第97話 創世の前に残された最後の願い
第97話 創世の前に残された最後の願い
『世界が生まれる前、私が最後に願ったことを――あなたたちは、本当に知りたいの?』
白い花の中心から響いた声は、誰かに答えを求めているようでいて、同時に、自分自身へ問いかけているようでもあった。
リリアは、少女の手を握り返さなかった。
彼女が初めて自分から触れてくれたことを、無理に何かの約束へ変えたくなかったからだ。
代わりに、そっと尋ねる。
「あなたは、知りたい?」
少女はすぐには答えなかった。
白い花を見つめ、何度か唇を開きかけては閉じる。
「……怖い」
やがて、彼女は正直に言った。
「もし、思い出した願いが、今の私の気持ちと違っていたら? 昔の私は世界を壊したがっていたのかもしれない。誰かを憎んでいたのかもしれない。今の私が望んでいないことを、昔の私が望んでいたとしたら……」
「そのときは、違うと伝えればいい」
リリアは静かに答えた。
「過去のあなたが何を願ったとしても、それが今のあなたの答えになるわけじゃないよ」
少女の瞳が揺れる。
「でも、過去の私は私でしょう?」
「そうだね。過去のあなたも、あなたの一部なんだと思う」
リリアは少し考えてから続けた。
「だけど、一部であることと、今のあなたのすべてを決めることは違うよ。昔の自分が何を考えていたかを知ったうえで、今の自分がどうしたいかを選んでもいい」
その言葉に、アレンが静かに頷いた。
「俺も、過去に交わした約束があるらしい。けれど、その約束を知ったからといって、今の俺が何も考えずに従えばいいわけじゃない」
彼は少女を見つめた。
「君が昔、何を願ったのか。その願いを知ったあと、君がどうしたいのか。どちらも、君自身の言葉で聞きたい」
少女は、しばらく二人を見つめていた。
やがて、白い花を胸元へ引き寄せる。
「……知りたい」
小さな声だった。
けれど、今度は迷いの中に、確かな意志があった。
「ただし、全部を一度に見せないで。私が怖くなったら、止められるようにしてほしい」
「分かった」
リリアは答えた。
「あなたが止めたいと言ったら、そこで止める」
その約束が成立した瞬間、花弁の一枚が淡く光った。
《記憶の開示条件――本人の意思を確認》
《開示範囲――第一断片》
《停止権限――本人に帰属》
外側の存在が、すぐに反応した。
『不完全な記憶の開示は、判断を誤らせる可能性がある』
「だから、全部を見ないんだよ」
リリアは、一つ目の光を見返した。
「あなたは、完全な情報がなければ判断できないと言う。でも、完全な情報を手に入れるまで本人の意思を認めないなら、その人はいつまでたっても選べない」
『選択には責任が伴う』
「うん。だからこそ、本人が選ぶ必要があるんでしょう?」
一つ目の光は、答えなかった。
白い花がゆっくりと開く。
その内側に、世界が生まれる前の光景が映し出された。
そこには、まだ空も大地もなかった。
ただ、果てのない静寂が広がっている。
その中心に、幼いエリシアが座っていた。
彼女の隣には、銀髪の少年――原初の観測者がいる。
そして、少し離れた場所に、今の少女と同じ淡い金色の髪、橙色の瞳を持つ少女が立っていた。
彼女は白い花を手にしている。
三人の前には、世界の設計図のような光が浮かんでいた。
無数の線が交わり、命の誕生や大地の形成、時の流れまでもが記されている。
「これが、世界になるの?」
金色の髪の少女が尋ねた。
幼いエリシアは、嬉しそうに頷く。
「そう。ここに命が生まれて、みんなが自分の好きな道を選べるようになるの」
「好きな道を?」
「うん。誰かに決められるんじゃなくて、自分で決めるの」
エリシアは、世界の設計図へ手を伸ばした。
「誰かが失敗しても、やり直せるようにしたい。間違えたからって、最初から存在しなかったことにはしたくないの」
その言葉を聞き、金色の髪の少女は微笑んだ。
「……それなら、私も賛成したい」
彼女は確かに、世界の創造を望んでいた。
少なくとも、この瞬間までは。
映像が揺らぐ。
次に映し出されたのは、同じ場所で交わされた、別の日の会話だった。
設計図の一部が、黒く塗りつぶされている。
そこには、世界の成立に不要と判定された可能性が並んでいた。
まだ生まれていない命。
誰とも出会わなかった未来。
一度も選ばれなかった願い。
それらは、世界を安定させるためという理由で、設計図から取り除かれようとしていた。
金色の髪の少女は、その一つに手を伸ばした。
「この未来は、どうなるの?」
観測者が答えた。
