの隣で、アレンが静かに呟いた。
カイルは銀の指輪を握りしめ、セフィルはいつになく険しい表情で周囲を見渡している。ミラも冗談を口にする余裕はなかった。
彼らの背後では、世界創造の立会人が扉の向こうに立っていた。
彼は同行しなかった。
「ここから先は、私が進むべき場所ではない」
そう告げた彼の声には、長い年月を経ても消えない後悔が滲んでいた。
「ここにあるのは、私が守った記録だけではない。私が守れなかったものもある。君たちが何を見つけるか、私はもう決めるべきではないのだ」
淡い光が揺れ、扉がゆっくり閉じていく。
その直前、彼はリリアたちの中心にいる少女を見つめた。
「君が何を選んでも、今度こそ、その意思を記録しよう。たとえ私にとって受け入れがたい答えであっても」
少女は小さく頷いた。
「ありがとう。でも、あなたも自分の意思で選んでね。私のためだけに生きる必要はないから」
扉が閉じた。
その瞬間、少女の足元に白い花が一輪咲いた。
「……懐かしい」
彼女は花びらに触れた。
「ここに来たことがあるのかな」
「記憶があるの?」
リリアが尋ねると、少女は首を横に振った。
「分からない。でも、何かをここに残した気がするの」
彼女の言葉に応えるように、空間の奥で小さな光が瞬いた。
リリアたちは、その光へ向かって歩き始めた。
やがて、白い空間の中央に、一つの箱が現れた。
古びた木箱だった。
蓋には見覚えのある紋章が刻まれている。カイルの銀の指輪と、アレンが持つ銀の欠片。その二つに刻まれた紋様と同じものだった。
カイルが息を呑んだ。
「これが……指輪の記録の本体なのか?」
指輪が熱を帯びる。
けれど、箱は開かなかった。
蓋の中央に、文字が浮かび上がる。
《記録の閲覧条件――保護対象本人の意思》
全員の視線が少女に集まった。
彼女は箱を見つめ、しばらく黙っていた。
「開けたら、私は自分の過去を知ることになるんだよね」
「そうだと思う」
リリアは答えた。
「でも、知ったことを受け入れなければいけないわけじゃない。過去がどうだったとしても、これからのあなたまで決められることはないよ」
少女は唇を結んだ。
「……私は知りたい」
その声は、もう震えていなかった。
「誰かに決められた答えじゃなくて、自分が何を望んでいたのか知りたい。そして、それを知ったあとで、今の私がどうしたいのかを考えたい」
箱の紋章が光り、蓋が静かに開いた。
中にあったのは、一枚の薄い記録板と、白い花だった。
花は枯れていなかった。
少女がそれを手に取ると、周囲の景色が変わった。
白い空間に、遠い昔の光景が映し出される。
幼いエリシアが、まだ世界のない場所に立っていた。
その隣には、原初の観測者。そして、淡い金色の髪をした少女がいた。
三人は、何かを話し合っている。
声はまだ聞こえない。
けれど、幼いエリシアが笑い、観測者が困ったように微笑み、金色の髪の少女が白い花を胸に抱いていることは分かった。
その光景を見つめながら、第三の存在は目を見開いた。
「この子……」
彼女の指が、白い花を強く握りしめる。
「私、なの?」
誰もすぐには答えなかった。
リリアも、安易に肯定することはできなかった。
目の前の少女と、記録の中の少女が同じ存在なのか。それとも、似た願いを持つ別の存在なのか。
まだ分からない。
やがて、記録板に文字が浮かび上がった。
《世界創造以前の未確定記録》
《願いの記録者:未確定》
《願いの所有者:本人による再確認を待つ》
そして、その下に最後の一文が現れた。
――選んだ未来を、いつか手放してもいいように。
少女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「そうだ……」
彼女は小さく呟いた。
「私は、選び直せる世界が欲しかったんだ」
誰かが一度選んだからといって、その選択に永遠に縛られなくてもいい世界。