「世界には残らない。選ばれなかった可能性として、記録の外側へ押し出される」
「記録の外側へ行ったら、もう戻れないの?」
「今の仕組みでは、難しい」
少女は、手の中の白い花を見つめた。
「でも、そこにも誰かの願いがあったかもしれないでしょう?」
観測者は黙った。
エリシアが、少女の隣へ歩み寄る。
「だから私は、選ばれなかったものも記録できる仕組みを作りたいと思っているの」
「全部?」
「全部は無理かもしれない。でも、最初からなかったことにするのは違うと思う」
少女は、二人の顔を交互に見た。
「じゃあ、私が反対したことも?」
エリシアは不思議そうに首を傾げた。
「どうして反対するの?」
少女は答えなかった。
その代わり、世界の設計図の端に刻まれた文字を指さした。
《世界の成立に寄与しない意思――記録対象外》
彼女は、その文字をじっと見つめていた。
そして、かすかな声で尋ねた。
「……もし、私の願いが、世界の成立に役立たなかったら?」
映像がそこで途切れた。
リリアたちは、再び虚無の中に立っていた。
少女は顔を伏せ、両手で白い花を包んでいる。
「今のが……私?」
「そうだと思う。でも、まだ全部は分からない」
リリアは、無理に結論を出さなかった。
少女の頬には涙が流れていた。
「私は、最初から反対していたわけじゃなかったんだ……」
「うん」
「世界を創ることが嫌だったんじゃない。世界から、何かを切り捨てることが怖かったんだ」
彼女は震える息を吐いた。
「それなのに、私は……」
「まだ、最後まで思い出していないよ」
リリアは優しく告げた。
「今の記憶だけで、自分を責めなくていい」
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。
「……もう一つ、見たい」
白い花が再び光りかけた、そのとき。
アレンの持つ銀の欠片が、鋭い音を立てた。
同時に、カイルの指輪が激しく震える。
《記録の本来の所有者――照合中》
《第一断片との一致率:上昇》
《第二断片への接続を検出》
「何だ……?」
カイルが指輪を押さえる。
その表面に、新たな記録が浮かび上がった。
《警告:次の記憶には、記録の保護者による行為が含まれる》
カイルの顔が強張った。
「俺が……何かをしたのか?」
『記録の保護者は、記憶の封印に関与した』
指輪の奥から、先ほどの声が響いた。
『ただし、封印を実行した者と、封印を命じた者が同一であるとは限らない』
カイルは息を呑む。
「じゃあ、俺は命令されたのか? それとも、自分で決めたのか?」
声は答えなかった。
代わりに、指輪の中央へ新たな文字が刻まれる。
《記録の保護者自身の意思――未確認》
「……俺自身の意思まで、分からなくなっているのか」
カイルの声に、悔しさがにじんだ。
リリアは彼に声をかけようとした。
しかし、その前に少女が口を開いた。
「その記録は、私のものなの?」
指輪が、一度だけ強く光る。
《記録の受領者――本人による確認を待機》
少女は目を閉じた。
「……まだ、分からない」
それから、自分の胸に手を当てる。
「でも、もし私の記憶が誰かの記憶を傷つけるなら、私はそれも知りたい。誰かが私を守るために何かをしたのなら、その人の気持ちも聞きたい」
彼女は、カイルを見つめた。
「ただし、誰かが私を守ったという理由で、その人がしたことを全部正しいことにはしない。私が何を望んでいたのかも、ちゃんと知りたい」
カイルはゆっくりと頷いた。
「……分かった。俺も、自分が何をしたのか知りたい」
その言葉に応えるように、指輪の光が落ち着いた。
だが、記録が開くことはなかった。
《第二断片――開示保留》
《追加条件:記録の保護者自身の意思を確認》
外側の存在が、再び告げる。
『残り時間、十時間四十分』
虚無の向こうで、世界の輪郭がわずかに歪んだ。
遠くに浮かぶ無数の可能性のうち、いくつかが暗くなっている。
世界の安定性が、少しずつ失われているのだ。
ミラが焦ったように周囲を見渡した。
「ねえ、今は記憶を探っている場合じゃないんじゃない? このままだと、本当に世界が危なくなるんでしょ?」
「そうだな」
レオンが答える。
「だが、ここで少女に結論を迫れば、また同じことを繰り返す」
「じゃあ、どうすれば……」
リリアは、崩れかけた未来の光を見つめた。
世界を維持する方法。
選ばれなかった未来を消さない方法。
そして、誰かの意思を聞かずに結論を出す仕組みを変える方法。
まだ、何一つ確かな答えはない。
けれど、一つだけ分かっていることがあった。
「記録を残すだけじゃ、足りないんだ」
リリアは呟いた。
「忘れられないように記録しても、その記録を誰も読まなかったら? 残された願いが、ただ保存されるだけだったら?」
セフィルが、静かに目を見開いた。
「……記録の存在と、意思の尊重は別だということか」
「うん。残しておくだけじゃなくて、その人が何を願っていたのかを、誰かが聞ける仕組みが必要なんだと思う」
少女は、リリアを見つめた。
「それができたら……私は、世界を創ることに賛成できると思う?」
「それは、私が決めることじゃないよ」
リリアは微笑んだ。
「でも、あなたが考えるための材料にはなるかもしれない」
少女は、初めて少しだけ笑った。
「……あなたは、不思議な人ね」
「よく言われるよ」
「自分が神々を超える力を持っているのに、何でも自分で決めようとはしない」
リリアは、手の甲に浮かぶ創世の紋様を見つめた。
「昔は、自分が頑張れば何とかできると思っていたのかもしれない。でも、誰かの未来を守るために、その人が選ぶ機会まで奪ってしまったら……それは、私が望む世界じゃない」
彼女は少女へ向き直る。
「私は、あなたの代わりに答えを出すために、ここにいるんじゃない。あなたが自分で答えを出せるように、一緒に考えるためにいるんだよ」
少女は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間。
白い花の中心から、小さな光が一つ、浮かび上がった。
今までの光とは違う。
誰かの記憶でも、過去の映像でもない。
まだ存在していない、未来の可能性だった。
《新規条件――検出》
《未確定の意思を保存するだけでなく、本人の意思による再確認を可能とする仕組み》
《世界創造の成立条件――更新候補》
外側の存在が、初めて沈黙した。
そして、光の中に、一つの問いが刻まれた。
《記録された意思は、未来の本人によって拒絶されても、記録として残すべきか》
少女は、その問いを見つめた。
今度は、すぐに答えようとはしなかった。
「……それも、考えたい」
彼女はそう言って、白い花を胸に抱いた。
「昔の私の願いを知ることと、今の私がその願いを受け入れることは、別だから」
《本人の意思――継続中》
《最終判断――保留》
その記録が刻まれた直後、世界の設計図の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……ありがとう』
誰の声なのか、分からなかった。
エリシアのものか。
観測者のものか。
それとも、まだ記録に残されていない誰かのものか。
ただ、その声には、長い間、誰にも聞いてもらえなかった願いが、ようやく届いたときのような安堵があった。
少女は顔を上げた。
「今の声……」
リリアも気づいていた。
声が聞こえたのは、過去の記憶の中ではない。
まだ選ばれていない未来の向こう側からだった。
そして、そこに浮かんだ最後の文字を見て、アレンの表情が変わった。
《未記録の意思――一件》
《記録者:不明》
《記録日時:世界創造後》
アレンは、銀の欠片を握りしめた。
「……世界が生まれたあとにも、誰かが記録を残していた?」
もし、それが本当なら。
世界が創られた瞬間に、すべての可能性が切り捨てられたわけではない。
誰かが、成立した世界の外側から、消されたはずの意思を記録し続けていたのかもしれない。
だが、その記録者が誰なのかは、まだ分からない。
そして、なぜその記録が今まで隠されていたのかも。
外側の存在が、低く告げた。
『残り時間、十時間三十分』
『世界の成立条件に、未承認の変更が発生している』
一つ目の光が、リリアたちを見据える。
『変更を認めれば、世界の法則は不安定になる。拒絶すれば、第三の存在の意思は再び記録対象外となる』
少女の手が震えた。
けれど、今度は目をそらさなかった。
「……まだ、選ばない」
彼女は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「私は、まだ考えている途中だから」
リリアは、彼女の隣に立ち続けた。
世界を守ることも。
失われた意思を救うことも。
そのどちらも諦めないために、彼女たちは、まだ誰も選んだことのない可能性を探し始める。
その先に何が待っているのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
第97話 終
次回、第98話「世界の外側に残された記録者」