間違えたと気づいたとき、戻ることを許される世界。
自分の願いが誰かの望みと違っていても、その理由まで消されない世界。
それは、世界を壊すための願いではなかった。
世界を創ることだけを望む願いでもなかった。
誰もが、自分の意思を持ったまま生きられる未来への願いだった。
「でも……」
少女の表情が曇る。
「それなら、どうして私は世界の創造に反対したの?」
答えは、まだ記録の奥に眠っていた。
そのとき、箱の底から低い音が響いた。
白い空間に、黒い亀裂が走る。
セフィルが即座に振り返った。
「来る……!」
亀裂の向こうから、あの一つ目の光が現れた。
世界の外側の存在。
それは彼らを見下ろすように、空間そのものを震わせた。
『記録への接触を確認』
『未確定の意思が、許容範囲を超えている』
『記録を閉鎖する』
黒い影が伸び、箱を覆おうとする。
リリアは少女の前に立った。
「させない!」
創世の理が反応し、白い光が広がる。
だが、外側の存在は光を押し返した。
『お前もまた、選択の矛盾を抱える者』
『他者の意思を守ると言いながら、世界を維持することを望んでいる』
リリアは息を詰めた。
否定できなかった。
世界を守りたい。
第三の存在の願いも守りたい。
アレンやミラ、カイル、セフィル、レオン、そして出会った人々が生きる世界を失いたくない。
その願いが、誰かの意思を押し潰してしまう可能性はある。
けれど。
「だからって、最初から誰かの意思をなかったことにしていい理由にはならない!」
リリアは光を強めた。
「矛盾があるなら、向き合う。答えが一つじゃないなら、一つに決めつけない。私は、あなたが決めた秩序のために誰かを犠牲にすることを選ばない!」
隣でアレンが剣を抜いた。
「今度は、彼女の意思を代わりに答えたりしない。だが、彼女が選ぶ時間を奪おうとする者を、黙って見ているつもりもない」
ミラの炎が灯り、セフィルの紫の瞳が輝く。
カイルも銀の指輪を掲げた。
「俺の記憶が何のために封じられたのか、まだ全部は分からない。それでも、記録を守ることと、誰かの未来を勝手に決めることが違うのは分かる」
仲間たちの意思が、それぞれの光となって広がった。
けれど、少女はリリアたちの背後に隠れたままではなかった。
一歩、前へ出る。
「待って」
その声は小さかった。
しかし、黒い影の動きが止まった。
少女は、一つ目の光をまっすぐ見つめた。
「私は、まだ世界を創るかどうか決めていない」
黒い影が揺れる。
「でも、私の願いを記録から消すことは許さない。私が何を怖がり、何を望んだのか。それを知ったうえで、今の私が選ぶ」
少女は白い花を胸に抱いた。
「私の答えを、あなたが先に決めないで」
その瞬間、箱の中の記録板が強く輝いた。
《本人による意思の再選択――第一段階、成立》
しかし、その直後に別の文字が浮かび上がった。
《未回収記録――創造に反対する意思が成立した瞬間》
《記録の保管場所:世界の成立境界》
少女は息を呑んだ。
願いの始まりは分かった。
けれど、世界を創ることへの反対が、いつ、どのように決定的なものになったのか。
その記録だけが、まだ欠けている。
そして、世界の外側の存在は、初めて明確な敵意を示した。
『その記録を開けば、世界の成立条件そのものが揺らぐ』
『次の接触は許可しない』
黒い亀裂が閉じ始める。
リリアは少女の手を取った。
「行こう。あなたが自分の答えを選ぶために、最後まで確かめよう」
少女は頷いた。
「うん。今度は、誰かに答えを決めてもらわない」
白い花が、彼女の手の中で淡く輝いた。
彼女たちはまだ、世界の未来を決めてはいない。
けれど、自分たちの意思を手放さないという約束だけは、確かにここにあった。
そして原初の空白の彼方で、閉ざされたはずの記録が、かすかに動き始めていた。
――第100話・
次回、第101話「世界が創られることを拒んだ日」




